カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

自分を採点するから他者をも採点する⇄他者からも採点される

これって昨夜の続きにもなるのだけれど……

 

○○できてない 自分が憎い

○○でない自分なんて 認められない

 

その気持ちをさ ペットの扱いに例えてみようか

芸ができたらお利口さん と言ってエサをあげ

芸ができなければ 蹴りを入れる

最近はダメ出しするようなことばかりだから 蹴りまくりで

本当はこんなヤツ 捨ててしまいたいけれど

それがペットでなくて自分自身だと

捨てるには命を絶つしかないのよね って話

 

腹が立つから 捨ててしまいたいのだ

つまり かんしゃく持ちの 飼い主だ

芸ができるかどうかによって 愛情は簡単に変わるの

芸ができないヤツなんて 私には要らないのよって言ってるよね それ

 

じゃあなぜ芸ができないとダメなのか? と言えば

私を引き立たせる材料にできないから なの

私を引き立たせ すごいね と言ってもらえ

ほめてもらえ 愛されると

 

いや ペット虐待してる人だと知れ渡れば

どれほどそのペットが芸達者でも

あなたは ほめてもらえないでしょう

ほめるのは そのペットを金もうけに使いたい人

こりゃうまく利用すれぱ オイシイわ と思う人からの

心ない追随の賞賛くらいで

最後にはそれにすがるしかなくなるのかもね

 

と こんなことを書いていて ふと思い出したけれど

やしきたかじんさんの奥さん もしメモが偽造だったのなら

最後にはまさにこうなるだろうね

天網恢々 疎にして漏らさずだから

 

話題がずれたな

あなたが立派であり続ければ愛されるか は

実は問題設定としてズレているのよね

 

立派なペット 立派な外見 立派な蓄財 立派な権力 その他何を持っていようとも

その人がどういう人か は 他者への接し方で

他者が勝手に 感じ取るから

それをすべて あなたがコントロールできるはずもない

 

ましてや 私はこんなに立派なのよ! ふふんどうよ

なんてやった日には 周囲 全員引くよね 

おべんちゃら言って 甘い汁吸いたい人 以外 普通は逃げる

 

なのにあなたは 今 全く逆の採点結果になっているものの

立派であるかどうか で自己を採点し

私はダメなんですけど 

あなたにこれくらいは差し出しますから 

その代わり 私に愛情 返してくれますよね?

みたいなことをやってるの

 

すり寄ってくる人の 逆バージョン

ダメな私を差し出すので あなたが満足できるよう尽くすので

私を 私だけを 見つめて

愛して(あるいは気に入って 気にかけて)ください

ってやってる それもまた 相手側にとっては

単なる駆け引きに感じられると思うよ

 

そのどこに こちらへの愛情とか 思いはからいがあるわけ? って

結局 自分に返してほしいから 近寄ってきたんじゃないの? って

やっぱり疑念を 感じられると思うよ

 

だって持ちかけられているのは駆け引きで

もし その駆け引きに応じるなら

こちらの態度は常に見張られて採点されるなって 相手も気づいていくもの 

実際 あなたは 見張りと採点してくるだろうしね

 

その結果

プラス面を自慢しようが マイナス面で萎縮して下手に出ようが

あなたの駆け引きに応じようとするなら 相手は

あなたの見張りと採点に合わせる形となり 

結局はあなたのこともまた 見張り 採点し始めるのよ

 

こちらばっかり責めるけど あなただって! 

というケンカが起こる場合 その中身はたいてい

『あなたの 私に対する採点が低いのは こちらとしては不満だ』

という お互いの気持ちの 押し付け合いでしょう?

 

うん それ 愛情とか 尊敬とか そんな話でなくて

ただの 取引内容への不満表明 だよね

 

自分を見張り 採点し 罵倒するから

他者に対しても 採点し 見張るしかなくなるの

いつまでたっても こんな私を好いてくれることが本当には信じられない

それゆえに 見張り 採点するしかなくなるの

 

ねえ それ 愛情じゃないよ おびえ だよ

相手のおびえを消せるかどうかが 愛の証だと思ってる?

 

そういうふうに 誰かに しつけられたの?

