カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

こころに光。

今日は、一種のイメージトレーニングのような話を。

といっても、何かで覚えた、というのではなく、強いて言えば、さまざま読んだ本から得た瞑想法のようなもの。

宗教組織の何たら、とかいうものではないので、その点はどうぞご安心を。

子どものころは、鬱になるほど、人生に悩んでいなかった、という人は多いのではないだろうか。

もしかして、中にはそういう人もいるかもしれないけれど、少なくとも小学校の中学年くらいまでは、

生きることはそれほど難しくなかったはずだ。

そのときには何の責任もなかったから、とか、いろいろ比較をしそうになるが、

少なくとも「自分の毎日」があることに、深く疑問を感じなかったと思う。

朝起きて、眠くてもなんとなく起き上がって、ああ、学校行くのは面倒だな、と思ったとしても、

少なくとも日常的な「今日」という日は、怖くなかったはずなのだ。

それはなぜだったんだろう。

親の管理下で選択肢が少なかったこともあるだろうが、

自分を疑う、という経験が、基本的になかったからだ。

イメージ的にも、確かに未来は明るかったけど、日々のくらしのなかでは、そんなところにまで

思い至る小学生は少ないだろう。

勉強や運動で悔しい思いとか、自分を卑下することはあっても、自分を根本から、否定することはなかった。

そうやって自分を信じていることで、毎日、なんとなく、

何かで楽しくは生きられることを、感覚的に知っていた。

それが自然に、できていたのである。

責任がなかった? いえいえ、学校には行かなくちゃいけなかったし(私の世代なら土曜日も学校に

行っていたはずだ)、宿題はあるし、友達との約束も果たさなくちゃいけないし、お小遣いは少ないし、

親にはいろいろ指導(という言い方にしておくよ)をされるし、結構、やらなくちゃいけないことは多くて、

制限も多くて、不便だったはず。

なのに、自分については「だいじょうぶ」だったのだ。

不思議だね。そこには、なんの根拠も要らなかった。

いつから、私たちは「周囲と自分」を比較し、自分を否定し、苦しめるようになっていったのだろう。

そういうものだ、と、自分をあきらめ、自分をさげすむようになっていったのだろう。

昔よりずっと制限は減り、自由を得て、自分でできることも多くなっているはずなのに。

いつから、自分を認める根拠を何かに「頼って」、求めるようになっていったのだろう。

そんなふうに考えたとき、あることを思い出した。

新しい何かをしなくちゃいけなくなったとき。進級でも進学でも、失恋でも、新しい勉強でも、

何でもいいや、そういう「新しい生活、新しい生き方」を考える場面に出会ったとき。

できるかどうかはわからないけど、仕方ない、変わらなくちゃいけないから、やってみよう。

それに、こっちのほうが、楽しいかもしれない。

そういう明るい気持ちで、選択していたのだ、と。

自分を新しくしていくときに、心の中には「前向きな気持ち、明るい気持ち」があった。

選択する基準は、自分にとって、基本的に「明るい方向」だったのだ。

これを、いま、抽象的な言い方に置き換えてみよう。

私たちは本来、心の中に「だいじょうぶ」「これでいい」という“光”を常に持ち、

その光に沿って、動いていたのだ、と。

いつから、その光を感じなくなったのだろう。

いつから、その光に逆らって、自分にとっての「暗い選択」を、していったのだろう。

試験がダメでも、恋がダメでも、親に叱られても、次に生きていく指針は「光」、明るい方向だったはずなのに。

でも、その光を、失ったわけではない。

ただ、周りと自分を比較して、自分のことより周囲の状況を優先して、

それに合わせて「都合がいい」ことだけを選んでいくようになった。

自分が光からではなく「恥ずかしい」「格好悪い」「みんなと足並みを揃えてないと」という

