思い出と、言葉にできないこと

私たちは、自分の気持ちや考えたことを表現するときに、それを言葉で表す。

もちろん、泣いたり、笑ったり、そうした表情やしぐさなどでも気持ちを伝えてはいるのだが、

伝えたいことの大部分は、言葉に置き換えてみようとする。

でも、言葉というものはやっかいで、相手の受け止めたかによって姿が多少変わる。

たとえば単純な単語ひとつでも変わるのだ。

以前、後輩と話していたときに「川」という単語で思い浮かべる情景が2人ともまったく違っていたので、

自分のなかにある刷り込みってすごいもんだね、と話した覚えがある。

だからこそ、文字が紙の上に載っている小説や詩などは、

読む人それぞれが情景を思い浮かべることで想像の世界が膨らんで、面白いのだけれど。

ただ、これがコミュニケーションということになると、行き違いもしばしば発生してしまう。

その誤解を解こうとして、さらに話がずれていってしまったりもする。

言葉足らず、という場合も確かにあるけれど、受け止め方の問題でもあるのだ。

嫌な思い出しかない単語を並べられたら、前の思い出が勝手に重なって、よけいに胸を突き刺したり、ね。

逆に、いいほうに理解されたために、気持ちが伝わりやすかったり、なんてことも起こるので、

怖がるあまりに伝えられないよりは、タイミングも計りつつ、がんばって伝えてみたほうが

たぶん、よいのだろうと思えたりもする。

相手がどんな経験をしてきて、どんな記憶を抱えているかは、自分にはわからない。

それを全部、知ることもできない。

言葉を尽くして一生懸命伝えたとしても、たとえば昔に見た風景は、

きっと、同じ時間に同じ場所で見ていない限り、完全には共有できないだろう。

ふだんから、私たちはそうした違いのようなものを、なんとなくふまえたうえで、言葉を選んでいるはずだ。

言葉の合間に「あれ知ってる?」と確認を挟んだりしている。

そしてもし、多少変形したとしても、言葉で伝えたかったことのほぼ大部分が、相手に届くときには

すごい共有感を感じられたりもするから、言葉って魔物でもあり、魔法でもあるように思える。

さらに、自分というものを考えた場合。

先ほど受け止め方のところでも述べたように、自分のなかには、

これまでにさまざまな経験で「感じてきたこと」が蓄積されている。

その多くをもうすっかり忘れていたように思っていても、何かの拍子に、それがふと現れたりする。

そのなかには、いい思い出もあるし、悪い思い出もある。

経験として私たちが思い出すのは、そのときの情景と、そのとき感じた「感情」「感覚」だ。

よい思い出は、自分を広げてくれる。

人とのコミュニケーションももちろんそうだし、

圧倒的な感動、たとえばものすごく美しい夕日などの風景もそうだ。

もはや忘れたと思っていても、どこかに何かを残す。

それが「感性」というものにもなっていくのだろう。

悪い思い出も、実は、後になって、何かを自分にもたらしてくれることがある。

個人的趣味の混じったたとえ話になって申し訳ないけれど、

私は小説家の山田詠美さんや、マンガ家の羽海野チカさんが好きだ。

お二人ともものすごく繊細な心の機微を、文章や絵で表現されている。

詠美さんは全部の小説で、ではないのだけれど、少女の感性の話や、

若い男女の微妙な心のやりとりの話などが、圧倒的な勢いでこちらに響いてくることがある。

何か、もどかしいような切ないような、表現の難しい感覚。

それを文字に乗せて届けてくれる才能は、すごいなと思える。

実際に、切なさや痛さを、彼女自身が経験したからこそだと思う。

羽海野チカさんに至っては、ある意味、もっと痛い。

ご本人もときどきおっしゃっているのだけれど、この人はたぶん、人と対面することが非常に苦手なんだと思う。

イジメのようなものにも、もしかして遭われていたかもしれない。

「ハチミツとクローバー」というマンガは、単なる若者の青春群像・恋愛ストーリーを越えて、

一人ひとり、弱かろうとなんだろうと、それを抱えたままで一生懸命、生きていることを伝えてくれる。

「ハチクロ」はたぶん、主に若者と女性の心を(笑)わしづかみにしただろうけれど、

そのトーンのまま、さらに「戦う少年棋士」という設定を加えた現在の青年誌連載「3月のライオン」は、

さらに大人の男性の心をもわしづかみにしているようだ。マンガ大賞も受賞している。

これらの作品は、羽海野さんがきっと、かなり痛い思いをしたであろうからこそ、生まれている。

彼女はたぶん、身を削るようにして、過去のいろいろな思いを今、絵で表している。

そうすることで同時に、自分の過去の傷を解放して、癒しているかのようにも思える。

不器用だったからこそ。ダメだったからこそ。

ずいぶんあとになってからであっても、それらを表に出していき、

それがそのまま、読者の心をも打つ結果になっている。

人は、そんなこともできるのだ。痛みがあるからこそ、何かを伝えることもできるのだ。

これは、表現者であるなしに関わらない。周囲の人に、何かをもたらすのだと思える。

であれば。

今、感じてしまっているつらい気持ちも、思い出すのさえイヤな経験も、いつかは、自分の宝物になりうる。

そこで感じてしまった気持ちを、何かに置き換えて、そう感じたからこそ、伝えられるものがある。

もっと言えば、何かの役に立つかどうか以前に、まず、それをきっかけとした自分自身の変化を、

いろいろな形で起こせるのだと思う。私がこのブログを始めようと思ったのもそれなのだ。

その結果は、美しい風景を見たときの感動や、人と気持ちが通じあったときの温かさと同じものになる。

今すぐには無理でも、どんな気持ちも、どんな感情も、どんな思い出も、

いつか、自分自身の手で、宝物に変えていけるのだ。

あるいはもう、すでに変換しているものだって、あるのかもしれない。

そういう変化自体を起こそうと思うかどうかも、もちろん、本人の自由だが、

いずれにせよ私たちは、よい感性につながる感動の宝物と、

つらい気持ちの、それでも「宝石の原石」であるものの両方を、たくさんたくさん、抱えながら生きているのである。

伝えられなかった言葉も、胸にしみた悲しさも、言葉に表せないもどかしい気持ちも、すべては原石。

そうしたことを、そういう可能性のことを、少しでも知っておいてもらえればと思う。

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