カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

自分は完全じゃなくても立派じゃなくてもいい

私は不完全な人間である。

おそれも、弱さも持っている。

たとえば私には、数年前、会う時間が短かったのに、そのときに圧倒されたことが原因で、

今でもあんまり会いたくないなあ、と思う相手がいる。

その人のほんの一部分しかみてないのに「苦手」と判断して、イヤになっているのである。

あるいは、過去にストーカーらしき人にゴミを拾われてしまった経験から、

私はインターネット上で本名や顔写真を明かせない。

これももう何年も前の話で、その相手は私のことなんてとっくに忘れているかもしれないのに、

私自身が勝手に怖がっているのである。

そういう嫌な思い出を、うまく処理することができないし、

第一印象で人を判断してしまい、積極的には会いたくない、と感じたりする。

でも、私は、そういう自分であることを、「まあ、仕方ない」と思える。

私は弱いし、ヘタレだし、面倒なことが嫌いなのだ。

それが、今のありのままの私だから、そのまま、受けとめるしかない。

もちろん、こうありたい、という理想はある。

ストーカーなんて怖がらずにFace Bookにも登録して、そこにいるとわかっている友人と、久しぶりに交流したい。

短時間しか会わなかったその人には、機会を見つけて接してみて、どういう人なのかを

もうちょっと、ちゃんと知ってみたい。

ほかにも、今、できてなくてやりたいこと、こうなったらいいのに、と思うことはたくさんある。

しかし、できないものは、できないんだもの。

あのストーカーさんには二度と会いたくないし、短時間しか会わなかった人に対しても、

不快な思いをまたしたら、もっとその人のことが嫌いになるかもしれない、と思って、それも面倒くさい。

他のことも、怖れなどがいろいろあって、少なくとも今は無理。

そう、それは「今だから」無理なのだ。

もしかして、いつかはできるかもしれないけど、今は無理。

単に、それだけのことだ。

“隣の芝生”はいつも青くて、皆、がんばっているように思えたり、

自分「だけ」が弱くてヘタレでダメダメなように思えることもあるけど、

そういう弱いときも、別に、あっていいのだ。

常に上出来で完璧であり続ける必要はない。

そんな「何でも解決できる素晴らしい人」になったら、今度はそれを維持するのも大変だ。

どんどん、自分に縛りをかけてしまうだろう。

もし、本当にお金の心配も生き方の心配も何もなくて、毎日、周囲にいる人たちから必ず親切にされて、

何の課題も問題も起こらず、ただただ「自分の予想通り」に日々が過ぎていったら?

それは、本当に「幸せに暮らしました」な人生だろうか? 予想がつく人生って、飽きたりしないだろうか?

予想外のことがあるからこそ、それがとてもうれしかったり、心にしみたりする。

であれば、その「予想外」のなかには、いいことだけでなく、当然、悪いことも含まれてくる。

それを乗り越えたときに、達成感を感じたりしないだろうか?

