昨日、自分のことについての気づきを
書いたあとの、さらなる気づき。
私が、気持ち悪さを感じるんだなあ、とか
私が、遠くに置きたいんだなあ、なるほど、とか。
そっちを見つめ始めると、お姉さんのことが
自分にとって『見張る対象』ではなくなった、
気にならなくなったのは事実。
そしてそれは、あきらめたというより、
それ、私の問題じゃないし
と『身をかわす』ような感じ。
どっちにしても、
私は揺らがなくてもよくて、
うーん、気持ち悪い、と自分を観察できていればいいや、と。
これは、かのお姉さんに、初期のころ、
ちょいちょい働きかけてみても通じず、
自分が相手に伝えようとしていたものは
まったく意味をなさなかったから、
もうこりゃ、彼女に伝えるの、私の役目じゃないんだわ、を
練習して、体得していった結果、自分自身に勝手に起こった反応。
そしてのちほど、自分にとってそれが
「あら? 意外にラク」だと気づいたのだ。
むしろまわりが、心配してやり取りを見張ってくれてて
不快感を常に、感じてくれていることに
『あー、なんか申し訳ないな、
でもごめんなさい、
違うんじゃない? とやっても通じないから、
私はもう、やらないの』
を貫くわー、という感覚になり。
そうしたら、ムカッとは来てもね。
それを回数重ねて、積み上げて
お姉さんがいかにヒドイかを
人に説明する必要もなくなったのよ。
たまに、友達とはネタ扱いできる感じ。
少なくとも会社の人には、私がグチることは激減したの。
本当、『あ、また何かをやってらっしゃる』
という笑い話のネタ扱い、にするかどうか、くらい。
しかも毎日、どこかでなんか一つはあるから、
そのうちネタ扱いする必要もない感じになったり。
これって、まさに
『自分にとって、それが問題ではなくなってる』
という感じなのかな? と、ふと思えた。
お姉さんとっては、たぶんいまだに私の存在は
『気に入らない相手』だろうけれど、さ。
でもお姉さんってば、嫌われるようなこと、
自分で先にしておいてから、たとえば文句を言いに来られたとき
パシっと「違うよ、私やってないし」と私が返したら
さらにムッとされて『だから腹が立つのよ』とかつぶやかれる。
そういうふうに、どんどん自分を追い込んでおられるわけ。
それ、どこからどう見ても、私にとっては
お姉さんの自作自演
なのです。
その文句(お姉さん、常に怒りの形でこっちへ持ってくるのです)で
単純に、自分がミスしているときなら、
私はね、スルッと謝るし、その後の対策も練る。
でもお姉さんの勘違いだったら
うん、違うよ、と伝えて終わり。
それを悪意的に解釈するのはお姉さんのほう。
なので相手がそのあと、何をどうしようと
(たいてい逆恨みか、過去の私の側の失敗を
思い出されて内心、あなただって、と、
やっておられると想像できる。文句つぶやいてるから。
しかも仕事のミス内容で言えば、よりヤバいのは
お姉さんだったりするが、そこも、私は指摘しない)、
私は私だから、それでいいのだ、と。
そうか、指摘しないままでもいいんだー、と思ったら、
遠くに置いておきたい存在ではあるけれど、
私の日々の不快感は、かなり消えました。
最近、だいたいの場合は、
ヘンな対応、と私が感じた。
へー、またか。
おしまい。
たまに、ヒドすぎて、あっけに取られたあと
「いい加減にしろ(-_-#)」な気持ちが湧くと、
→話せる人に話して笑い話に変える、
→やっぱり私には心地悪いわ、あの対応、と再認識、
→改めて落ち着く、自分は気が済む。
結局、残ったのは自分の側の対策の実行、
つまり改善の練習。
ありがたいところに立てたわー。
わかるかな。
他者に、自分の良さや正しさを
認めてもらおうとすること、
そこの部分であがけはあがくほど、もしかして
自分の中に『自分が』問題作るのかもしれないよ。
私が私を『この私の感覚、それでいいんだわ』と
本気で思えるほうが(本気でこれを思えると、
いつもそう思うたび、自分でマジにホッとできるのよ、
なんともありがたいことにさ)、
そっちを見る、自分をそこへ向けるようにする練習のほうが、
やっぱり、先なんだよ。
自分嫌い、いつまでも続けているから、他者ともうまくいかないの。
同じところでいつもつまづくなら、
なぜ、のヒントはそこに大量に転がってるのよ。
しかも、自分の内側に。それを先に解こうよ。
他者とうまくいきたいなら、なおさら、
自分のことを知るのが先なんだ。
今日の、この意図、必要な方に伝わりますように。
嫌い、の渦中にいると俯瞰は絶対できないよね
自分に何が起こっているのかをわからないまま
苦しむだけ、なのはもったいなくない?
Photo by ryse5
Pixabay