私が書く、という作業をおすすめするのは、余分な情報を入れずにそこに集中できるからだ。
そもそも私たちは、普通に生活するだけで、毎秒、ものすごい数の情報を受け取っているらしい。
家の中にいても、外の景色、家の中の情景を180度の視野で一応全部、見てはいるのだし(だから
壁に虫がいるとか、そういう違和感があると気づく)、たとえば外出して、
信号のない道路を渡っているときも、後ろから来る自転車の「気配」を感じ取れたりする。
耳や鼻、目、などの五感と、「気配」のような感覚まで、勝手に、でもフルに使っているのだ。
あることを思い出すときにも、そのときの情景を動画で思い浮かべるだろう。
音声や季節感といった雰囲気まで浮かんでくる。
そのなかで必要な情報をピックアップしようとしても、ただ、考えているだけだとついつい、
連鎖的にほかのことを思い出したり考えたりして、「集中」できにくい。
鬱々とした気分のときならなおさら、嫌な思い出もリンクしてきたりするのだ。
だから、それを「仕分ける」ために、書くのである。
書こうとすると、それを表現する言葉を探さなくちゃいけないし、手を動かして文字を表現しなくちゃ
いけないから、書こうとする内容のほうへ集中しやすくなる。
余計なことを考えなくてすむのだ。
実際、自分でやってみたときに思ったのは、掘り下げがしやすい、ということ。
気づいた点をいろいろ書き加えていくことで、視点も変えやすかった。
一人でそうやって掘り下げても、やがて「じゃあ、どうしろっていうのだ」という壁には
突き当たったりもするが、その「途中まで」進んでおくことが、あとで違いを生む。
言葉として「胸にとどめておくこと」で、別の考え方を受け止めやすくなったり、
出口につながりそうなきっかけを新たに、見つけたりもできるのだ。
ただ、「書く」という行為でシンプルにそれだけを掘り下げる、という作業は、
本当に絶望していて、目の前に「死」の選択肢が来ているときにはやりにくい。
ペンを持つことさえ煩わしく感じると思う。それすら、「作動ミス」を起こしている脳には「負担」なのだ。
でもそういう作業によって、新しい生き方ができる出口へと近づいていけることは、知っておいてほしいと思う。
あんな苦しくて怖い「死」という道を選ばなくても、自分の「嫌悪感」「ダメという気持ち」を、
自力で変えていける方法はあるのだ、ということ。
それは誰にでもできる作業なのだと、わかっていてほしい。
私はこれを何回かやって、本を読んで、人に話を聞いてもらったりヒントをもらったりして、
徐々にではあるが、自分を新しい目で見つめられるようになった。
すごく地味で単純なやり方だけど、そうやって丁寧に見つめてみることで、逆に「揺るがない」ようなもの、
自分を嫌いではなくなるための視点をしっかり持てる。
今から考えれば、だけれど、自分のそういうマイナス面を劇的に変化させる必要も、実はないのだと思う。
劇的に変わると、その土台だって、弱いことも多い。
ぶれずに少しずつ組み立てていくことも、大切な手段なのだと感じている。
書く、以外にも、きっと方法はいろいろあるのだと思う。
あなたもどうか、自分にあったやり方を見つけ、少しずつでもきっかけをつかめていけますように。