「自分を否定している時期」も、あったって構わないのだ。

うまくいかないからこそ、うまくいくための道を求められるようになっていく。

将来のことを考え、それに向かって邁進する、わくわくできる時期もあれば、休む時期もある。

そういう波があるからこそ、何かを知り、感じ、学べる。

もちろん、だから人生には苦しい思いも必要だ! というわけでもない。

ただ、今「すでにそういう状態になっている」のであれば、

そこから変わっていく時間もまた、あなたの糧になり、この先の人生を彩っていくものになりうる、ということだ。

イヤだとは感じるだろう。でも、不完全で不条理で弱くて情けない自分を味わう時間になっているなら。

それはいずれ、あなたを新たに強く、優しく、大きくしていくための肥やしにできるのである。

だからそうなったのであれば、今はそのまま、それを感じておこう。

共存、しなくても、克服、しなくてもいい。ただ、そのままの、あなたで。

「嫌い」「嫌い」を続けると

昨日の話に関連して、思い出したこと。

自分のことを「イヤだ」「許せない」「嫌い」だと思い続けるとき、その感情は繰り返される。

私自身がまさにその穴に落ち込んていたときは、それを自分に「刷り込んでいた」ような気がする。

自分を“わざわざ”そこに閉じ込め続けていたのだ。

日本では言霊(ことだま)と言われたりもするけど、要は「思い込みの強化」をする練習と同じであるように感じる。

ある意味、それ以外のことを思わないよう、自分で自分を固定し続けていたのだと。

そんなこと言ったって! と思われる人もいるだろう。

そこから抜け出せないから、苦しいんじゃないか、と。

たしかに、そうした気持ちが続くのが「脳の誤作動」であることがわかったところで、

湧き上がる感情をセーブする、抑え込むことは難しいと思う。

とことん思いこんで、飽きるまでやってみようとしたって、趣味ではないのだから、飽きる、という限界点もない。

「~してはいけない」とセーブする、抑え込む、という考え方自体が、違うのだ、たぶん。

それは単なるブレーキであり、アクセルを勝手に踏む自分をひたすら「止めよう」と力むことである。

以前、心理学系の本で読んだのだと思うが、「ロミオとジュリエット」は、

「周囲も自分たちも、本当はダメだと思い込んでいる」からこそ、逆に抑えきれなくなった。

感情にブレーキをかけると、かえってそれが燃料になって、より強く燃え上がってしまうことがあるのだ。

では、どうすればいいのか。

そんな自分がいることを、ただ単純に認める、のである。「ああ、今、そんな気持ちになっているなあ」と。

それを「許せない」と思うからこそ、ブレーキになってしまう。

好きとか嫌いとかいう感情に正解も不正解もない。間違っているかどうか、正しいかどうか、でもない。

たまたま、そう思うのは本当は嫌だなあ、という自分がいて、でも、思っちゃう自分もまあ、いるのだわ、と。

ただ、それだけでいいのだ。

不思議なことに、そうやって「外から見る」ように、自分のマイナス感情を認めてあげると、

だんだん、こだわらなくてもよくなってくる。

私は昨日、「人を苦手だとか感じる自分自身がもう、自分で面倒」ということを書いた。

たぶんその気持ちも、今日の延長上にある話。

「イヤだ」とか「嫌いだ」と思う気持ちは、別に、あったとしても構わなくて、

ただもう、そのことに自分が「こだわってしまう」ことが、面倒くさいのだ。

人に対して感じる気持ちを、解決しようとか、避けようとか、そんなことも、

必死で考える必要、本当はないんじゃない? と。

「そうなんだなあ」と、思えるようになれば。「そう感じる自分」はいて、

でもそれを「悪いこと」とも「いいこと」とも思わず、自分が正しくて相手が間違っている」とかも関係なくて、

私は今、たまたまそう感じる。でも相手の問題は相手の問題、と、思えれば。

つまり否定を感じる相手が「他人」だろうと「自分」だろうと、どちらでも一緒なのだろうと思える。

そんな自分は未熟、そんな暗い自分はイヤ、と否定したら、結局また「自分はダメ」の上塗りになる。

気持ちが痛んでいる今は、どうせ脳の誤作動なのだ。脳みそがミスして、自分を追い詰めているのだ。

気持ちって、そこまで身体に影響するんだ、ある意味、すごい話だなあ、と思えたりしないだろうか。

自分を嫌いな自分、他人を憎む自分は、別に「いても構わなくて」、今はたまたま、そう感じているのだということ。

それは一生続くとか、放っておいたら増幅するとか、そんなことまで

