カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

自分がすでにもっている「当たり前」

先日、一緒にチームで仕事をしている若いバイトの女の子が、

自分の容姿に対する不満を教えてくれた。

私から見れば、いや、一般的に見ても、和風美人のとても可愛らしい子で、

現に「ランチで道を歩いているだけでナンパ」される(笑)くらいのレベルだ。

でも、彼女はその和風なところがいやだという。

なぜかを話していたら、結局はどうも、彼氏が洋風好みだそう(^^;)

それを叶えようと思ったら整形しかない、ということは本人もわかっていて、

せめて化粧だけでも、と、メイクをがんばるそうだ。

うーん。洋風になるほどの濃い化粧をしなくても、ホント十分、かわいいのになあ。

容姿だけでなく、気持ちもすごく優しくて、明るくてかわいいキャラだし、仕事もできるし、

いろいろな面で、相当レベルが高いのに……と思うけれど、

本人は「○○の部分はここがダメ、それから△△はここをもっと頑張らないと」という感覚。

基本的に、向上心が強いのだ。

壊れる前の自分も、「できていること」は「当たり前」だと思っていたから、

自分が「できていない」、あるいはまだ「達成していない」点しか、目を向けていなかった。

で、鬱になると、できていたこともできなくなって、余計に落ち込んで。

今だからこれを冷静に振り返られるけど、そこに気づくまでは時間がかかった……。

鬱だから、その症状が出ているから、できなくなってるだけのことも、

結局は、全否定の材料にしてたなあ、と思う。

自分にとっての当たり前は、当たり前じゃないこともある。

単純な例を挙げると、社会人としての意識だって、持ってない人は、ホント持ってない。

普通に寝坊して遅刻しても、反省しない人、いるもの。

前の日が会社の飲み会で遅かったから、と言い放った人もいたけど、それは別に仕事じゃないし、

つきあいはつきあいとして参加して、それなりに早く帰った人もいますけど? ってツッコミを入れたくなる。

さすがにその言い訳はおかしい、と思うでしょう?