芸ができなければ 愛を与えないって言った人は

愛ではなく 駆け引きしてきただけだよ

あなたがそれを 愛だと思うことにしただけで

相手にとって そこにあるのは

「こいつがちゃんと 私をのことを立派だと

周囲に思わせられるだけのことをするかどうか」の

疑念と採点と評価だよ

 

それ 愛じゃないの 残念ながら

 

で あなたは その取引を いつまで続け

いつまで自分を採点し それゆえに 他者へすり寄り

相手からよい評価をもらおうとするあまりに

その相手をも採点し 評価し 不満をぶつけるという

苦しいサイクルの中で 生きていくのかな

 

この仕組みを 依存 といい

依存は 愛ではないのだけれど

(似ているようで異なるもの 見張りが必要な段階で

はっきり 別ものなんだよ) の枠の中で やっていくことを選ぶ?

 

その枠を自分が抜け出すかどうかは 自分でしか決められないし

抜け出す作業ができるのも 自分自身しかいないのだ

 

親不孝 と呼ばれようが 責任無し と呼ばれようが

(依存してくる人ほど またね このフレーズをよく使うのだわ)

その枠から抜け出すことをできるのは あなたしか いないのだ

 

ま これも先日から書いているけれど 

依存して甘い汁を吸いたいと 信じている人には

こんな言葉も まったく届かないとはわかりつつ……

 

あなたが蒔いた種は あなたが刈り取る

ただ それだけの話

 

そしてそんな種なんて 今この瞬間から 蒔くの やめていいのだ

ダメな私が 今はダメなままでいいこと なぜそれが「可能」で「必要」なのか

その理由を本気で知ろうとしていくところから

いつだって始められるのだよ……

 

長くなってゴメンね ていねいに書いてみたかっただけです

 

2016_05_15

Photo by byrev
Pixabay

 

なるほど、これが『問題ではなくなる』ってヤツか、と

昨日、自分のことについての気づきを

書いたあとの、さらなる気づき。

 

私が、気持ち悪さを感じるんだなあ、とか

私が、遠くに置きたいんだなあ、なるほど、とか。

 

そっちを見つめ始めると、お姉さんのことが

自分にとって『見張る対象』ではなくなった、

気にならなくなったのは事実。

 

そしてそれは、あきらめたというより、

 

それ、私の問題じゃないし

 

と『身をかわす』ような感じ。

どっちにしても、

私は揺らがなくてもよくて、

うーん、気持ち悪い、と自分を観察できていればいいや、と。

 

これは、かのお姉さんに、初期のころ、

ちょいちょい働きかけてみても通じず、

自分が相手に伝えようとしていたものは

まったく意味をなさなかったから、

もうこりゃ、彼女に伝えるの、私の役目じゃないんだわ、を

練習して、体得していった結果、自分自身に勝手に起こった反応。

 

そしてのちほど、自分にとってそれが

「あら? 意外にラク」だと気づいたのだ。

 

むしろまわりが、心配してやり取りを見張ってくれてて

不快感を常に、感じてくれていることに

『あー、なんか申し訳ないな、

でもごめんなさい、

違うんじゃない? とやっても通じないから、

私はもう、やらないの』

 

を貫くわー、という感覚になり。

 

そうしたら、ムカッとは来てもね。

それを回数重ねて、積み上げて

お姉さんがいかにヒドイかを

人に説明する必要もなくなったのよ。

たまに、友達とはネタ扱いできる感じ。

少なくとも会社の人には、私がグチることは激減したの。

 

本当、『あ、また何かをやってらっしゃる』

という笑い話のネタ扱い、にするかどうか、くらい。

しかも毎日、どこかでなんか一つはあるから、

そのうちネタ扱いする必要もない感じになったり。

 

これって、まさに

『自分にとって、それが問題ではなくなってる』

という感じなのかな? と、ふと思えた。

 

お姉さんとっては、たぶんいまだに私の存在は

『気に入らない相手』だろうけれど、さ。

 

でもお姉さんってば、嫌われるようなこと、

自分で先にしておいてから、たとえば文句を言いに来られたとき

パシっと「違うよ、私やってないし」と私が返したら

さらにムッとされて『だから腹が立つのよ』とかつぶやかれる。

そういうふうに、どんどん自分を追い込んでおられるわけ。

 

それ、どこからどう見ても、私にとっては

お姉さんの自作自演

なのです。

 

その文句(お姉さん、常に怒りの形でこっちへ持ってくるのです)で

単純に、自分がミスしているときなら、

私はね、スルッと謝るし、その後の対策も練る。

 

でもお姉さんの勘違いだったら

うん、違うよ、と伝えて終わり。

それを悪意的に解釈するのはお姉さんのほう。

 

