カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

痛みを感じる心

津波の注意報が解除され、地震そのものの脅威が収まると、

今度は、被害の状況が明らかになってきます。

いまだ、行方不明者の数も正確に把握できず、予想だけがテレビなどで

繰り返し報道されると、それだけでもう「心が痛い」と感じる方も多いでしょう。

あなた自身が多かれ少なかれ、心に傷を負っていたなか、

今回の地震でさらに天災の怖さ、ひどさを思い、傷ついています。

私もきっと、そのひとりです。

今はまだ、何もできません。

テレビを見ているのが苦しくなったら、どうか見るのをやめ、深呼吸してください。

眠りたくなったら、時間に関係なく、寝てください。

泣きたくなったら、年齢も性別も立場も忘れ、ただ、泣いてください。

これもまた、そうして乗り切っていかなくてはいけない出来事なのです。

自然にそのむごさを訴えたところで、もうすでに、起こってしまったのですから。

逆に、報道を見て「そうだ、もっとみんな苦しめばいいんだ」と感じておられる方も、

中にはいらっしゃるかもしれません。

そうですね。あなたは今まで、他人のせいで、社会のせいで、十分、傷ついてきました。

その仕返しを天が、大地が行ってくれたと、思える部分もあるのでしょう。

それくらい、あなたは、苦しんできたのですね……。

つらかったですね。きつかったですね。

よく、耐えてきましたね。

私は、あなたのことを何も知りませんが、そのように感じます。

でももう、同じくらいに、あるいはそれ以上に、人々は傷ついています。

あなたは無事で、こうしてウェブサイトを見ていられます。

何よりあなたが無事であったことを、まず喜びましょう。

「彼ら」、それは社会なのかもしれませんし、あなたにとって日本なのかもしれませんし、

あなたを傷つけてきた人々の総合、なのかもしれませんが、

その「彼ら」が、今のあなたと同じところに、落ちてきたように感じているかもしれません。

それを「ざまあみろ」と、思えるかもしれません。

それでももし、心のどこかでほんの少し、そう思ってしまう自分がイヤだと感じるなら、

今はどうか、傷ついた人たちを、許してあげてくださいね。

これから「彼ら」も、あなたと同じように苦しむでしょう。

でも、あなたの苦しみが、それで本当に楽になるのではなく(たとえ一瞬はそう思えても)、

あなたもまた、今の苦しさを抱えたままです。

みな、それぞれに、苦しくなったのです。

そのことに、やはり、変わりはありません。やはり、つらい……ですよね。

自分の心が何か、痛みを感じていると思えるのなら、

まずはそれをゆっくり、あやしてあげましょう。

つらかったね。よくがんばってきたね。よく、持ちこたえてきたね、今まで。

そう思って、自分で、自分をまるで子どものように、抱きしめてあげていいのです。

頭の中のイメージでも、実際でも。それもまた、大切なことです。

男だから、大人だから、恥ずかしいから、そういったことは関係なく、

ただ、自分をギュッと抱きしめてあげてください。

抱きしめるのが恥ずかしければイメージだけでかまいませんから、

友達のように肩に腕を回し、自分をトントン、と優しく叩いてあげましょう。

確かに、あなたは今、本当に、つらいのです。

そのときに感じる何か、ほのかな温かさのようなものや、

もし涙が出るのならその涙が、

あなたを変えていく、初めの一歩になるかもしれません。

これから被害の状況がわかるにつれ、しばらくの間は、

自分の、あるいは周囲のひどさに、心が傷み続けるかもしれません。

だからそのときは何度でも、自分を抱きしめてあげてください。

痛みを感じる自分を、自分自身でいつくしんで、甘えさせてあげてください。

今はただ、それでいいのだと、私には思えます。

痛みを感じるあなたが、少しでも穏やかな気持ちになれますように。

心から、祈ります。

人に訪れる死

昨日は、津波の中継映像などを見て、どのように言葉を紡いだらよいのかわからなくなりました。

あの中でまさに今、お亡くなりになられている方がいらっしゃるであろうと思うと、

見ていることさえ不遜な気がして、ただ、心苦しく、悲しくて、途中で映像を切りました。

被災された方やそのご関係者、あの地域をよくご存じであられる方は、今、大変、おつらいことと思います。

慰めの言葉をお伝えしたところで役に立つかどうかわかりませんが、

どうか、悲しみを少しずつでもいやせますように、お祈り申し上げます。

戦争などが起こると、自死の数が減るそうです。

毎日のくらしに生死がかかるとなると、自死という選択を悩んでいる場合ではなくなるのでしょう。

また、自分で死を選ぶのはいいけれど、他国の人に爆弾等で無理矢理、死をもたらされるのはゴメンだと

思うのかもしれません。

昨日、亡くなった方々も、あのような形で自分に死が訪れるとは、思っておられなかったでしょう。

突然の、逆らいようのない死の訪れ。

友人の事故死のときにも感じましたが、それは怖くてつらい、悲しい出来事です。

そしてたぶん、そう感じることは「人間という生物」としての本心の一つなのでしょう。

死後の世界があるかどうか、私にはわかりません。来世というものがあるのかどうかも、わかりません。

ただ個人的には、今回のように突然、死を迎えてしまわれた方たち、

生きたかったのに亡くなってしまわれた方たちが、もう一度生きて、

今度は突然ではなく、最後まで幸せに人生を全うされる可能性があればいいと思います。

何かの本で読んだ話だと思いますが、中国の、とある自殺名所の川の側に、

人助けをするおばあさんがいらっしゃるそうです。

死にたい人が飛び込んだとき、彼女が長い竿を差し出すと、ほとんどの人が、

