カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

あなたの中の あなた

あなたの中には たくさんのあなたがいる

何かひとつの出来事にぶつかったとき

こうしなくちゃ そんなのはできない こうあるべき でもやっぱり 誰かに○○すべきじゃない?

いろいろなあなたが かしましく議論を交わし

そのうちの「もっともよい」か 「もっともマシ」なものを あなたは選択する

鬱になっていると あなたの中のあなたは その多くが 否定形で

できない だめ 私には無理 そうなるはずがない この先もだめ もう二度と

そんな言葉が がんがん飛び交う

でもね 耳をすませて 本気で耳をすませて 聞いてほしい

その中に ほんのひとつだけ 小さな小さな声で 泣きながら 訴えている あなたがいるのだ

もういやだ どうして 私は こんなに 自分を 否定してるの

どうして私は私を こんなに延々と 否定しなくちゃ いけないの

こんなふうに 自分を否定するの ホントは イヤなの

理屈なんかじゃないよ 私は ただ もう 痛いの

なのに 理性とか 対社会とか プライドとか 大人としてとか 人間としてとか

そんなことばっかり言う私が ずっと ずっと 毎日 四六時中 私を傷つけるの

おまえは馬鹿だ 弱い 無理 ダメだって ずっと 傷つけるの

ねえ 私は そこまで自分を否定するほどの どんな悪いことをしたの?

いったい どれほどのあやまちを おかしたというの?

