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横並びと差異

先日の日記でチューリップの話をしたら、何となく書きたくなったので、今日はこの話を。

並んでいるチューリップの美しさは、同色の場合、見た目には同じ花が、整列しているところにある。

なんか、お行儀がよくて愛らしい、と思ってしまうのだ。

小学校へ集団登校する新一年生を見かけたときと、同じような感覚なのかもしれない(笑)

富山やオランダのチューリップ畑の写真にも圧巻される。

並びながら群れていることで、圧倒的な強さや明るさをもった「美しさ」を表現しているように感じる。

てんでバラバラのほうを向いて、花の形なども違っていたら、あの美と愛らしさは出ないだろう。

横並び、という言葉は、悪い印象を与えやすい。

だが、揃っているということは、そういうある種の美しさを表現できるのだ。

たとえばバレエの「白鳥の湖」。写真なら見たことはあるだろうと思う。

主役のバレリーナの周囲を、他の白鳥役の人が同心円で取り囲む。

周囲の白鳥たちが一糸乱れぬ踊りを舞うからこそ、中心にいる白鳥の踊りもまた、引き立つのである。

その中心に立ちたい、プリマになりたい、と思うのは、バレエという世界で生きる人たちにとっては

当たり前の願望だろう。だが、周囲の白鳥がいなければ、また、あの静かでゴージャスな

世界は生まれないのだ。

あなたが平凡であることを認め、あきらめろ、と言ってるわけではない。

そこから自分の個性と実力を生かし、抜きんでていくことは、どんな人にも可能性としてあり得るのだから。

ただ、平凡だから、横並びだからつまらない、私はダメだ、と決めつけないでほしいと思うのだ。

実は周囲の白鳥1人1人だって、身長や体型は違う。

チューリップだって、よく見れば、葉の向きや花びらの向き、微妙な角度は違う。

それぞれに個性は持っていていいのだ。その個性のままキレイに揃うときに生まれるものだってある、ということ。

さらに言えば、同じように庭に並んでいるチューリップだって、

側に木があれば、木陰に近いものは、遠いものより日当たりが悪いかもしれない。

でも大風が吹いたときには、木に近いほうが、風をまともに受けなくてすむだろう。

土の中では、ミミズが土を耕しているかもしれない。

栄養分の豊富な土に根を伸ばせば、よりしっかりと根付くことができるだろう。

でも、チューリップは「ミミズさん、どうして隣の花の周りだけ、土を良くするのよ。

こっちにも来てよ、不公平じゃない!」なんて文句は言わない。

木の側だろうと、ミミズが何をしようと、ただ、恩恵を受けられたときに喜んで根を伸ばすだけである。

周囲との差異があってもなくても、ただ、あるがまま、なのだ。

そして自分の仕組みと力によって花を咲かせ、次世代への球根を残す。

アスファルトの隅に落ちたタンポポの綿毛も同じ。

そこに根付ければ、少しずつでも根を伸ばし、花を咲かせようとするだろう。

「どうして私だけ」と、思ったりはしないのだ。そこにあることそのままを、楽しむだけである。

これは、そのときどきにおいて、何が自分の役割かという視点なのだと思う。

周囲と比べたら、たちまち「不公平」だの「平凡でつまらない」だのといった気持ちが湧く。

より目立ちたい、より得をしたい、よりラクをしたい。そんな欲も出てくる。

……キリがないよね。自力で辿り着いても、欲が深ければ満足はできない。

その自分を、心の底から喜べない。

さらには、もし誰か他の人の力でラクになったりした日には、

「もっとラクにして」「もっと得したい」「もっと」「もっと」。ずっと、その繰り返しである。

自分が今いるところで何を果たせるか。どんなにダメで自信がないときでも、ちょっとくらいは

何か、貢献できるかもしれない。あるいは心が痛みすぎて動けないなら、そこから脱することが先決で、

そのあとゆっくり、できることを見つけていけばいい。