「今の段階で想像、あるいは規定する」必要もない。

先のことなんて、誰にもわからない。

今はそんな自分もいるけれど、まあ、きっとまた、そのうち別のいい面も、自分で認められるようになる、

と思っていればいいのだ。

そんな楽観主義的な、いい加減な! と感じる人には

そんな悲観主義な! 固定観念的な! と尋ね返したい。

どうせ放っておいてもあなたは真面目だし、きちんとものごとを解決しようとするし、責任感もある。

だからこそ自分を責めて、鬱という病にまで達しているのだ。

そのきっかけが他人や仕事など「他のもの」のせいであっても、結局は自分を責めている。

他の人を「憎む」自分自身を嫌いだと思えるのだから、本当に「適当すぎる」人にはならない。大丈夫なのだ。

そんな自分がいる、と、遠くから見つめられるようになるには、時間がかかるかもしれない。

一気に客観視できて一気に楽になる、というのは難しいと思うけど、自分を否定し続け、

追い詰め続けなくても、そういう「脱出方法」もまたひとつ、あることを知っておいてもらえたらと思う。

もちろん私も、まだまだその練習中だ。だからこそ、実感を持って言えるのだけれど、

思っていた以上に、徐々に、生きるのが楽にはなっていってる。それは確かだ。

自分が「好き」とか「嫌い」とか。その(3)

私が書く、という作業をおすすめするのは、余分な情報を入れずにそこに集中できるからだ。

そもそも私たちは、普通に生活するだけで、毎秒、ものすごい数の情報を受け取っているらしい。

家の中にいても、外の景色、家の中の情景を180度の視野で一応全部、見てはいるのだし(だから

壁に虫がいるとか、そういう違和感があると気づく)、たとえば外出して、

信号のない道路を渡っているときも、後ろから来る自転車の「気配」を感じ取れたりする。

耳や鼻、目、などの五感と、「気配」のような感覚まで、勝手に、でもフルに使っているのだ。

あることを思い出すときにも、そのときの情景を動画で思い浮かべるだろう。

音声や季節感といった雰囲気まで浮かんでくる。

そのなかで必要な情報をピックアップしようとしても、ただ、考えているだけだとついつい、

連鎖的にほかのことを思い出したり考えたりして、「集中」できにくい。

鬱々とした気分のときならなおさら、嫌な思い出もリンクしてきたりするのだ。

だから、それを「仕分ける」ために、書くのである。

書こうとすると、それを表現する言葉を探さなくちゃいけないし、手を動かして文字を表現しなくちゃ

いけないから、書こうとする内容のほうへ集中しやすくなる。

余計なことを考えなくてすむのだ。

実際、自分でやってみたときに思ったのは、掘り下げがしやすい、ということ。

気づいた点をいろいろ書き加えていくことで、視点も変えやすかった。

一人でそうやって掘り下げても、やがて「じゃあ、どうしろっていうのだ」という壁には

突き当たったりもするが、その「途中まで」進んでおくことが、あとで違いを生む。

言葉として「胸にとどめておくこと」で、別の考え方を受け止めやすくなったり、

出口につながりそうなきっかけを新たに、見つけたりもできるのだ。

ただ、「書く」という行為でシンプルにそれだけを掘り下げる、という作業は、

本当に絶望していて、目の前に「死」の選択肢が来ているときにはやりにくい。

ペンを持つことさえ煩わしく感じると思う。それすら、「作動ミス」を起こしている脳には「負担」なのだ。

でもそういう作業によって、新しい生き方ができる出口へと近づいていけることは、知っておいてほしいと思う。

あんな苦しくて怖い「死」という道を選ばなくても、自分の「嫌悪感」「ダメという気持ち」を、

自力で変えていける方法はあるのだ、ということ。

それは誰にでもできる作業なのだと、わかっていてほしい。

私はこれを何回かやって、本を読んで、人に話を聞いてもらったりヒントをもらったりして、

徐々にではあるが、自分を新しい目で見つめられるようになった。

すごく地味で単純なやり方だけど、そうやって丁寧に見つめてみることで、逆に「揺るがない」ようなもの、

自分を嫌いではなくなるための視点をしっかり持てる。

今から考えれば、だけれど、自分のそういうマイナス面を劇的に変化させる必要も、実はないのだと思う。

劇的に変わると、その土台だって、弱いことも多い。

ぶれずに少しずつ組み立てていくことも、大切な手段なのだと感じている。

書く、以外にも、きっと方法はいろいろあるのだと思う。

あなたもどうか、自分にあったやり方を見つけ、少しずつでもきっかけをつかめていけますように。