そうした声は 「甘えている!」と主張する あなたの別の声によって かき消され

あなたが あなた自身に傷つけられて苦しいという感情は あなた自身によって 否定される

あなたには 「こうあるべき」理想のあなたがいて

泣いて助けを訴えるあなたなんて 理想からは はずれているから

そんなのは ステキなあなたではないから あなたは あなたの声を 無視するのだ

でも あなたが自己否定を続ける限り

痛い 痛いと 訴える 小さな声は なくならない

否定すればするほど あなたはどんどん 苦しくなっていく

そうして 理想と 痛さの あまりの矛盾ゆえに

最後には自分を 消去したくなるのだ

自分が一番 自分を痛めつけているのに その気持ちに嘘をついて 無視しているから

ねえ そんなことは 本当は 必要ないの

あなたは あなたを そんなにも 否定し続けなくていいの

うまくいかないやり方を 学んだだけであって

次からは そんなに痛いんだから ちゃんと別のやり方を 探せるのよ

あなたが その 自己否定の罠から 自分を助けたいのであれば

最初にやることは あなたのその小さな声に 耳を傾けてあげること

痛かったね ずっとずっと傷つけてきたね つらかったよね 苦しかったよね って

自分の中の 傷ついた自分を 抱きしめて 謝ってあげること

どんな自分であっても 自分を大切にすること まず自分の気持ちを 大事にしていいこと

そのうえで 他者と関わっていいこと

自分を大切にしたうえで 他者をも 同じように「尊重」していいこと

「優先」ではなく 同等の「尊重」でいいこと

そこには 社会的な理想も 立派な責任感も 必要はなくて

ただ あなたはあなたという存在であって 人は人という存在であって

それぞれみんな 大切であること それぞれを 尊重してあげていいのだということ

自分に謝る それをまず 自分自身に ゆるしてあげていいのだ

死は 究極の自己否定だから 確かに死んでしまえば それで終わりになるだろうけれど

そこに行き着くまでには 徹底的に自分を痛めつけなくてはいけない

それは本当に本当に 苦しい道のりになる 究極の苦しみを 自分で自分に与え

ギリギリまで 締め付けなくては いけないから

ねえ そんな道を 選ばなくても 本当は いいの

あなたは あなたのなかの 小さな声に 耳を傾けて

自分と他人の両方を尊重するやり方を 新たに 知っていけばいいの

痛んでいる自分が 今 ここにいるということを まず一番最初に ゆるしていいのよ

自分がその状態であることを 傷つけていることを 認めてあげられないから

その罠から 抜け出せないだけなの

そこにいる その状態であると知るからこそ そこからやっと抜け出せる道も 探せる

自分のいる場所が 自分でわからなければ ずっと 迷子のままなのよ……

あなたを 苦しみから解放する道の第一歩は 本当は そうして始められる

どうか そのことにどうか 気づいてほしいと 心から真摯に願う

そして そのためのサポートも どうか受けてほしいと 願う

休む必要があったから……

休む必要があったから、あなたは鬱という病にかかったのかもしれない。

周りからの、あるいは自分自身からのひどい仕打ちを受けて

そこからいったん、逃げ出す必要が、たぶんあったのだ。

あなたはそこまで、自分を追い詰めつめてしまったのかもしれない。

悲しいことにわざわざ、脳の健康状態を不安定にさせてまで、

その状況から、抜け出す必要があったのだ。

だから原因が外部であろうとなかろうと、これから先、

あなたは、自分をそんなにも追い詰めるようなことを

もう、しないでいいように、自分を変えていく必要もあるだろう。

外部が原因であれば、必要以上に相手を重く受け止めないような考え方や

感じ方、それに基づく実際の対処を。

例え実際、どんなに非人間的な待遇をされたとしても、

人は普通、それがすべて相手のせいだから、と恨み続けていくと、

その恨み、という感情自体を持ち続けるつらさに、

また、自分の心が痛んでしまうのだ。

だからその部分で、例えば、あれは過去であり、今ではない、と

自分が受け止められるようになっていくことは大切だろう。

あらゆる人が自分をないがしろにするように感じ、

社会が許せない人は、何が自分をそのような感情に追い込むのかを、

知っていく必要がある。知ることで、自分の感じ方のクセを見つけ、

悪い部分がもしあれば、それを変えていくのだ。

社会が自分を大事にしてくれない、わかってくれないのは、

自分が自分を大事にしていないか、

あるいは逆に、自分のことは自分の思い通りに絶対操れる、とか

または他人にやってもらうのが当たり前に

感じられているからかもしれない。

そういうことを、発見していく必要はあるだろう。

あなたは、あなたの感じることを大事にしていい。

そこに、他者との比較による卑下や卑屈さや傲慢さを加えることは、

本当は意味がないのだ。

周りの人も、自分も、それぞれ、自分は大切。

そういう謙虚さと自分を尊ぶ気持ちを両方、

感じるようになれれば、自他への甘えも起こらなくなるはず。

ただ素直にあなたも私も、自分が大事な存在であっていいのだ。

そしてまた、そんなふうに見渡せるようになれば、

世界はあなたにとって、ただ苦しいだけのところではなくなる。

これはきれいごとを並べた、言葉だけの話ではない。

うまくいっているときも、いかないときも、いついかなるときでも、

自分の感じている気持ちや感覚をありのまま、よし、としていいことを

自分が実感することは、可能なのだ。

そういうことを知るために、もしかしてあなたは

自分を「病」にさえした……のかもしれない。

反発、も、また。

昨日の話で、力にしてくださる方には、それがすでに備わっている、と書いた。

これは「良い」方向だけの話に限らない。

「なんだよ、それ、違うよ!」と感じられる方も、同じなのだ。

ただ、それがストレートに表れないだけで、気づきのヒントになる、

その力をすでに持っているという部分では同じ。

なので反発や違和感や心苦しさや、そういう、何らかの「心の動き」を感じられた場合には、

それを少し離れた位置から、冷静に見つめてみてほしい。

「どうしてこれに、納得できないんだろう?」と。

そこに、あなたが大事にしている価値観や、逆に、小さい頃に教わり固めてしまったガチガチの思い込みや、

経験で痛い目に遭い、「もう無理」と思い込んでしまった決めつけが、見つかるかもしれないのだ。

「人は自分の鏡」という、仏教の説話のような話は、そうやって使うと、

結構な確率で「重要なメッセージ」として役立つ。

何かが引っかかった、マイナス方向であっても心が動いた、ということは、

そこに「あなたの持っている何か」が、潜んでいるのだ。

たとえば、自分にイヤなことをしてくる相手、そのイヤなことの内容が

実は昔、自分もやってしまって後悔したことがある……ようなものだったり、

逆に昔、それですごくつらい目に遭って、そのときどう対処したらいいかわからなかったため、

もう自分のなかで「怖いもの」になってしまっていて、

今なら上手に対処できるのに、反射的にいきなり反発してしまう、見たくなくなってしまう、とか。

犬に噛まれたことがある人が、大人になってからも小さい犬でさえ苦手なのと、少し似ているかもしれない。

イヤだから、怖いから……。そういう、思い込みや決めつけのようなものが、潜んでいるわけである。

で、「そういうもの」に気づいたら、「じゃあ、本当にそうなの?」と、自分にまた、静かに問いかけてほしい。

すると、今はもう少し、自分だってだいじょうぶになっているのでは? とか、

それって実は、こういう別の見方もできるのでは? など、

そこにフッと、何かしらの「思い」が湧いてくることがあるのだ。

そうしたら、あなたの中の「思い込みの固まり」が少し、ほどけることになる。

ただし、『イヤだ』という感情に強く支配されていると、こうしたこともうまく浮かんでこないので、

少し時間が経ってから、とか、自分が落ち着いて見つめられるときにやってほしい。

さらに同様に、これは、イヤなことを言ったその本人に対しても、使うことができる。

何かを断定し、こういうときはこういうものだ、と押しつけてくる人は、

それによって「自分を相手に認めてほしい」ことも多い。

相手から「そうだね」「すごいね」と同意・尊敬・感謝をしてほしいのだ。

それは裏を返せば、他人から認めてもらうことによって、やっと自分を認められる、

自分で自分のことを認められていない、許せていない、愛せていない人、なのかもしれない。

これが行き過ぎになると、たとえば「強引」につながったりする。

常に自分の言うことに従ってればいいんだ、それが正しい、間違わないんだ、というパターン。

その人はそうやって、なんとか自分の価値を、自分で保とうとしているかもしれないのだ。

そしてこれは、こういうことを書いている私にもまた、当てはまりうる話。

なので、私は極力「私はこう考える」という、自分の意見としてのニュアンスを残すように心がけている。

それが一番正しいのだ、とか、世間一般はこうだ、という感じの決めつけにならないように……。

とはいえ、もし、そう感じることがあったら、ぜひ、メッセージやコメントなどでご指摘くださいm(_ _)m

それはまた、私の学びになるのです……。