痛んでいる人が無理をすると、ときに大きな失敗をする。
それはすでに気持ちが平穏ではないからで、
ただ、静かに集中して向かうことが難しいからである。
これは、とても「普通」のことで、誰だって集中できないときがあるし、
集中できなければ痛んでない人だったって
失敗の確率は上がるのだ。
でも、痛んでいる人はその「普通」にも、ときに気づけない。
すべては自分だけが劣っていて、自分だけがダメなせいで
自分だけが、やっぱりもう上手に生きていけないんだ、と、
未来まで含め否定してしまうのだ。
自分でそう思い込み、未来さえ自分自身が決定してしまう。
そんなふうに、うまく出来ない、と自ら決めつけてしまえば、
ますますその「意志」によって畏縮し、緊張し、
実際に失敗する確率が高まるだろう。
そのうち、それをやることさえイヤになるのも当たり前で、
だってこれ以上、自分にがっかりしたくないし、
迷惑をかけて他人にがっかりされるのはもっと怖くて、イヤだからだ。
その一番の原因は、自分が病によって、
うまくできなくなっているときがあることを、
自分で認め、ゆるしていないことにある。
病になったんだから、仕方ない、できる範囲だけ、ゆっくり丁寧に
向き合っていこう、という割り切りができないゆえ、なのだ。
もちろん、人に迷惑をかけることはある。
だからそうそう、開き直ることはできない、ということもわかる。
それでもなお、病を認め、現状がそうであることを受け入れ、
そこからあらためて回復していかない限り、抜け出せないのだ。
わかってるよ、そんなこと、という怒りを感じるのであれば、
あなたはまだ、昔の自分という見栄を忘れていない証拠だ。
私自身がまさにそうだったから、少し厳しいことを言えば
その見栄こそが、あなたを病に追い込んだ可能性だってある。
できる自分じゃないと、ゆるせなくて。
逆に、できない自分を決めつけて追い込んだ人もいるだろう。
場合によっては、他人に追い込まれて、できなくなった人もいるかもしれない。
うん。そうだよね。つらいよね、いずれにしても。
それを身にしみて知っているからこそ、私はこう言う。
いいのだ、今、あるいはもう、できなくても。
あなたの価値は、できるとかできない、という部分にあるのではない。
人に優しかったり、元気だったり、意志が強かったり、
きちんと真面目にものごとをやりとげようとしたり、
体力をしっかり維持できていたり、面白いことを言って人を楽しませたり、
他人の話を聞けたり、思いやりがあったり、落ち着いていたり。
そういう人間味という部分には、あなたの良さが、しっかり現れている。
そしてそれは、病が治ればまたすぐ、回復できるのだ。
できる、できないという類のものに比べれば、
ずっとずっと簡単に。
あなたが備えているその宝石は、他の誰にもないあなたの輝きであり、
その「味」は、病によって一時的に弱くなることはあっても、
必ず、あなたからにじみ出ている。
そしてそれは、できる、できないより、ずっと大切なことなのだ。
だいじょうぶ。自信をもっていいよ。あなたはあなたという、
とてもステキな個性をもった、1人の大切な、人間だから。
すべてをあきらめてしまわないで、もう一度、ここから。
やり直す、のではなく、病の原因を知って、
よりよい、新しい自分になっていって、いいからね。
その道を、探して、いこう。