カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

人としての誇り

誰かと比べて 社会と比べて 自分の存在価値を はからないでください

人として この世に生まれたのですから あなたは 価値を持っています

何かを成すから 役に立てるから 存在していてもいい という話ではありません

何かを成し遂げたり 誰かの役に立ったりすることは 「自分の」喜びにつながります

人はもともと そういうふうに できています

だから 病のせいで何もできなくなると つらいのです

それでも

その病を治していけば あなたはまた その喜びを 感じられるようになります

できないと「決めつける」のは 脳のミス 病の症状であり

あなたの脳が今 勝手に そう感じているのです

そうした判断ミスを 犯しているのです

心は 人とのふれあいを求め 何かをして達成することを求め 充実感を 求めます

でも 身体や頭は 言うことを聞かず それゆえに できない と思ってしまいます

それこそが この病の 症状 なのです

あなたは 病のときであってさえ 自分を大事にしてあげていいのです

病のときだからこそ なおさら 自分に優しくしていいのです

そうすることで その病から やがて 離れることができます

できるときに できる範囲のことを 無理のないやり方でこなす

ご飯を食べる 寝る 起きる それだって今は 大切なのです

欲求がかなえられないからと 自分や人に八つ当たりするのは

あとで自分が苦しいだけなので もうやめにして

今はただ できるだけ ゆるやかに過ごすことを 自分に「許可」してください

やるべきことだけ やらなくちゃいけないことだけ なるべく丁寧に ゆっくり やって

あとは 自分に優しくして いいのです

あなたは いかなるときでも 自分に価値を認めてあげていい存在です

誰かより ではなく 何かするために ではなく

そんな比較をするのではなく 自分は 自分であっていい

ただもう それだけで 本当はいいのです

人として生まれたのであれば 「自分」という誇りを 持っていていいのです

それが すべての始まりとなり 本当は すでにあなたはそういう存在です

だから だいじょうぶ 今は何より その病を治していきましょう

そしてまた あの「喜び」に少しずつ 向かっていきましょう

小さいけれど

小さい小さい 存在の 小さい小さい 自分だけれど

自分にとっては意外に自分は大切で 意外に扱いが難しい

一人ひとりの人間なんて 地球から見たら ちょこまか動いている存在でしかない

表面で 土地やお金の争いをずっとしてきて

いまはまた 上に高く高く昇ろうとしたり 地下に潜ろうとしたり 海を探ろうとしたり

皮一枚の上で なんだかはいずり回っているようなものだ

その地球だって 太陽から見れば小さな惑星で

太陽だって 銀河系の端っこの小さな星系で

そんな視点で見れば 確かに私たちは ものすごく小さい存在なのだ

なぜ生きているのか なぜ寿命があるのか なぜこういう「存在」になったのかは

誰にもわからなくて

ある人は「進化」だと言い ある人は「神のはからいだ」と言う

物理学や宇宙学の研究者でさえ 生命の誕生する条件があまりにも「整いすぎている」ために

「何かが そう仕組んだとしか思えない」ほどの 神秘性を感じるのだという

こだわらなくてもいい とあなたは言う

そんな小さな存在の 生が 死が なんだというのだ と

その答えはきっと 誰にも推測するしかできない

この先もずっと 誰も正解は出せない

でも だからこそ なぜか知らないけれど 「生きる」ことになっているであれば

それこそ そのままで いいのではないか と

いつか お迎えは来る

自分の身体に どんなにお金をつぎ込もうが 努力しようが それは来る

はなから そういう設定になっているのだったら

どうしてわざわざ そうしたちっぽけな存在が 脳みそだけで考え 悩み 苦しみ続けたうえに

さらに生きものにとって 一番苦しい行為のひとつである 自分を死に追い込む選択をせねばならないのか

それは やはり頭のなかだけの 思考 なのではないだろうか

もし いまの苦しみから 徐々に脱することができるなら

わざわざ 死は 選ばなくてもいいはずだ

そして本当に そこから 自分で徐々に脱することも できるのに

絶対できない と決めつけているのは 自分自身だ

小さな存在である 私たちが どんなにあがこうとも

いつか自然にお迎えがくるのであれば

徐々に脱する道を 自らが決意して 選んで

お迎えの来るその日まで 静かに小さく 充足して生きれば

本当は それが 自分にとって ラクで 楽しくて

結果的には 自然で ありのままの 選択になるのではないだろうか

いまもう すでに 生きているからこそ そんな無理をする必要は ないのではないだろうか

小さい小さい 私たちは その小さき存在のまま いますでに 生きているのだから

なぜわざわざ無理して 苦しんで こだわって

もっとも大切な自分を もっともいじめ抜く行為となる 死を選ぶのだろう?

その必要性は いったい どこにあるのだろう?

死と向き合うことで

他人と自分の 自死という選択肢に まともに向き合ったことで

私が知ったこと 私が受け止められたこと

その 単純な羅列

死は すぐそばにある

怖い意味ではなく ただ いつかお迎えが来る

ならばその日まで 私は静かに生きよう なるべく悔いが残らないように 静かに

生まれた人は そうやって お迎えが来るその日まで 生きていていいのだ

死をあきらめ 生きていこうと思い直すことは 生き恥をさらすのではなく 勇気のある行為だ

自分がいかに 自分しか見えておらず 周囲に 世間に甘えていたかを 自覚する行為なのだ

鬱という病の恐ろしさは 死を見つめてしまうことであるが

鬱という病は 自分がそこから抜け出そうと本気で思えば 他の 死に近づく大病に比べ

治していける確率がかなり高くなる

自分さえ覚悟すれば 死からも 薬からも やがて離れられることも知った

生きていくということは 自分で自分を 少しでも幸せに近づける練習の場だ

大きな成功や「端からでもはっきりわかる」幸せは あるに越したことはないけれど

それがないと 自分が幸せになれないわけではなく

自分で 自分を 小さな幸せで囲んであげていいのだと

50点の仕事ぶりなら 50点取れたことを喜び

80点取れたなら そこまでできた自分をほめてあげていいのだ

残りの20点を悔やみ 反省し 落ち込む必要もないし

次は90点というハードルを 無理に課す必要もないのだと

さまざまな人が 悩み 苦しみ 自分と戦い ときに和解もしながら

それでも 自分らしい楽しさを見つけつつ 生きている

甘ちゃんだった私に比べれば ずっと一所懸命 ずっとがんばって 生きている

その力のすごさ たくましさ 素晴らしさは

私が 死をまともに考えたからこそ 知ることができたもの

あのとき死にたいと思ったことは 私にとって 決してムダではなかったのだ

今は いつお迎えが来てもいいように 丁寧に生きていこうと思えている

そう思えるようになった自分を よかったと感じられるし

そう思わせてくれた ありとあらゆるご縁 出来事に 心から感謝する

私は そして 人は誰でも 生きていて いいのだ

生きて 小さく または大きく 充足して

日々 自らを 静かに幸せにしてあげても 構わないのだ