何もできない、と思う自分に。

今、あまりにつらくて、何も動けなくて、この先のことなんてわからなくて、暗い予想しか浮かばなくて、

ご飯も食べられなくて、お風呂にも入る気がしなくて、寝る時間もグチャグチャになってしまっている人。

たぶん、たくさんいるのだと思う……。

あるいはそこまでいってなくても、自分を保つのにいっぱいいっぱいな人も。

今、今日、この瞬間に何もできないことが、一生、延々続くかどうかは、誰にもわからない。

というか、それは通常、続かない。いいことも悪いことも、過ぎ去って流れていくのが「普通」だと思う。

自分を取り巻く環境や、自分の身体の具合がもし変わらなくても、

あなたを、私を、変えることはできるのだ。まず、気持ちのうえで。

ごまかしているわけではない。

気持ちがあるから、次に、動ける。まったく何も感じずに行動できることなんて、ないのだから。

「○○する」と思って、そのあと初めて、人は動けるのだ。

気持ちだけを先行させろ、という話でもない。

順を追え、焦るな、と言いたいのである。

これまでに何度か書いた「気持ちの重症患者」の人はとにかく、寝て、ご飯を食べて、

自然を感じて、ただシンプルに過ごしてほしい。まずは脳を、回復させてほしい。

少し、ものごとが考えられるようになってきたら、「悪い予想」ではなく、

今の自分が新たに、本当に「何をしたいか」だけ、考えてほしい。

あのときの自分、過去に戻りたい、では意味がない。

気持ちに対し、身体に対し、無理をしていた自分に戻っても、意味がない。

「何をしたいか」を考えるにおいて、ポイントは、本当はひとつだけなんだと思う。

あなたが、あなた自身をまず喜ばせることができ、

同時に、周囲の人(家族でも、友人でも、同僚でも、ビジネス上の相手でも、世界でも)を

喜ばせることが可能なもの。誰かが犠牲にならないもの。

これだけなんだと思う。

今の自分の技術・技量、今までの積み重ねが効果的なら、それを利用して「新たに」。

これまでの自分の経験が役に立たないなら、それもまた「新たに」。

単純に、でもまったくゼロから、視点を変えてほしいのである。

これまでの自分は、そのどちらかが欠けていなかっただろうか。

「自分さえよければ」、あるいは逆に「自分さえ耐えれば」「人生、いろいろあきらめないと仕方ない」と。

でも視点を変えることは、あきらめることと同義語ではない。

たとえば、教育大学で学び、子どもたちに体育を教えることを望み、着任した教師がいた。

しかし彼は、教師になってたった2ヵ月後、脊髄損傷で手足の自由を完全に失った。

自分で自由に動かせるのは首より上だけ。

もちろん、二度と教師という職業はできない。それはもう、単純にできなくなった。

でも、彼は「あきらめた」わけではなかった。

教師という選択肢はなくなっても、その他全部をまとめて、あきらめたわけではなかった。

視点を変えて「今のこの自分が、やりたいこと」を新たに見つけた。

それが画家・詩人、星野富弘氏である。

現在、彼の美術館もでき、全国の障害者をはじめとする人々に、夢と希望を与えている。

自分と周囲の人、両方ともに喜べる生き方だ。

教師もそういう仕事だったとは思うが、今も彼は、別の選択によってその生き方を続けているのだ。

http://www.tomihiro.jp/index.html

先日話した、救命にまつわる仕事をしていた人も、その仕事が自分の心の支え、糧、喜びだったからこそ、

ガンになってさえやり方を変えて、最後まで続けられたのだろうと思う。

ご本人にとっては少なくともそうだったのだと、私には思える。

悪いことばかりが続いていても、状況は刻々と、変化しているはずだ。

同じところにとどまっているように思えても、少なくとも自分の知識は、新たに増えている。

日本自体、もはやすっかり、その状況が変わってしまった。

だからこそ。

今、これから、自分は本当に何をしたいのか。何をすれば両方とも喜ばせられるか。

そのために、準備できることは本当にまったく、何もないのか。

今から少しでも始められることはあるか。

「稼ぐ」ことが一番の優先順位で、そのために無理しても、結局、また続かないのだ。

一番つらい今だからこそ、可能な人なら、可能な範囲で少しずつ、考えていってはもらえないだろうか。

過去にこだわらない、使いたい経験だけ生かしていける、「新しい」生き方を。

もちろんそれは、私も同じである。

自戒も、探す決意も、覚悟の気持ちもこめて、この話を終えようと思う。

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