鬱がひどくなってくると、自分が「この世界には要らない存在」に思える。
私の場合は、「要らない」というだけでなく、「いてはいけない、邪魔」という感じで捉えていた。
この先、人にかけてしまうであろう迷惑。
もうこれまですでに、周囲の人にいっぱいかけてしまっているのに、
今後さらに、かけてしまう(と決めつけている)、迷惑。
それに対する罪悪感が強くて、「あらゆる周囲の人」に申し訳ない、という感覚だった。
これが、鬱という病のなかで「もっとも重い症状」のひとつだと、今の私には思える。
風邪を引いたら急性肺炎に至って、自分で一時的に呼吸できなくなってしまった……と同じくらい、ひどい症状。
そこから、その症状を和らげるのには、けっこうな努力を要する。
私のように、友人の死と知人の死が、合間を少ししか置かずに重なって、
なんだかもう、強制的にストップされるくらいの、ひどく強い衝撃がないと、
この症状は、「外からの影響」では止められないのかもしれない、と思う。
しかも私の場合、ひどく悲しくてつらい経験による「過激なショック療法」みたいな形になってしまったから、
そんな経験、方法を、他の方には味わってほしくないと思える。
症状を和らげる……、つまりその苦しい状態から立ち直っていくための努力。
それが何を指すのか、というと、「自分を見つめ直す」という作業である。
しかも、かなり客観的に、冷静に、自分を見る必要がある。
「これまでずっと思い込んできた思考のクセ」を探して見つける、という作業なのだ。
以前にも書いたように、長所と短所は、ある面において、表裏一体のように存在する。
他人に優しい人は、ときに、人に甘い。あるいは、人を自分より優先させる。
意志の強い人は頑固になりすぎるかもしれないし、頭の回転のいい人は、人を見下すかもしれない。
冷静な人は冷たい、時間をあまりにも守ろうとする人は堅苦しくなりがち……など、
いろいろな例を思いつくことができるだろう。
本来、あなたの長所でもある部分が、その裏面にある「短所の面」が強くなったがゆえに、
あなた自身を苦しめている可能性は、決して低くないのである。
表裏一体だから、決して、悪いとは言いきれない。要は程度や、バランスの問題である。
だから、あなた自身は「それがマイナス方向に働きすぎていること」に、気づけない。
「え、だって、意志が強くないと、人間、ダメじゃない」「時間を守って何が悪い」、などと思ってしまうのだ。
別に意志が弱くても人間は「ダメ」じゃないし、別にそこまで厳密に時間を守らなくても
だいじょうぶなときだっていっぱいあるのに、そこに、気づけないのだ。
このように静かな書き方をすると、「自分はそこまで極端じゃない!」と思えるかもしれないが、
いや、すでに「死」を考えている時点で、十分に、極端である。
そこに至ってしまう過程において、何かの「極端な無理」は、ほぼ必ず、経験しているはずで、
それを経験するもとになった「考え方のクセ」も、一つや二つ、あるいは3、4、5……。
いくつ抱えているか、わからない。
そう、自分を見直す、というのは、まさに、ごりごりに絡まってしまっている毛糸玉、のような
自分の気持ちを、ひとつひとつ、丁寧に、ほどいていく作業なのである。
……怖いかな。「真実」と向き合うような、気がして。
でも、そのときに、あなたの長所も、一緒に見つかっていくのだけれど。
悪い「クセ」は、あなたの「よいところ」を照らしてくれる、電球のような役割を果たすのだ。
そして、今の「生きにくさ」も、なぜ自分がこんなに「苦しい」のかも、
自分で理解して、しかも「腑に落ちる」ように納得していける。
いっぺんに、全部ではないかもしないけれどね。
そういう「視点」の切り替え方を学ぶと、あとは徐々に、応用できるようにもなって、
だんだん、自分の「表裏一体」なところを、見つけられるようにもなる。
で、「ああ、こうやって“行き過ぎ”や“やり過ぎ”に走ってたのか、私」って、肌でわかるようになる。
それを繰り返して、自分を解きほぐし、ゆるめていくと、面白いことに、ちょっとだけ「楽しい」感じになっていく。
自分の「おバカ」加減を、なんだか自分で笑っちゃうような感覚。
笑いながら「ホント、バカだったなあ、仕方ない、どうしようもないヤツだな、私って」と思えるようになる。
それはつまり、自分をちょっとずつ、許せていけるようになるってこと。
そして「ごりごり」の「ガチガチ」だった苦しさもまた、減っていくのだ。
誰かを、好きになった経験がある人なら、わかってもらえると思う。
見た目も、性格も、身長も体重も、すべて100%自分にとって完璧で、
だから一目惚れした……なんてことは、めったに起こらない。
せいぜい、アイドルに対する憧れくらいで、目の前にいる人に対しては、まれだろう。
しかし、その人のことが好きになると、自分の好みじゃない部分は「大した問題」じゃなくなる。
もうちょっと、鼻がすっきりしてたらいいのに、もうちょっと、指が細かったらいいのに、なんてことは、
「アバタもエクボ」になるか、「小さくて、それほど気にならないアバタ」に変化するのだ。
今、あなたは、自分に対して、「エクボ」が「アバタ」に見えている。
「エクボ」どころか、言ってしまえば身長も体重も、髪質も手足・顔の造作も、
全部「アバタ」クラスになっているようなもの。
何より性格なんて、「アバタ」どころか「真っ黒のダメ人間」である。
それが、「仕方ない、アバタはアバタなんだ……」になっていけたら?
少しずつでも、気にならなくなっていけたら?
「自分は死ぬしかない、必要のない人間だ」なんてところからは、抜け出せる気がしないだろうか?
あなたは、あなたのことを、そこまでキライにならなくていい。
あなたはもうちょっとくらい、自分を好きになってあげていい。
本当は、自分のことが自分で一番好き! くらいになって、いいのだ。
今のあなたには「あり得ない」話かもしれない。
でも、そうなれる道は、そうなっていくための道は、あなたが「人間」である以上、残されている。
人は、ものを考え、悪い点を認め、改め、いい点を認識することができるだけの「頭脳」を、
あらかじめ、備えているから。
今、ベッドから起き上がれないような人だって、自分を好きでいてあげて、いいのだ。
自分を、自分の人生を、大事な、かけがえのないものだと、思っていいのだ。
そういう道を、ちょっとくらい、探してみたいとは、思わないだろうか。
見つけ方の具体的な「手法」は、過去に何度か、書いたことがあるけれど、
改めて、明日から、書いていこうと思う。
基本的には、「人に話すこと」「書くこと」になる。
別に話を引っ張りたいわけでもないので、その「手法」が気になる方は、
私の4月11日~15日、24日、6月8日あたりの文章を、読んでいただければ幸いである。
そこで書いていた話を、整理してまとめ直していくつもりだ。