なので相手がそのあと、何をどうしようと

(たいてい逆恨みか、過去の私の側の失敗を

思い出されて内心、あなただって、と、

やっておられると想像できる。文句つぶやいてるから。

しかも仕事のミス内容で言えば、よりヤバいのは

お姉さんだったりするが、そこも、私は指摘しない)、

私は私だから、それでいいのだ、と。

 

そうか、指摘しないままでもいいんだー、と思ったら、

遠くに置いておきたい存在ではあるけれど、

私の日々の不快感は、かなり消えました。

 

最近、だいたいの場合は、

ヘンな対応、と私が感じた。

へー、またか。

おしまい。

たまに、ヒドすぎて、あっけに取られたあと

「いい加減にしろ(-_-#)」な気持ちが湧くと、

→話せる人に話して笑い話に変える、

→やっぱり私には心地悪いわ、あの対応、と再認識、

→改めて落ち着く、自分は気が済む。

 

結局、残ったのは自分の側の対策の実行、

つまり改善の練習。

ありがたいところに立てたわー。

 

わかるかな。

他者に、自分の良さや正しさを

認めてもらおうとすること、

そこの部分であがけはあがくほど、もしかして

自分の中に『自分が』問題作るのかもしれないよ。

 

私が私を『この私の感覚、それでいいんだわ』と

本気で思えるほうが(本気でこれを思えると、

いつもそう思うたび、自分でマジにホッとできるのよ、

なんともありがたいことにさ)、

そっちを見る、自分をそこへ向けるようにする練習のほうが、

やっぱり、先なんだよ。

自分嫌い、いつまでも続けているから、他者ともうまくいかないの。

同じところでいつもつまづくなら、

なぜ、のヒントはそこに大量に転がってるのよ。

しかも、自分の内側に。それを先に解こうよ。

 

他者とうまくいきたいなら、なおさら、

自分のことを知るのが先なんだ。

 

今日の、この意図、必要な方に伝わりますように。

 

2016_05_11

嫌い、の渦中にいると俯瞰は絶対できないよね
自分に何が起こっているのかをわからないまま
苦しむだけ、なのはもったいなくない?

Photo by ryse5
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自分の内側

昨日のブログで「自分の内側」という表現を使ったので、

今日は、その内側と外側の境目って、どこなんだろうという話をしてみたいと思う。

 

私の解釈なのだけれどね、私のなかでは「自分」って

「考えたり感じたり」の思いを『持つ』部分、のこと。

部分って言っちゃうと、ちょっと語弊があるけれど。

 

たとえば、私が、誰かのイヤな言動を見て、不快さ、を感じたとする。

その最初の瞬間の「ムッとした」感じ、

そういうなんだかモヤッとしたものって、

胸よりはもうちょっと下、おなかの真ん中あたりにまず表れる。

そして同時に、「え!?」という『頭の中で思い浮かべる言葉』も湧く。

すごく一瞬なんだけれどね、「モヤッ」が湧くときに「え!?」って出てくる感じ。

 

トキメク方向の「ドキッとする」のは胸のあたりで、その瞬間、

頬にもちょっと血が集まってくるし、

同時に頭のなかで「うわっ」とかいう言葉を発していたりもする。

 

悲しさを感じたときも、胸にまず「何か」が来るけれど、

このとき頬には、何も感じない。そして「う……」という言葉が思い浮かんでいる。

どちらかというと、頭の中で思い浮かぶ言葉は、

どこかで感じた「もやっとした何か」が表れたことによって出てくるのかもしれない。

 

で、ですよ。

そうなると内側の私って、感じ取る際に

身体のいろいろな場所を使ってはいるけれど、

「身体全部、そのもの」よりは、

そのもっと「内側」とか「奥」な感じがするわけです。

背骨よりも奥深く、みたいな印象。具体的に想像するの、難しいんだけれどね。

 

こういうことって私は、昔からずっと、

当たり前のこととして、自分の身体を使ってやってきていたのに、

自分が、何をどうやって感じているかなんて、気づいたことなかった。

 

はっきりと気づけたのは、私が死ねなくなったあと。

もう私は死を選べない、そういう意味では、回復することしか道が残されていない。

じゃあいったい、どうやって生きればいいのだろう?