でも、本人にとってはおかしくないの。

2次会、3次会にちゃんとつきあった自分はエライと思ってるから。

何を優先させるか、何を大事に思うか、っていうのは、確かに人によって千差万別だし、

常識、っていう範疇も、生きている社会によって違うけれど、

少なくとも、自分はこういうのを「保てているなあ」とか

「ここは別に、苦もなくできているんだなあ」ということを、

本当は、もっと意識するべきなのかもしれない。

先の話の彼女のように、和風の良さを消して無理矢理、洋風にすることを

強制されるような状況だってあるかもしれない。

でも、自分の和風の良さは、別に「否定」することではないのだ。

常に常に、できてないこと、足りていないことだけに目を向けるのは、

テストで90点とって、母親から「なんでこの残りの10点を間違えたの!」と怒られる日々を送ってるようなもの。

鬱だから、本当に「そういう症状だからこそ、なおさら否定する」状態になっていることを、

もっと意識してほしい。

否定する、その「反対側」の部分には、「今の自分であっても、できていること」がちゃんとあるんだよ、と。

そしてその「できていること」は、実は、他の人から見れば「すごいなあ」ってことも、

たぶんいっぱいあるんだよ、と。

どうせなら、90点を取ったことをまず「ようし!」って喜んで、次に100点を目指してみて、

85点でも「あ、ちょっと失敗、でも85点はキープできた」って喜んで、

95点になったら「ようし! やった!」って喜んで、

ついに100点が取れた日には「やったあ~!!」って思えるほうが、

一粒でなんどもおいしいし(笑)、努力する過程そのものも、ずっと楽しめるんじゃないだろうか。

もし、動けなくなった今の自分が「20点」なら、5点ずつチャレンジしていくことで、何回楽しめることになるだろう。

可能であれば一度、友達など周囲の人に「今の自分ができている点」について、

尋ねてみるのもいいかもしれない。

そんなふうに見ていたのか、そう感じてくれていたのか、と、思える新発見が、

ひとつくらいは見つかると思う。

しかも「それって当たり前じゃないの?」と、思わず聞き返したくなるような点が。

そう、本当に、自分にとって意外な部分でも、当たり前は、当たり前じゃないのだ。

どうか、否定しか見えないその「罠」から、少しずつでも抜け出すことができますように。

自分が嫌いなとき

今の自分がイヤでイヤで仕方がない。

これはたいてい、昨日書いたように「状況が思い描いたとおりになっていない」ときにそうなる。

自分自身のこと、人との関係、仕事の出来具合など、その原因はさまざまだけれど、

本当は、それは「全否定」するようなことではないのだ。冷静に考えればね。

人は年齢を重ねるにつれ、さまざまな経験をしていくことになる。

それは社会的な立場が変化していく以上、当たり前のことだ。

自分の活動範囲が広まり、親の庇護から離れ、自分なりの生活を組み立てていく。

徐々に、自分自身の世界ができていって、人間関係も変わっていく。

そのなかで、つらい目にも、いい目にも遭う。

どちらも、自分に影響を与えて、新しい変化のきっかけになっていくが、

つらいことの場合は「その後、どうすればいいのか」を多かれ少なかれ、悩むことになる。

この回数が増えれば、自分がダメなんじゃないか、とか、何か間違ってるんじゃないかと、思いたくもなる。

そして、鬱になるような出来事が重なると、「つらい目」のほうが自分の中でグンとクローズアップされて、

しかも「変えられない」ものに感じる。そう、自分自身で固定化してしまうのだ。

そういう病なのだ。それって本当に、症状でしかないのだけれど、

「いやな感情」をわざわざ頭で捉えなおし、いろいろ考えるから、混乱して暗くなる。

しかもすぐには状況を変えられないことも多いし、何より行動できないから、さらに自分の否定を上塗りしていく。

最終的には「真っ黒な自分」の出来上がり、だ。

世の中のすべてが自分より優れていて、自分はダメで、自分だけがうまくいかない。

それは、実はものすごく視野が狭くなっている状態で、自分のすべてではないのに。

でも、自分では、「どうしたらいいかわからない」と“思い込んで”いるから、変えられない。

「私はどうしたらいいかわからない馬鹿ものなんだ」と、目線を固定しちゃうのである。

自分の、どこがそんなに嫌いなの?

どういう経験から、自分の「性格」をそうだと決めつけたの?

対人関係なら、前から言っているように「相手の機嫌・状態」もあるから、

全部が全部、あなたの責任じゃないことだってあるよね?

ただ「嫌い」っていう感情だけを固定していても、状況は絶対に良くならない。

自分を否定し続けても、何も変わらないのだ。嫌なことだけをクローズアップし続ければ、

毎日の出来事のなかで、自分にとって嫌なことが増えていくだけだ。

自分自身がわざわざそこしか、見ないのだから。

あなたの「ふるまい」が良くなかった?

あなたの「考え方」が良くなかった?

それとも「タイミング」が良くなかった?

相手の「機嫌」が良くなかった?

身体を壊したのなら、何か、そういうものをもたらすきっかけとなる「行動」をし続けた?

肝臓が悪いのに、お酒を飲み続けた、とかさ。

もし、そのように何か、思いあたるフシがあったとしても。

じゃあなぜ、あなたはそういう「ふるまい」や「考え方」をしたのだろう。

なぜ、相手の状況を見図れなかったのだろう。

見計らったところで、あなたが「折れ続ける」、自分の意志を曲げ続けることは正しかったのだろうか。

なぜ、悪いとわかっている「行動」を自分で止められなかったのだろう。

そこから見えてくるのは、自分の弱さ、かな?

あるいは自分の情けなさ、かな?

意志が強い人なら、そんなことは絶対にしなかった、とか?

みんながみんな、そんな完璧で素晴らしい判断と対処を、あらゆる場合にできるのかな?

ただ漠然と「ダメ」と思って、自分の全部を真っ黒な否定に持ち込むくらいなら、

少し、そういう「第三者的な視点」で、自分の経験を見つめなおしてみたらどうだろう。

もし、いつもいつも「言えない」自分が悪いとしたら。

「言えない自分」の原因は、どこにあるのだろう。

自信がないから?

じゃあ、自信がなくなったのは、いつから?

