カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

当たり前、ではないことを

支えたい と思える相手がいること

支えてくれる相手 という関係性をつくれていること

仕事に出かけられること

学校に行けること

食事をきちんと食べられること

睡眠をとり 朝に目覚め 少しでもすっきりできること

お風呂に入れること

時間通りに動けること

家事ができること

音楽などの趣味に 少し気が向くこと

家を片付けようと思いたち 動けること

ほんの少しでも 外見を気にすること

気分転換に 散歩に行けること

そんなふうに 日々を過ごせることは

決して「当たり前」でないのです

寝ているしかできず

朝日を浴びるのもいやで

食べられる食材の買い物以外 外に出られず

必要最低限のシャワーしか浴びられず

ネットで「楽な死に方」探ししかできず

泣き ただ自分を否定し ギリギリ痛めつけることしか できなかった私からすれば

それは決して 「当たり前」のことではないのです

そんな日々を過ごせるあなたは

病を抱えていても 十分「健康」の範囲内にあり

十分「やり直せる」範囲内にあり

十分「自分のことを大切にできる」人であり

素晴らしい 美しい 立派な存在なのです

否定ばかりが続く気持ちも やり場のないつらさも 逃げようのない痛みも 知っているからこそ

それでもなんとか そのように日々を生きているあなたを

私は心から 尊敬できるのです

本気で 心から すごい人だと 思えます

それが私の 本当の気持ちです

ですから少しでも できていることを どうぞ誇りにしてください

これからも 少しずつでも できるようになっていけることを 信じてください

あなたは十分 だいじょうぶ なのです

その可能性は 私からは はっきり見えているのです

焦らずに どうか焦らずに 日々を 生きてください

私はこれからも そんなあなたを 尊敬し続けます

暗い気持からではなく ただ 静かに 今のありのままのあなたを 尊敬します

自分がダメだと言う人は

自分がダメだという人は

ある意味、自分の弱点には気づいている人である

ただ、自分がダメだという人は

そう思いうる状況に何度も出会い

上手に対処できなくて

それをすべて自分のせいにした人である

そう思いうる状況というのは

実はその人のせいで起こったことではないかもしれないのに

自分がダメだと思う人は

その状況を、自分のせいだと「解釈」したのである

自分がダメだと思っている人は

死を考えるほど自己否定した挙げ句にそこから抜け出さざるを得なかった私から見れば

自分をある方向からの解釈のみで判断し

それゆえにダメだと「思いこんだ」人である

そしてあるいは、鬱という症状により

その思いが一時的に強化されてしまった人だと

あなたは本当にダメなのではなく

ある解釈のワナに落ち込んでしまっただけであることに

いつか、気づいてもらえたらと願う

いつか、そのワナの存在に気づき

そこから抜け出せると気づける日が来ることを

本当に本気で 心から願う

自分の気持ちを、ほどいていく

鬱がひどくなってくると、自分が「この世界には要らない存在」に思える。

私の場合は、「要らない」というだけでなく、「いてはいけない、邪魔」という感じで捉えていた。

この先、人にかけてしまうであろう迷惑。

もうこれまですでに、周囲の人にいっぱいかけてしまっているのに、

今後さらに、かけてしまう(と決めつけている)、迷惑。

それに対する罪悪感が強くて、「あらゆる周囲の人」に申し訳ない、という感覚だった。

これが、鬱という病のなかで「もっとも重い症状」のひとつだと、今の私には思える。

風邪を引いたら急性肺炎に至って、自分で一時的に呼吸できなくなってしまった……と同じくらい、ひどい症状。

そこから、その症状を和らげるのには、けっこうな努力を要する。

私のように、友人の死と知人の死が、合間を少ししか置かずに重なって、

なんだかもう、強制的にストップされるくらいの、ひどく強い衝撃がないと、

この症状は、「外からの影響」では止められないのかもしれない、と思う。

しかも私の場合、ひどく悲しくてつらい経験による「過激なショック療法」みたいな形になってしまったから、

そんな経験、方法を、他の方には味わってほしくないと思える。

症状を和らげる……、つまりその苦しい状態から立ち直っていくための努力。

それが何を指すのか、というと、「自分を見つめ直す」という作業である。

しかも、かなり客観的に、冷静に、自分を見る必要がある。

「これまでずっと思い込んできた思考のクセ」を探して見つける、という作業なのだ。

以前にも書いたように、長所と短所は、ある面において、表裏一体のように存在する。

他人に優しい人は、ときに、人に甘い。あるいは、人を自分より優先させる。

意志の強い人は頑固になりすぎるかもしれないし、頭の回転のいい人は、人を見下すかもしれない。

