カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

追伸 : 何もできない、と思う自分に。

   
昨日のブログ「何もできない、と思う自分に。」のなかで話した

新しい視点、新しい考え方、それに続いて生まれていく、新しい生き方の、もうひとつの例を。

Twitterなどで何度も書かれていたので、ご存じの方も多いと思うけれど、

何度聞いても、いいよね。

チェルノブイリ原発のすぐ近くに住んでいたウクライナ出身の歌手、ナターシャ・グジーさん。

ご自身も被曝者であられるはずだが、日本語を覚え、こうして活動されているようだ。

繰り返さないために、と、つらい体験をみずから語ってくださる、そのお気持ちがすごい……。

どうかお身体をお大事にして、活動を続けてくださいますように。

今回はあえて、2008年、広島の原爆記念日に彼女が体験を語った部分もついている映像を。

You Tubeなので、携帯の方はご覧いただけず、すみません。

ナターシャ・グジー/映画「千と千尋の神隠し」主題歌 「いつも 何度でも」

人はこうして、新たに生きていくことができる。その姿に心から感謝。
   
   
   

何もできない、と思う自分に。

今、あまりにつらくて、何も動けなくて、この先のことなんてわからなくて、暗い予想しか浮かばなくて、

ご飯も食べられなくて、お風呂にも入る気がしなくて、寝る時間もグチャグチャになってしまっている人。

たぶん、たくさんいるのだと思う……。

あるいはそこまでいってなくても、自分を保つのにいっぱいいっぱいな人も。

今、今日、この瞬間に何もできないことが、一生、延々続くかどうかは、誰にもわからない。

というか、それは通常、続かない。いいことも悪いことも、過ぎ去って流れていくのが「普通」だと思う。

自分を取り巻く環境や、自分の身体の具合がもし変わらなくても、

あなたを、私を、変えることはできるのだ。まず、気持ちのうえで。

ごまかしているわけではない。

気持ちがあるから、次に、動ける。まったく何も感じずに行動できることなんて、ないのだから。

「○○する」と思って、そのあと初めて、人は動けるのだ。

気持ちだけを先行させろ、という話でもない。

順を追え、焦るな、と言いたいのである。

これまでに何度か書いた「気持ちの重症患者」の人はとにかく、寝て、ご飯を食べて、

自然を感じて、ただシンプルに過ごしてほしい。まずは脳を、回復させてほしい。

少し、ものごとが考えられるようになってきたら、「悪い予想」ではなく、

今の自分が新たに、本当に「何をしたいか」だけ、考えてほしい。

あのときの自分、過去に戻りたい、では意味がない。

気持ちに対し、身体に対し、無理をしていた自分に戻っても、意味がない。

「何をしたいか」を考えるにおいて、ポイントは、本当はひとつだけなんだと思う。

あなたが、あなた自身をまず喜ばせることができ、

同時に、周囲の人(家族でも、友人でも、同僚でも、ビジネス上の相手でも、世界でも)を

喜ばせることが可能なもの。誰かが犠牲にならないもの。

これだけなんだと思う。

今の自分の技術・技量、今までの積み重ねが効果的なら、それを利用して「新たに」。

これまでの自分の経験が役に立たないなら、それもまた「新たに」。

単純に、でもまったくゼロから、視点を変えてほしいのである。

これまでの自分は、そのどちらかが欠けていなかっただろうか。

「自分さえよければ」、あるいは逆に「自分さえ耐えれば」「人生、いろいろあきらめないと仕方ない」と。

でも視点を変えることは、あきらめることと同義語ではない。

たとえば、教育大学で学び、子どもたちに体育を教えることを望み、着任した教師がいた。

しかし彼は、教師になってたった2ヵ月後、脊髄損傷で手足の自由を完全に失った。

自分で自由に動かせるのは首より上だけ。

もちろん、二度と教師という職業はできない。それはもう、単純にできなくなった。

でも、彼は「あきらめた」わけではなかった。

教師という選択肢はなくなっても、その他全部をまとめて、あきらめたわけではなかった。

視点を変えて「今のこの自分が、やりたいこと」を新たに見つけた。

それが画家・詩人、星野富弘氏である。

現在、彼の美術館もでき、全国の障害者をはじめとする人々に、夢と希望を与えている。

自分と周囲の人、両方ともに喜べる生き方だ。

教師もそういう仕事だったとは思うが、今も彼は、別の選択によってその生き方を続けているのだ。

http://www.tomihiro.jp/index.html

先日話した、救命にまつわる仕事をしていた人も、その仕事が自分の心の支え、糧、喜びだったからこそ、

ガンになってさえやり方を変えて、最後まで続けられたのだろうと思う。