別の基準から、ものごとを選ぶようになっていったのである。

それが自分にとって明るいか、暗いか、ということではなく。

そうやって私たちは、心のなかの光を少しずつ、別のもので覆っていってしまったのである。

その光は、どんなにいろいろ制限があっても、結構、そこそこ楽しく生きていけるような、

ステキな選択基準だったのに。

じゃあ、その光を、思い出してみようよ。実は、消えてないから。

決して、あなたのなかからなくなったわけではない。楽しい「感覚」は、身体の中に、染みついている。

昔は気楽でよかったなあ、とは、思えるはずだ。

ということで、それを思い出す練習。

横になって、あるいは、椅子にゆったり座って目を閉じる。

そして感覚的に、身体の中心、心臓のある辺り、あるいは胃の辺り。

私の場合はなんとなく、胃の辺りになる。身体の中心線、

胸の肋骨の一番下の骨を、片手の親指で押さえ、次におへそを小指で押さえてから、

そのままゆっくりと、指を閉じたところ。胃の真ん中? くらい。

そんなふうに、思い描く場所はどこでもいい。

そこに、光を、感じてみるのである。

どんな光か。

もう、まったく、何ものにも負けない、太陽のような光が、そこにあるというイメージ。

絵に描いた太陽ではなく、空に浮かんでいる太陽。

あの白くて少し黄色い、みつめられないほど強い光が、あなたの身体の中心に、存在している。

イメージしてすぐに、強く四方に光を放つ球を思い浮かべられる人は、少ないと思う。

何かに、覆われているように感じる人もいるだろう。

その場合は、覆いを壊そう。イメージの中で、物理的に、でいい。

カチカチの黒い玉の覆いなら、カナヅチで何度も叩いて、貯金箱のように割ってしまおう。

「にかわ」のようなものでくっついた、ゴワゴワでベタベタの、みの虫のような覆いが思い浮かぶなら、

ピカピカの、ダイヤモンドのような、水晶のような、ものすごく美しい、絶対折れない大きな針を、

その覆いにスッと差し込もう。針を抜けば、そこからすでに、一条の光が現れる。

あとは、針で穴を広げていくのでもいいし、途中でノミとカナヅチに持ち替えて、少しずつ、

隙間を広げていってもいい。

光は、どんどん見えてくる。急がずに、ちょっとずつ、イメージしていこう。

最初は、虹色に輝く美しい透明の針でスッと穴を開けて、光を漏れ出させるだけでもいい。

やがて、最後の覆いのかけらも消えて、小さな強い太陽が、姿を見せたとき。

手をあてて、その光を、感じてみよう。

その光は、ずっと、あなたの中にあったという感覚を、安心感を、感じよう。

そう、確かにずっと、あったのだ。

温かさを、感じる人もいるだろう。身体の力が少し抜けたと感じる人も。

気が済んだら、ゆっくりと目を開けよう。それでもう、あなたは、光を取り戻せた。

これからは、何かあるごとに、手をあてて、そこに光を感じてみるといい。

光を、思い出すだけでいい。それだけで少し、柔らかくなれる。

たとえば選択肢にぶつかったときには、その光を思い浮かべてから、選択肢を見つめてみる。

暗い選択肢は自然に、光に負けて消えていく。そう、もうこれからは、

それを無理に選ばなくていいのである。

とてもイメージ的な話をしたが、一種のトレーニングになると思う。

つらい気持ちのときなどには、ぜひ、やってみてほしい。

人は、一人ひとり、絶対にそういう「光」を、生まれたときから心の中に持っているのだ。

それを思い出し、ふたたび、新しい自分への支えにしていってもらえれば、と思う。

あなたは何を選択しますか?

今日の話は、自分の心が選ぶもの、について。

まず前振りとして、私の中学生のころの話から。

当時、私はユーミン(松任谷由実)の曲の歌詞が好きでよく聞いていたのだが、

そのころ発売された「Reincarnation」というアルバムに、こんな歌詞があった。

「私を許さないで 憎んでも 覚えてて」(「青春のリグレット」)