自分をこれ以上、見下げて苦しまないで済むには、どうしたらいいのだろう、と

いろいろ探っていたときに、

たまたま受けた、あるセラピストさんのセッション。

 

その人が「今日は、自分を感じてみましょうか」というレッスンをしてくれたのだ。

そのときに、こうイメージしてみてください、って言われたのが

「私というのは、CD盤の『穴』の部分である。

その外側にCDの部分、つまり『自分の身体』があって、さらにその外側に、

今まで外側だと思っていた『外界』がある。

『私』は穴から、五感も使いながら、

『身体を含めた外側全体』を見渡し、感じている」と。

 

この「本来の自分はCDの穴」っていう表現で、

先に書いたような「感じ」をどこで最初に受けとめているか、みたいな話が、

ストンと腑に落ちた。

 

そうか。

たまたま私は「この身体」の内側にいるけれど、

ここまでが私、っていう区切りを厳密につけるとすれば、

肉体もすでに「自分の外側」って思ったほうが、

なんかスムーズに納得できるわ、って。

 

で、私はこの外側の肉体とは関係が深いゆえに、

感情の湧きどころとして、腹を使ったり、胸を使ったりできる、勝手に。

人前で「あがる」、そういう形の緊張をすると、

足にも震えという「お知らせ」が来たり、

汗をかいたりもするのか、と。

 

で、話を昨日のところに戻すと、だからこそ「自分の内側」、

つまり本当の芯のところの私を磨く、心地よくするのって、

寝たきりでも可能だよ、と言えるわけです。

 

たまたまね、この内側を「心地よく」するために、

キレイな花を見たり、美味しいものを食べたり、身をキレイにする、

という方法は「使える」けれど、

自分の内側を磨くのに、別にそれが必須ではない。

 

自分が「心地よくなれる練習」を積むことが

『内側を磨く』ってことなのだ。

 

そう捉えれば、病があっても、できそうなこと、あると思わない?

笑えたら、免疫力だって実際に上がるんだよ?

外側だけれど、自分と関わりの深い「身体」を大切にしてあげることも

自分の内側を「心地よく」するのに役立ちそうじゃない?

 

お金も、勉強も、成績も、地位も名誉も見栄えも、

「内側」を良くするために「うまく利用」はできるけれど、

必須じゃない、別にそれが「私というもの」じゃないのよ。

 

っていうかどうせなら、内側を磨く、

自分を心地よくしていくために、そうした外側のものと

上手につきあっていく、うまく扱える練習のほうを積もうよ。

それがなければ死ぬしかない、なんて、

単なる思い込みだっていう意味、伝わるかな?

 

そして、自分の「内側」をいちばん「心地よく」してくれて、

自分の内側磨きにいちばん役に立つのが「愛」や「思いやり」と

呼ばれる範囲の、温かい感情、なのだと思う。

 

しかもね、誰かからそういったものを受け取ることが必須、じゃないの。

自分が内側から「それを表現できる」ことが、内側磨きに役立つ。

特定の誰かに限定していなくても全然、問題じゃないの。

見知らぬ人にだって「表現できる」ことはわかるよね?

 

そしてさらに、絶対、とも言えることは、

自分に向けて「愛と呼べそうな範囲のもの」を発してあげることって、

他のあらゆる手段よりも効果が高い

ってこと。

これは私も練習してきて、確実に、そうだと思える。

 

だから本当は、何かを持ってないこと、が問題なのではないし、

誰かにほめられたり愛してもらえたり、が

できていないことが問題なのでもない。

 

あなたが、自分の内側を見捨てている

あるいはまったく無視している

 

ことのほうが、よっぽど大きな問題なの。

だってそれ、いちばん、自分を苦しくさせる方法として「近道」なんだもの。

 

ゆえに、もう一度、言っておくね。

 

自分の外側のことが

うまくいかないという理由から、

今、あなたは、自分が苦しんでいるように

思えるのだろうけれど、

それは「外側のこと『しか』見てない」から

苦しいのだよ。

 

あなたはCDで言えば『穴』の部分。

そこを見つめ直していくことで、必ずいつか、

その苦しみから「あなたにとってやりやすい方法で」抜け出すことができるよ。

身体、肉体を含めた「外側」のものだけを見つめるのは、

そこまで苦しい今だからこそ、ちょっと、やめてみない?

自分の内側のほうに、もっと意識を向けてみない?

 

なぜ私は、自分の内側、芯の部分、

CDに例えれば穴の部分を無視しているのだろう?

どうやったら私は、自分の内側を大切に扱って、

『磨ける』ようになるのだろう?

 

そういうふうに内側を知る練習を始めるとね、

そこに「ものごとを損得でしか捉えていない自分」とか

「見栄を張らなければいけないと信じてきた自分」などが

見つかり始めるのですよ。

 

そういうシンプルな部分からもう一度、

練習、始めてみない?

 

2016_04_26

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