ご本人にとっては少なくともそうだったのだと、私には思える。

悪いことばかりが続いていても、状況は刻々と、変化しているはずだ。

同じところにとどまっているように思えても、少なくとも自分の知識は、新たに増えている。

日本自体、もはやすっかり、その状況が変わってしまった。

だからこそ。

今、これから、自分は本当に何をしたいのか。何をすれば両方とも喜ばせられるか。

そのために、準備できることは本当にまったく、何もないのか。

今から少しでも始められることはあるか。

「稼ぐ」ことが一番の優先順位で、そのために無理しても、結局、また続かないのだ。

一番つらい今だからこそ、可能な人なら、可能な範囲で少しずつ、考えていってはもらえないだろうか。

過去にこだわらない、使いたい経験だけ生かしていける、「新しい」生き方を。

もちろんそれは、私も同じである。

自戒も、探す決意も、覚悟の気持ちもこめて、この話を終えようと思う。

悩むという行為が「できる」こと

世の中で凄惨なことが起きると、普通に家に住み、ご飯を食べ、温かくして寝られることが、

実は根本的に恵まれているんだな、と、改めて思う。

日本という国に生まれ、普通に学校に行けて、大人になったことも。

だって生まれたときからそういう環境なんだもの、それは当たり前と思っていいじゃない? と

感じるかもしれないが、自分の祖父母や曾祖父母は戦争を大人になってから経験したわけだし、

さらに1、2代前なら江戸から明治維新。すごい変化を越えてきて、今の状態が存在しているのだ。

海外に目を向けて比較するまでもないくらい、くらしは大きく「楽」な方向へ変わってきた。

私たちは基本、食べものにも困らないし(稼ぎ云々ではなく、どこかで必ず買えるってことね)、

着るものもある程度、好みで選べる。住む家や家具も、予算の範囲内で楽しめる。

単純にくらしの面だけでみれば、金銭的な都合が一番の問題であって、でもそれも行政的にみれば、

国や自治体が一応、困ったときの相談には乗ってくれる。病院にも一応、行けるしね。

海外の貧しい人たちから見れば、なんていい生活を、と思うのだろうな……。

そういう土台がきちんとあるからこそ初めて、今、自分のことでいろいろ悩める。

くらしの面での、本当に切羽詰まった、根本的な課題がないからこそ、悩める時間がある。

だからといって悩むな、とか、苦しむのは贅沢だ、なんて言うつもりはまったくない。

逆に、そういう環境になったからこそ、自分のことで苦しくなるのだろう。

基本的に「いい生活」であるからこそ生まれた、新たな課題なんだろうとは思う。

でも、たとえば「私は世間並みに生きていけない」というその「世間」って、どこにあるんだろうね。

心の中で、自分は「誰」を基準にしているのだろう。

たとえばお金持ちでも、会社のことや家族のことや、

それこそ一族郎党のことなどでがんじがらめになってて、

苦しんでいる人はいっぱいいるだろうしさ。

いったい、自分はどこに、何に基準を置いているのか。

どの生活レベル、どんなクラス、どんな性格、どんな人間関係をうらやましいと思い、

そうなりたいと願い、そうなれないと悩んでいるのか。

そのぼんやりとした「人間像」を丁寧に探り、具体的に思い浮かべていくと、

実はそんな人間なんて、ほとんどいないんじゃないか、と思えたり、

「基準」だと思えている人々が、それはそれで大変そうだと、気づいたりしないだろうか。

たまたま自分は今まで経験したことがないから、それがいいように思える、

うらやましいと思えるだけってことは、ないのだろうか。

本当にみんな、うまくいってるのかな、そんなに。

今は、自分が落ち込んでいるから、ただ単純に、余計にそう見えるだけじゃないかな。

実は自分も、本当はそこまでひどい状態ではなく、今、そういう気持ちになってるから、

たまたま、出口が見えないだけなんじゃないかな。

この落ち込みからほんの少しでも立ち直れれば、別の捉え方、できないかな。

今は無理でも、将来にわたって、一生、絶対に、必ず、できないのかな。

せっかく悩める環境にはあるのだから、自分が何を考えて「世間」や「人」という輪郭を

捉えているのかを、丁寧に、静かな気持ちで考えてみるのも、ひとつの方法ではないかと思う。

これは、先日書いていたメガネの、自分への使い方の例でもある。

ほかにも今後、諸々の捜索が終われば始まるであろう、東北での復興。

その人々の思い、その様子。

くらしというもの、絆というもの、他者という存在、自分という存在、生きるということ。

そのなかで、さまざまに現れてくるであろう「本当に大切」なもの。

そんなことも、何かに気づくきっかけになり得るかもしれない。

自分で「ちょっとやってみるか」とさえ思えれば、

視点変換・客観視メガネを使うきっかけは、たぶんこれから、いくらでも現れてくるのだろうと思う。