欲を持つのは、向上心のためには悪いことではない。「意欲」は大切だと思う。

でも、自分がその欲しか見つめなければ、どんな人生であっても、満足して心から楽しめないだろう。

得たものを失う怖さに追われて、さらにどんどん、欲深くなっていくだろう。

それはお金に限らない。出世などの地位も名誉も、人間関係も、同じである。

まずは、そこにいる自分を楽しむこと。今の自分を、「良し」としてあげること。

今すぐには何もできなくても、それは切り替えの準備期間なのだと、「本心から」認めること。

とりあえず、どんな小さなことであっても、「できること」があれば喜ぶこと。

自分をいたわることだって、とても大切な「やるべきこと」なのだ。

……横並びとか、平凡とか、そういった目で自分を見下すのではなく、

その小さな差異から生まれていくものを徐々に楽しんでいけるような何かが、

どうかあなたにも、いつの日か見つかりますように。

ちっぽけな自分のままで

自分は何もできない、たいしたことのない人間だ、と思っている人。

その認識はある意味、「人」として正しい。

有名な人だって、最初から有名だったわけではない(たとえ親の七光りであってもね)。

本人が何か行動を起こすことによって、初めて人に知られる。

ということは今、心が痛んでしまって動けないあなたは、もともと「人」が持っている「最小サイズ」であるのだ。

一番の、基本サイズ。単なる原点だ。

それまでの自分は立派だったのに、という人。

ごめんね、はっきり、書いてみるけど……。

会社の看板を利用してなかった?

一部の人からの評価だけ、じゃなかった?

「すべて自力」と言えるなら、無理してなかった? 無茶してなかった? 自分だけよければ、じゃなかった?

……正直、何かを成し遂げる人っていうのは、本人の才能と環境だけじゃないよ。

そこには必ず「それに向かう姿勢」がある。努力も。当たり前だよね。それはわかるよね。

で、自分は何をも成し遂げられない? 何を基準にしてそう思ってるの?

誰を基準に? どんな「成功」を夢見てる? あなたの描いているものは「地位」や「名誉」や「お金」?

テレビや雑誌に出ること? 人からの賞賛?

以前、糸井重里さんと誰かの会話(その誰かを忘れてしまった……)で書かれていたんだけど、

なんか最近は、勝ち組とか負け組とか、そういう成功基準でしかものごとを見られない人が多くて、

たとえば映画をつくっている若者でも「ビッグになりたいんです」「成功したいんです」としか言わない、と。

昔の人はよかった、というじいさんのような話をするつもりはないけれど、確かに以前は

「この人と仕事ができるようになりたいんです」「こういう映画を自力で撮れるようになりたいんです」

といった感じで、到達地点が「現実的」だったと。

そこに向かってきちんと歩いていけるような、具体的な夢を語る人が多かった、と。

これ、なんとなくわかる。今の夢って、先に回答や結果を求めすぎに感じる。

「どうしたらいいんですか?」と、つい聞いてしまいやすい。

たとえば仕事の面でも、「○○○○のやり方でいいんですか?」なんて聞く後輩、減ったもの。

何も考えない「指示待ち」の人、多いよ~。それか逆に、妙に自信満々で、自分で勝手に判断して動いて、

失敗してクライアントに迷惑かけて、それで怒られたら、次からいきなり「どうしたらいいんですか」って。

いや、自分で考えようよ、まず。お手本や見本は、そこら中にいっぱいあるのに。

先輩の電話の応対内容に耳を傾けるだけでも、先輩が顧客と何をどう話して、

どんなふうに進めているか、ヒントを見つけられるよ。打ち合わせなんかに同席したら、もっとヒントがあるよ。

感心して終わりじゃ、もったいなさ過ぎる。

そのなかから自分に合ったやり方を自力で盗んでいこうよ、と思ってしまったことは、何度もある……。

それが「自分のやり方」になっていくんだし、自分の「糧」になっていくんだよ?