……そんな形でさえ覚えていてほしいのか? よくわからん、と思っていたが

(まあ、中学生でその深さがわかるほうが珍しい)、今から考えれば、

これは「他人から求めてもらう」ことを望んでいる人の姿である。

これまでに何度か書いている「他者からの承認」が自分の生き甲斐、というパターン。

自分の存在価値は他人任せ、だ。

このあとに続くのが「たとえあなたが去っていっても」という、失恋から立ち直って

新しく生きていこうとする人の歌だったりするから、歌唱力はどうあれ、

ユーミン、やっぱりある種の天才だろうと思う。よく考えてる……。

ちなみに「Reincarnation」の意味は、輪廻転生、生まれ変わり、なのだ。

中学生にはさらに意味不明、って感じだったが。

別に、これが1人の女性の、失恋とその後の経過を表しているわけではないかもしれない。

でも、「何を選択していくか」の例にはなるだろう。

過去の思い出の中にある他者の承認(愛)にしがみついて「私を覚えていてほしい」と思い続けるか、

たとえ相手が去っていっても「幸せかどうかわからないけど 自分からあふれるものを生きてみるわ 今は」

(あ、これはその次の曲の歌詞ね)と思って生きていくか。

苦しみ続けるのは、どちらだろう。

そんなこと、わかってる! という声も聞こえてきそうだ。

そこから抜け出せないから、苦しいんじゃないか、って。

責めているのではない。昨日も書いたけれど、過去も、今の苦しみもあなたの頭のなかにしか存在せず、

あなたがそれを選んでいるのだ、ということを、まず認識してほしいのである。

そこが感覚的につかめないと、ずっと、悲劇の主人公のままになってしまうからだ。

そのために、とてもとても苦しい例を2つ、挙げる。

ひとつめは、Twitterなどで広がったから、読んだ方もいらっしゃると思うが、

福島県で、津波の被害に遭われた兄の言葉を綴った、ある女性のブログ。

被災地の友人が教えてくれたのだが、これは身内にだからこそ見せられる「絶望」だということ、

また、被災地では前向きな人、不安な人、絶望している人、の3種類に分かれているのではなく、

「ほとんどすべてのひとが、日によって、時間によって、時と場合によって、

三つの心境を行き来しているのが現実とご理解いただくと嬉しい」(その友人の言葉)ということを

ふまえたうえで、読んでみてほしい。

http://t.co/BCpGxmR

このような方と同時に、家だけでなく、汚染や塩害で田畑がだめになっていても

「いつかやり直す」と決意している人もおられることも、事実だ。

行方不明の身内を心配しながらも、壊れた家の片付けを始められた方が、テレビのインタビューで

そう答えていらっしゃった。

もうひとつ。

私がフラフラと時短で仕事を再開し始めてから、取材で出会った、ある農家の女性の話。

その、ほんの1ヵ月前に、彼女は農作業の途中で機械に片腕を巻き込まれ、二の腕の途中からを切断されてしまった。

そのときとっさに、彼女がとった行動。

歯と残ったほうの手で傷口を縛って止血し、舌で携帯電話を押して家族に助けを求め、

切断された腕を持って病院に行き、開口一番「先生、つながるでしょうか」と、尋ねたという。

その畑の関係者の男性とも一緒に取材に行っていたので、道中でこの話を聞いた。

幸い命は取り留めたものの、腕はつながらず、今は落ち込んでおられるはずだ、ということだった。

関係者の方は「僕だったら、その状況で行動できない。ショックで気を失って、出血多量で終わりだった」と

おっしゃった。うん、私も、そうだったかもしれない。片腕が一瞬にして、消えたら。

しかも、利き腕だったそうだからなおさら、おつらいことだろう。

驚いたことに、その女性は、私たちが近所に尋ねてきたことを知って、わざわざ出てきてくださった。

どう言葉をかけていいか、ためらいながらもその関係者の方が「どうですか」と尋ねたら、彼女は

「まあ、まだつらいときもありますけどね。いろいろ慣れてないし。

でも、失ったものを取り戻すことはできないですから。

大丈夫ですよ。この身体でできることを考えていきます」

と、笑顔で! おっしゃったのである。もちろん、私たちを気遣ってくださったからではあるが、笑顔だった。

頭を殴られた思いがした。フラフラしている自分がいたから。

……どう生きていくかは、自分で選べるのだ、と、思い知らされた。

しばらくのち、その女性は義腕をつけて、また、畑に出ていかれるようになったそうだ。

きつい例ばかりを2つ、挙げた。

ひとつめは、今、東日本で多くの方が向かい合っていらっしゃる現実だ。

「外側」には何もなくなった。家も、財産も、人によってはご家族も。残っているのは、自分自身だけ。

それでも私たちが、ふたたび、その方たちに希望を持ってほしいと思うのは、偽善ではないだろう。

ふたたび、明るい未来を取り戻し、新しい気持ちで生きていってほしい、と。