冷静な人は冷たい、時間をあまりにも守ろうとする人は堅苦しくなりがち……など、

いろいろな例を思いつくことができるだろう。

本来、あなたの長所でもある部分が、その裏面にある「短所の面」が強くなったがゆえに、

あなた自身を苦しめている可能性は、決して低くないのである。

表裏一体だから、決して、悪いとは言いきれない。要は程度や、バランスの問題である。

だから、あなた自身は「それがマイナス方向に働きすぎていること」に、気づけない。

「え、だって、意志が強くないと、人間、ダメじゃない」「時間を守って何が悪い」、などと思ってしまうのだ。

別に意志が弱くても人間は「ダメ」じゃないし、別にそこまで厳密に時間を守らなくても

だいじょうぶなときだっていっぱいあるのに、そこに、気づけないのだ。

このように静かな書き方をすると、「自分はそこまで極端じゃない!」と思えるかもしれないが、

いや、すでに「死」を考えている時点で、十分に、極端である。

そこに至ってしまう過程において、何かの「極端な無理」は、ほぼ必ず、経験しているはずで、

それを経験するもとになった「考え方のクセ」も、一つや二つ、あるいは3、4、5……。

いくつ抱えているか、わからない。

そう、自分を見直す、というのは、まさに、ごりごりに絡まってしまっている毛糸玉、のような

自分の気持ちを、ひとつひとつ、丁寧に、ほどいていく作業なのである。

……怖いかな。「真実」と向き合うような、気がして。

でも、そのときに、あなたの長所も、一緒に見つかっていくのだけれど。

悪い「クセ」は、あなたの「よいところ」を照らしてくれる、電球のような役割を果たすのだ。

そして、今の「生きにくさ」も、なぜ自分がこんなに「苦しい」のかも、

自分で理解して、しかも「腑に落ちる」ように納得していける。

いっぺんに、全部ではないかもしないけれどね。

そういう「視点」の切り替え方を学ぶと、あとは徐々に、応用できるようにもなって、

だんだん、自分の「表裏一体」なところを、見つけられるようにもなる。

で、「ああ、こうやって“行き過ぎ”や“やり過ぎ”に走ってたのか、私」って、肌でわかるようになる。

それを繰り返して、自分を解きほぐし、ゆるめていくと、面白いことに、ちょっとだけ「楽しい」感じになっていく。

自分の「おバカ」加減を、なんだか自分で笑っちゃうような感覚。

笑いながら「ホント、バカだったなあ、仕方ない、どうしようもないヤツだな、私って」と思えるようになる。

それはつまり、自分をちょっとずつ、許せていけるようになるってこと。

そして「ごりごり」の「ガチガチ」だった苦しさもまた、減っていくのだ。

誰かを、好きになった経験がある人なら、わかってもらえると思う。

見た目も、性格も、身長も体重も、すべて100%自分にとって完璧で、

だから一目惚れした……なんてことは、めったに起こらない。

せいぜい、アイドルに対する憧れくらいで、目の前にいる人に対しては、まれだろう。

しかし、その人のことが好きになると、自分の好みじゃない部分は「大した問題」じゃなくなる。

もうちょっと、鼻がすっきりしてたらいいのに、もうちょっと、指が細かったらいいのに、なんてことは、

「アバタもエクボ」になるか、「小さくて、それほど気にならないアバタ」に変化するのだ。

今、あなたは、自分に対して、「エクボ」が「アバタ」に見えている。

「エクボ」どころか、言ってしまえば身長も体重も、髪質も手足・顔の造作も、

全部「アバタ」クラスになっているようなもの。

何より性格なんて、「アバタ」どころか「真っ黒のダメ人間」である。

それが、「仕方ない、アバタはアバタなんだ……」になっていけたら?

少しずつでも、気にならなくなっていけたら?

「自分は死ぬしかない、必要のない人間だ」なんてところからは、抜け出せる気がしないだろうか?

あなたは、あなたのことを、そこまでキライにならなくていい。

あなたはもうちょっとくらい、自分を好きになってあげていい。

本当は、自分のことが自分で一番好き! くらいになって、いいのだ。

今のあなたには「あり得ない」話かもしれない。

でも、そうなれる道は、そうなっていくための道は、あなたが「人間」である以上、残されている。

人は、ものを考え、悪い点を認め、改め、いい点を認識することができるだけの「頭脳」を、

あらかじめ、備えているから。

今、ベッドから起き上がれないような人だって、自分を好きでいてあげて、いいのだ。

自分を、自分の人生を、大事な、かけがえのないものだと、思っていいのだ。

そういう道を、ちょっとくらい、探してみたいとは、思わないだろうか。

見つけ方の具体的な「手法」は、過去に何度か、書いたことがあるけれど、

改めて、明日から、書いていこうと思う。

基本的には、「人に話すこと」「書くこと」になる。

別に話を引っ張りたいわけでもないので、その「手法」が気になる方は、

私の4月11日~15日、24日、6月8日あたりの文章を、読んでいただければ幸いである。

そこで書いていた話を、整理してまとめ直していくつもりだ。