言いたいことが、わかるだろうか。

何かをするのに正解とか答えなんてないし、マニュアルもないし、

具体的な、現実的な地点に辿り着かずに「ビッグになる」ことも「成功する」こともないの。決して、ね。

本来、人間はちっぽけなのだ。70~90年の人生と言うけれど、

20歳を過ぎるまでは「大人」扱いもしてもらえない。

楽しんでやれること、真剣に打ち込めること。

今の自分で工夫できること、面白いと思える部分。

それをまず、自力で探そうよ。

そうしたら、結果や見返りよりその過程のほうが、よっぽど楽しめるようになるから。

有名かどうか、劇的に儲かるかどうかなんて、関係なくなるよ。

それに打ち込めるだけで楽しいし、充実していく。

たとえば、50年、畑と向き合ってきた農夫は、すごくないのかな。

どんな天候であっても畑を守って、毎年ちゃんと実りをつくりあげ、

自分と家族を養えてきたって、すごいことじゃないのかな。

同じようにコツコツと生きてきた、工場の職人さんは、すごくないかな。

退職まで勤め上げた、サラリーマンのお父さんは?

みんな、無名だから、平凡だから、すごくないのかな、ダメかな……。

何を自分の目標にするか、何を糧にするか、何を喜びにするか。

そういう視点を、今、やっと「周囲に流されずに」見つめ直せる機会に、あなたは立っている。

ちっぽけな自分を、ある意味「やっと認識できた」んだから、そこから、変わっていける。

本当に自分が喜べる生き方、を、改めて見直せるのだ。

そこには、見栄も、プライドも、派手さも、賞賛も、金額も、別に関係なくていいんだよ。

本当は、必要ないんだよ。これ、説法じゃないよ、別に。

逆にそれだけを夢見て、自分は飼われてる魚のように、じっと口を開けて待ってる?

何も自力で楽しんで作り上げることなく? それが一番?

本当にそうだと思う? ラク? 楽しい?

自分がやったことに対し、あとからそういった「付加価値」が還ってくることが、

たまにはある。見返りは、付加されるだけだよ。本質じゃない。

見返りだからこそ、うれしい。

身近な人に感謝されることも、「還ってくるもの」として、すごく大切だよね?