何を経験したから、自信がなくなったの?

今、あらためて考えてみたときに、その「自信のなさ」は、固定であって、絶対に変えられないものなの?

漠然とした「嫌い」のなかには、そういうふうに、いろいろな要素が含まれている。

たいていは過去に起こった出来事、それによってあなたが「受け止めた何か」が関わっている。

たとえば、子どもの頃の、友達からの意地悪は、今の自分でも対処できないのかな?

今でも何も、言い返せないのかな? まったく同じ状況に追い込まれるのかな?

そうやって解きほぐしていったとき、それが確かに、あなたの「理想とする」自分でないこともある。

じゃあ、もっと考えてみよう。理想の自分って何?

何と比較して、今の自分を卑下してる?

自分の「受け止め方」の偏り、あるいは「クセ」などのパターン、傾向、方向性。

そういったものが見つかる場合もあるし、ある種の出来事を「根強く」傷として抱えている場合もある。

思い出すのさえ嫌なことは、そうやって自力で解きほぐすのが難しいことだってある。

でも、少なくとも、こうしたことを紙に書くなどして、きちんと自分のなかで整理していった場合に、

ひとつだけ、気づけることがある。

その経験で得た感情や感覚は、あなたの「全部」ではない、ってこと。

漠然とした自己否定は、自分のある一面でしかなくて、

その他にも、親切な自分や明るい自分は必ず、「別に」存在しているってこと。

少なくとも、楽しかった経験もあったということは、思い出せるだろう。

たとえば恋愛をして、結果としてその人とは離れることになったから、ひどい?

楽しかった経験は、その人と一緒にいたからできたこと。

その経験ができたこと自体は、何ら「ひどい」ことではない。良かったね、いい経験したね、ってことだ。

その経験に「その先の結果」は、別に関わっていない。全否定することではない。

スポーツをして、それで怪我をした。じゃあ、そのスポーツをしたこと自体全部が、間違いでひどかったのか?