もうひとつは、身体の一部を失った方。でも彼女は、自分の心までは失わなかった。

それは、その方が「そうしよう」と選択された結果だ。そうして生きていこう、と。

そこまでして生きていくことに、何の意味がある? と、

この女性を冷めた目で見る方も、いらっしゃるとは思うけれど。

今日、私が伝えたかったのは、その部分ではない。

何を選択して生きていくのか、結果として、何によって自分の「意味と価値を計るのか」は、

自分自身であるということだ。そのことだけを、理解していただけたらと思う

越えていく。

これもまた、1回では書ききれないことをテーマにするので、徐々に書き連ねていくしかないけれど……。

病弱な人が過激な肉体労働をできないように、心が痛んでいる人が何らかのアクションを起こすには

とてもたいへんな力を必要とする。そして、そのこと自体を認められず、イライラし、落ち込む。

人生にはいろいろな出来事が起こる。

その実例を、私たちは今、いやというほど毎日テレビなどの報道で見ている。

天災だろうと、人災だろうと、自分のこれまでの積み重ねだろうと、人からの仕打ちだろうと。

自分の気持ちが痛み、心が苦しくなり、この先のことが見通せないのは、同じである。

そして、それを乗り越えていく気力なんて、持てないよ、もう、と思う気持ちも。

それでも、越えられるのだ、本当は。

これまで何度も書いているように、自分の痛み具合を認め、まずはその気持ちを回復させなければ、

一瞬はともかく、そのあとが持続しない。ダイエットとリバウンドを繰り返すようなものであるが、それよりタチが悪い。

だから、瞬間的にあえいだところで、あまり意味がない。たまたま、上手に乗り越えていくすべが

みつかればいいけど、みつからなければ、さらにまた、深いところへ落ちる。

ねえ、じゃあ、どうしてそもそも、そういう谷があるのだろう?

その谷は、あなたが自分で自分を追い詰めているがゆえに現れていることは、これもまた、

何度も書いているから、もうお気づきだと思う。

その谷に落ち込む、ということは、あなたは何を求めているのだろう?

お金とか、地位とか、くらしとか、他者からの愛情だとか、そういうものだろうか。

それを得たら、あなたはどういう気持ちを、得られるのだろう。

あなたが求めている、その奥の奥、一番根本にあるものは、何なのだろう。

「世間」と同じレベルにいたいという、安心感?

昔、同じレベルだった人は、本当に安心してた? もっともっと、とは、まったく思ってなかった?

その「世間」って何だろう? その表現で求めているものは何だろう?

……追い詰めているのではない。今のその重症の状態で、働きがまともじゃない脳で、

考えまくれ、というのではない。

ただ、そういう何かがあって、自分のなかでそれに対する違和感を感じていたからこそ、谷が現れたのだ、と、

自覚してほしいのだ。少なくとも、私は、そうだったと思えている。

そういう何かをつかみ、根本的に自分が求めているものを少しずつ、自覚していくと、

必ず、勝手に、自動的に、「新しい視点」に気づく。

それを、私は「きっかけ」「気づき」と呼んでいる。

それはいろいろな形で現れる。深い、大きなものが、ある日突然ドカン! とやってくるのではない。

中にはそういう人もいるかもしれないが、たいていは小さな小さな、気づきの積み重ねとなることだろう。

そしてそのほうが、無理なく、実感を伴って、自分に力を与えてくれるだろう。

焦る必要はない。明日の糧に困るなら取り急ぎ、何かアルバイトをして、「つなぐ」だけでいい。

それさえ無理なら、一時的に行政に頼ろう。恩を返すのは、後でできる。税金という仕組みがちゃんとある。

食べものや住居に困らないのであれば、まずは「よい」と思えるものを、ちゃんと「よい」と感じられる状態にまで

戻っていこう。音楽、本、味、自然の美しさ、人の心の温かさ。いいと思えるものだけを、心に残そう。

それ以外のものは、その時点で、置き去りにしていこう。考えるのを、やめよう。

谷は、自分の心の中に現れる。ある意味、あなたがこれまでの価値観で、自分のなかに作り上げてきたのだ。

だからそれは、自分で取り去れる。

谷をつくる力があるのと同時に、その谷を埋め、さらには山をつくっていく力も、あなたにはある。

本当は、あなたの中に、すでにある。

今は、痛んでいるから、休憩中になっているだけだ。

「気づいていくもの」については、またいつか、丁寧に書いていきたい。

今、痛んでいるところから、「よい」ものを感じ取れる心を取り戻すことだけに、集中していこう。

私もこの震災でまた、自分のなかにさまざまな谷を見つけた。

周りの状況、自分の受け止め方、自分の行動、自分の弱さ。そういった、自分の心の中の谷。

それを少しずつ、埋めていこうと思っている。少しずつ、絶対に、無理はせずに。