もし何かを「成し遂げる」とか「守る」っていうのなら、本当にそうしたい、というのなら、

周囲に流されない、脅かされないもの、自分が楽しめるもの、打ち込めるものを見つけていこう。

結果じゃなく、過程を楽しんでいく視点を持とう。

ちっぽけな自分のままでも、できることがある。たくさんたくさん、あるのだ。

あなたが視点を変えるだけで、たくさん、ね。

心が痛んでしまって時間がある今、そういうふうに、あらためて自分を見直してもらえたら、と思う。

ある意味「変な」価値観から脱することができて、本当に幸せな気持ちで生き方を変えていける人が、

これからたくさんたくさん、増えていきますように……。

心から、祈る。

あなたが生きていい理由

昨日と一昨日に書いた話で、「死んじゃいけない」理由については、

あなたが心からスッと納得できるものがたぶん見つからないだろう、と書いた。

それは、たとえどんなにいろいろと理由を並べられたとしても、

「どうせ思いとどまらせるために言ってるんでしょ」としか、思えないだろうからだ。

そう、悪い結果しか考えられない脳みそでは、いくら道理を並べられても、悪いほうにしか受け取れない。

ダメって言われたって、と、禁止に反抗しちゃうのだ。

だから今日は、もうひとつの「こんな私であっても生きていっていい理由」について語ってみる。

こちらもまた、今、死を思う人にとって切実な話だろうから。

このテーマは、本当は、それぞれの人の事情をきちんとふまえ、

「あなたの場合の問題というのは、こうこう、こういうことだから“生きていていい”んですよ」と

個別に説明してもらったほうが、よりわかりやすいのだろうとは思う。

ただ、私はそうした仕事のプロではないので、ここでは、私が知り得た「事実」を中心に書いていく。

それをどう受け止めるかは、あなたの自由である。

ひとつめは、母親という存在から、あなたが生まれた、という事実。

生まれるまでの10ヵ月と、産後の肥立ちと呼ばれる体調回復までの1~2ヵ月、

ほとんどまる1年を、あなたが生まれてもいい、と思ったからこそ、費やしてくれた人がいる。

あなたは、その人が命の危険を冒してまで(比喩とか大げさな話じゃないよ。

死のリスクはどんなに医学が進歩しても、

妊娠・出産しようとするすべての人にある)、誕生させてくれたのだ。

先日、少しこの話を書いたときに、ひとつの卵子とひとつの精子の出会いだって

確率的にはすごい奇跡なんだ、というコメントもいただいたけど、それも本当だと思う。

で、ここからは、私の感覚ね。

そもそも最初から、そんな状況や確率を経て、奇跡的にあなたは生まれたきたのだから、

せっかく、生まれてきたのだから、今、病気になったからって、

無理して、そんなにメチャクチャ苦しい思いまでして、自分を殺す必要はない、と思える。

生きて、そこから抜け出して、その過程で何かを学んで、人生を新しく楽しくすることは、絶対にできるのに。

新しく楽しい人生なんて保証はない?

だいじょうぶだよ。死にたくなるほど苦しい今よりは、必ず楽しいよ、いろいろと。

自分のものの見方も変わるし、人への接し方も、勝手に変わる。勝手に、ね。

悪い方向ではなく、穏やかな方向へ。より深い方向にも、少しは進んでいける。

そして、それを自覚することもできるのだ。

なかなか面白いよ。それを感じ、また、変わっていく自分を観察していくのって。

さらにもうひとつ、私が知っている事実。

あなたという人は、世界中にたった一人しかいない、貴重な存在だということ。

これは「生物」としての「遺伝子」のなせるワザだけど、あなたとまったく同じ考え方をし、

あなたとまったく同じ外見で同じ行動をする人は、世界中に一人もいない。

その遺伝子のなせる「微妙な違い」が、世の中を変えていく。

あなたのとった行動、あなたの発した言葉が、それを受け止めた誰かの心に影響し、

たとえほんの少しであっても、何かを変えていく。

そうした一人ひとりの「ほんの少し」の思いが、歴史をもつくっていくのだ。

たとえば、ベルリンの壁の崩壊。

戦争によってある日突然、勝手に分けられ、親族や家族とも離ればなれになっていたゆえに、

壁の向う側へ行きたい、と願っていた人たちが、ニュースの報道を勘違いして聞いて動き始め、

同じ思いだった人たちがそれに続いて、やがて壁は壊れた。

そこには何の暴動も起きてはいなかった。ソ連の動きなど、さまざまな機運が高まっていただけ。

東西冷戦と呼ばれ、鉄のカーテンだの、竹のカーテンだのと政治的な欲で分けられて、

核兵器までつくって脅し合っていた「境界」が、人の思いと、歩く、という行動によって崩れたのだ。

だから、自分の願い、自分の思い、自分の考え、そうしたものを、卑下することはない。

たとえ職場ではたいしたことが言えなくても、家族に何かしら、よい影響を与えているかもしれない。

あるいは、友人に、通りすがりの人に。

「利益につながる」ことだけが、立派で重要でエライ意見では、決してないのだ。

だって人間は、働く機械じゃないからさ。「働き続けて稼げること」だけでは、生きていけない。

趣味的なことだって、遊び心だって、なんだっていいのだ。

あなたが感じることは、世界で唯一、あなただけの感性であり、基準なのだから。

それは他者に影響を与える。身近な他者、あるいはネットなどを通じて、通りすがりの他者に。

自分程度の人間は、いくらでもいる? 似たり寄ったりがどうして悪いのだろう。

並んで咲いているチューリップの花は気持ち悪い? 表現の違い、見方の違いで、意味は生まれてるよ?

