自分が「好き」とか「嫌い」とか。その(3)

私が書く、という作業をおすすめするのは、余分な情報を入れずにそこに集中できるからだ。

そもそも私たちは、普通に生活するだけで、毎秒、ものすごい数の情報を受け取っているらしい。

家の中にいても、外の景色、家の中の情景を180度の視野で一応全部、見てはいるのだし(だから

壁に虫がいるとか、そういう違和感があると気づく)、たとえば外出して、

信号のない道路を渡っているときも、後ろから来る自転車の「気配」を感じ取れたりする。

耳や鼻、目、などの五感と、「気配」のような感覚まで、勝手に、でもフルに使っているのだ。

あることを思い出すときにも、そのときの情景を動画で思い浮かべるだろう。

音声や季節感といった雰囲気まで浮かんでくる。

そのなかで必要な情報をピックアップしようとしても、ただ、考えているだけだとついつい、

連鎖的にほかのことを思い出したり考えたりして、「集中」できにくい。

鬱々とした気分のときならなおさら、嫌な思い出もリンクしてきたりするのだ。

だから、それを「仕分ける」ために、書くのである。

書こうとすると、それを表現する言葉を探さなくちゃいけないし、手を動かして文字を表現しなくちゃ

いけないから、書こうとする内容のほうへ集中しやすくなる。

余計なことを考えなくてすむのだ。

実際、自分でやってみたときに思ったのは、掘り下げがしやすい、ということ。

気づいた点をいろいろ書き加えていくことで、視点も変えやすかった。

一人でそうやって掘り下げても、やがて「じゃあ、どうしろっていうのだ」という壁には

突き当たったりもするが、その「途中まで」進んでおくことが、あとで違いを生む。

言葉として「胸にとどめておくこと」で、別の考え方を受け止めやすくなったり、

出口につながりそうなきっかけを新たに、見つけたりもできるのだ。

ただ、「書く」という行為でシンプルにそれだけを掘り下げる、という作業は、

本当に絶望していて、目の前に「死」の選択肢が来ているときにはやりにくい。

ペンを持つことさえ煩わしく感じると思う。それすら、「作動ミス」を起こしている脳には「負担」なのだ。

でもそういう作業によって、新しい生き方ができる出口へと近づいていけることは、知っておいてほしいと思う。

あんな苦しくて怖い「死」という道を選ばなくても、自分の「嫌悪感」「ダメという気持ち」を、

自力で変えていける方法はあるのだ、ということ。

それは誰にでもできる作業なのだと、わかっていてほしい。

私はこれを何回かやって、本を読んで、人に話を聞いてもらったりヒントをもらったりして、

徐々にではあるが、自分を新しい目で見つめられるようになった。

すごく地味で単純なやり方だけど、そうやって丁寧に見つめてみることで、逆に「揺るがない」ようなもの、

自分を嫌いではなくなるための視点をしっかり持てる。

今から考えれば、だけれど、自分のそういうマイナス面を劇的に変化させる必要も、実はないのだと思う。

劇的に変わると、その土台だって、弱いことも多い。

ぶれずに少しずつ組み立てていくことも、大切な手段なのだと感じている。

書く、以外にも、きっと方法はいろいろあるのだと思う。

あなたもどうか、自分にあったやり方を見つけ、少しずつでもきっかけをつかめていけますように。

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