思い出と、言葉にできないこと

私たちは、自分の気持ちや考えたことを表現するときに、それを言葉で表す。

もちろん、泣いたり、笑ったり、そうした表情やしぐさなどでも気持ちを伝えてはいるのだが、

伝えたいことの大部分は、言葉に置き換えてみようとする。

でも、言葉というものはやっかいで、相手の受け止めたかによって姿が多少変わる。

たとえば単純な単語ひとつでも変わるのだ。

以前、後輩と話していたときに「川」という単語で思い浮かべる情景が2人ともまったく違っていたので、

自分のなかにある刷り込みってすごいもんだね、と話した覚えがある。

だからこそ、文字が紙の上に載っている小説や詩などは、

読む人それぞれが情景を思い浮かべることで想像の世界が膨らんで、面白いのだけれど。

ただ、これがコミュニケーションということになると、行き違いもしばしば発生してしまう。

その誤解を解こうとして、さらに話がずれていってしまったりもする。

言葉足らず、という場合も確かにあるけれど、受け止め方の問題でもあるのだ。

嫌な思い出しかない単語を並べられたら、前の思い出が勝手に重なって、よけいに胸を突き刺したり、ね。

逆に、いいほうに理解されたために、気持ちが伝わりやすかったり、なんてことも起こるので、

怖がるあまりに伝えられないよりは、タイミングも計りつつ、がんばって伝えてみたほうが

たぶん、よいのだろうと思えたりもする。

相手がどんな経験をしてきて、どんな記憶を抱えているかは、自分にはわからない。

それを全部、知ることもできない。

言葉を尽くして一生懸命伝えたとしても、たとえば昔に見た風景は、

きっと、同じ時間に同じ場所で見ていない限り、完全には共有できないだろう。

ふだんから、私たちはそうした違いのようなものを、なんとなくふまえたうえで、言葉を選んでいるはずだ。

言葉の合間に「あれ知ってる?」と確認を挟んだりしている。

そしてもし、多少変形したとしても、言葉で伝えたかったことのほぼ大部分が、相手に届くときには

すごい共有感を感じられたりもするから、言葉って魔物でもあり、魔法でもあるように思える。

さらに、自分というものを考えた場合。

先ほど受け止め方のところでも述べたように、自分のなかには、

これまでにさまざまな経験で「感じてきたこと」が蓄積されている。

その多くをもうすっかり忘れていたように思っていても、何かの拍子に、それがふと現れたりする。

そのなかには、いい思い出もあるし、悪い思い出もある。

経験として私たちが思い出すのは、そのときの情景と、そのとき感じた「感情」「感覚」だ。

よい思い出は、自分を広げてくれる。

人とのコミュニケーションももちろんそうだし、

圧倒的な感動、たとえばものすごく美しい夕日などの風景もそうだ。

もはや忘れたと思っていても、どこかに何かを残す。

それが「感性」というものにもなっていくのだろう。

悪い思い出も、実は、後になって、何かを自分にもたらしてくれることがある。

個人的趣味の混じったたとえ話になって申し訳ないけれど、

私は小説家の山田詠美さんや、マンガ家の羽海野チカさんが好きだ。

お二人ともものすごく繊細な心の機微を、文章や絵で表現されている。

詠美さんは全部の小説で、ではないのだけれど、少女の感性の話や、

若い男女の微妙な心のやりとりの話などが、圧倒的な勢いでこちらに響いてくることがある。

何か、もどかしいような切ないような、表現の難しい感覚。

それを文字に乗せて届けてくれる才能は、すごいなと思える。

実際に、切なさや痛さを、彼女自身が経験したからこそだと思う。

羽海野チカさんに至っては、ある意味、もっと痛い。

ご本人もときどきおっしゃっているのだけれど、この人はたぶん、人と対面することが非常に苦手なんだと思う。

イジメのようなものにも、もしかして遭われていたかもしれない。

「ハチミツとクローバー」というマンガは、単なる若者の青春群像・恋愛ストーリーを越えて、

一人ひとり、弱かろうとなんだろうと、それを抱えたままで一生懸命、生きていることを伝えてくれる。

「ハチクロ」はたぶん、主に若者と女性の心を(笑)わしづかみにしただろうけれど、

そのトーンのまま、さらに「戦う少年棋士」という設定を加えた現在の青年誌連載「3月のライオン」は、

さらに大人の男性の心をもわしづかみにしているようだ。マンガ大賞も受賞している。

これらの作品は、羽海野さんがきっと、かなり痛い思いをしたであろうからこそ、生まれている。

彼女はたぶん、身を削るようにして、過去のいろいろな思いを今、絵で表している。

そうすることで同時に、自分の過去の傷を解放して、癒しているかのようにも思える。

不器用だったからこそ。ダメだったからこそ。

ずいぶんあとになってからであっても、それらを表に出していき、

それがそのまま、読者の心をも打つ結果になっている。

人は、そんなこともできるのだ。痛みがあるからこそ、何かを伝えることもできるのだ。

これは、表現者であるなしに関わらない。周囲の人に、何かをもたらすのだと思える。

であれば。

今、感じてしまっているつらい気持ちも、思い出すのさえイヤな経験も、いつかは、自分の宝物になりうる。

そこで感じてしまった気持ちを、何かに置き換えて、そう感じたからこそ、伝えられるものがある。

もっと言えば、何かの役に立つかどうか以前に、まず、それをきっかけとした自分自身の変化を、

いろいろな形で起こせるのだと思う。私がこのブログを始めようと思ったのもそれなのだ。

その結果は、美しい風景を見たときの感動や、人と気持ちが通じあったときの温かさと同じものになる。

今すぐには無理でも、どんな気持ちも、どんな感情も、どんな思い出も、

いつか、自分自身の手で、宝物に変えていけるのだ。

あるいはもう、すでに変換しているものだって、あるのかもしれない。

そういう変化自体を起こそうと思うかどうかも、もちろん、本人の自由だが、

いずれにせよ私たちは、よい感性につながる感動の宝物と、

つらい気持ちの、それでも「宝石の原石」であるものの両方を、たくさんたくさん、抱えながら生きているのである。

伝えられなかった言葉も、胸にしみた悲しさも、言葉に表せないもどかしい気持ちも、すべては原石。

そうしたことを、そういう可能性のことを、少しでも知っておいてもらえればと思う。