しかも、その横並びに見える姿こそが、人に何かをもたらす。

平凡であることは、悪いことではない。まっとうに生きていける可能性を秘めている。

あり得ない余計な苦労を背負い込む可能性もまた、低いんだよ?

単純に「有名になりたい」「何かで人の上に立ちたい」なんて大雑把すぎる夢想をするから、自分がちっぽけになる。

実際、そんな人は努力した挙げ句に、変人と呼ばれたり、人にまとわりつかれたり、

その人自身が奇抜なことを思いつきすぎて、結局は法に触れて

塀の向こう側に落ちたりする(意味わかるよね?)可能性だってあるよ。

そんなに楽な人生だとは、私には思えない。

心豊かで人徳もあって、もともと代々のお金持ちで何の苦労もしていないように見える人だって、

家の中は大変な人間関係になっているかもしれない。

あるいは本当に、本当に素晴らしい人なら、そうであるように自分の心や生活などを、

さまざまにきちんと、戒めていらっしゃるはずだ。

何も苦労せず、いい加減に家族の金で遊び回っていても、本人の心がけが悪ければ、

お金を媒介にしたつまらない人間関係しかつくれない。

それで破産でもしたらその人にとっては一環の終わり、ってことになっちゃう。

そのとき、どれほど苦しい思いをするか。

いろいろ気づいていくために、どれほど大変な思いをするか。

たとえばそんなふうに、金銭の多い少ないは、楽しい生き方の条件のひとつにはなり得るけど、

「絶対的な幸せ」の条件ではないのだ。たぶん名誉も、権力もしかり。

社会的な成功者にみえる人が自死を選ぶのはそのためなのだ。

……ここまでは、事実だってこと、わかるよね。そんな人の例もいっぱい、挙げられるよね。

じゃあ、あなたにとって本当に大切なもの、あなたにとっての「一番、守りたい価値」を

新たに見つけていこうよ。そんな、表面的・物質的なもので、はかるんじゃなくて、さ。

同じお金でもそれを実現し、守っていくために稼ぐ、っていういうほうが、よっぽど楽しいよ。

それが実現できたら、あるいは継続できたら、こんなに幸せなことはないよね。

しかもそれは、唯一無二の存在である、あなたゆえにできることであり、得られるもの。

似たような才能を持った2人が同じ会社に勤めて同じものをつくっても、似たものはつくれるけど、

それはまったく同じではないでしょう?「品質基準」をクリアするだけだよね。

そしてそのまま、2人の人生は、まったく同じようは進んでいかないでしょう?

会社だけが人生じゃないし、その仕事だけがあなたのすべてではない。

さらに、あなたと相手はお互いに影響し合う。やっぱり、そうやって変化を起こしていくのだ。

だから、自分の力、自分がすでに今、もっているものを、そんなに否定することはないと思う。

あなたはこの世にたった1人しか、いないからさ。

今は、うまいかないことにすら、何かを見つける時間、くらいのつもりで、流れを静観してみようよ。

変化は、絶対「悪い方向に進む」とは限らない。ある意味、これ以上悪いほうへ向かう確率は低いんじゃない?

あきらめるな、なんて、余計に苦しくなりそうな、悲しいことは言わないよ。

せっかくの、チャンスなんだと言いたい。

自分のこれからを、見方を変えて、新たな楽しみにしていこうよ、と、私は思う。

そのために、これから少しずつ、病を治していこう。そしてやがて、行動していこう。

とてもシンプルなことだけど、今はそれだけでもう十分、いいんだと、思える。

それは新しいあなたへの、素晴らしい、そして大切な努力なんだよ、と。