反射的にその竿をつかむそうです。死にたいはずなのに。

つまり本当に死のうと思っていても、最後の最後に、生きていたくなる可能性があるということです。

そのおばあさんのような人がいてくれれば、幸い、ふたたび生きることができますが、

いなければ、「やっぱり死ぬのはイヤだ」と思いながらも、無念の気持ちで死んでいくことになります。

昨日、痛感されたと思いますが、自分にいつ、どのような形で死が訪れるかは、予測ができません。

でも間違いなく、いつか、自分にも死はやってくるのです。

だからどう、というその先のことは、私に言う資格がないかもしれませんが、

いつか必ず死ぬのであれば、今、本当に急ぐ必要があるのかどうか、

自分は本当に、後悔など絶対に一切しないのかどうかを、もう一度見つめていただければと思います。

今は、生きる希望がまったく見えないとしても。

明日には、1年後には、わかりません。

この先の道が見えない方は、どうせ死ぬのであれば、一度、可能な範囲で情報・物資の提供や

被災地でのボランティアなど、直接、人の役に立てることをしてみるのもいいかもしれません。

自暴自棄になって犯罪などに手を染めるのではなく、素直に、真摯に、人の役に立ってみる。

死ぬ前にあとひとつくらい、そういう経験をしてみると、

その中にまた、道が見えてくることも、あり得るだろうと思います。

今日は思いつくままに書き連ねました。つながりのない話ですみません。

最後に、亡くなられた方のご冥福とともに、できるだけ多くの方が助かりますよう、

また、心が傷ついた方々がどうか気をしっかりお持ちになり、

いつの日か立ち直られていかれますよう、心からお祈り申し上げます。

自分を信じる、ということ(2)

さて、昨日の続きで、次はマザー・テレサ。

彼女は18歳のときカトリック系の修道女として英国統治下のインドに赴き、

教会内で子どもたちに地理などを教える教師として長年務めたのちに、

38歳から単身スラムに入り、瀕死の人々を救う活動を始めた女性である。

私が知っているのはノーベル平和賞受賞後の、お年を召された彼女だけだし、

本屋でよく見かけるのは「神の言葉としての愛」を語ったものだったりするので、

はなからもう、信仰心の厚い、強い女性なのだろうと思っていた。

が、たまたま目にとまった「マザーが唯一、公式に認めた評伝」という肩書きの本を読んでみたら、

信仰心はもちろん厚かったが、スラムで活動を始めた初期の頃には、

その彼女でさえ、孤独感でくじけそうになっていたことが書かれていたのだ。

考えてみれば、そりゃそうだろう。独立運動、イスラムとヒンズーの国家分離、大飢饉、その他で

国中が荒れ果て、難民、流民が街中でバタバタと倒れている状態なのである。

いくら信仰心があっても、3枚のサリーと十字架、ロザリオ、頑丈な皮サンダルだけ持って

スラムへ入り、家を探して、女性がひとりで活動を始めたのだ。

彼女は、神から使命を受け取ったため(何らかの言葉が降りてきたらしい)、

この活動を決意し、托鉢という形で寄付集めまでする。無理解な人々に怒りながらも、

学校や診療所を次々に作っていった。手伝ってくれる元の教え子などはいたが、

最初の2ヵ月間はスラムでひとり暮らしだった。身の危険も感じただろうし、

その孤独さゆえに、長年暮らした修道院の温かさを思い返すのは、当たり前の話だろう。

無理ならば戻ってきてもいいと、指導者的立場の神父から言われてもいたため、心が揺らいだようだ。

彼女は神父への手紙で、涙を流しながら孤独に耐えていることを書いている。

「私は耐えられるでしょうか。神よ、弱さと闘う勇気をください。私は間違っているのでしょうか。

慈悲深き母よ、どうぞあなたの子どもに哀れみを」(※)

彼女もまた、こんな弱い面を持っている、ひとりの普通の女性なんだ、と、初めて知った。

それでも「なぜこんな試練を」とは書いていない。「やれる勇気」を求めているだけである。

彼女はすでに、街中で倒れている人を、自分が少しでも助けられると「わかって」いた。

それは物理的な世話とともに、精神的にも安らかになってもらうという仕事であり、

今の自分にそれができると信じていたから、教会を離れたのだ。

「私にできることは、目の前の人を救うことだけです」と彼女は何度も述べている。

そこに神の姿をみるから、である。彼ら一人ひとりが、キリストの姿なのだ。

「そう思ってなければ、さすがにお世話はできませんよ」と、なんと彼女自身が語っている。

だからだろう、彼女の行動はシンプルだ。規律に沿って生活しながら、目の前にいる人を助け、施設を作り、

必要なら托鉢なども行い、困ったことが起きたら即、どうするか考えて対処する。その繰り返しなのだ。

彼女としてはただ、そこにいる一人ひとりのキリストに、手を差し伸べ続けただけだったのだろう。

でもそれは、やがて周囲の人々を動かし、インドの街から「道端に倒れたまま亡くなっていく人」が消えていく。

さらにその活動は、世界中へと結果的に広がっていくのである。

たぶん、助けた人々や、その家族から受け取る感謝の言葉に、彼女は日々、支えられてもいただろう。

奉仕は行ったあとで初めて、「人の役に立てる喜び」という恵みを自分にもたらすのだ。

それにしてもただ素直に「これを、私はやる」と思えた彼女はすごい。

肉体的にも精神的にも、単に思い入れが強いだけでは続けられなかっただろう。

そしてその清貧さ、我欲のなさ、世界の捉え方はもちろんのこと、何も求めず先に差し出したからこそ、

結果としての恵みを受け取っていた彼女のその姿勢が、昨日のマイケルとは対極にあるように

思えるのは、私だけではないだろうと思う。

今の自分が差し出せるものをシンプルに差し出し、それが役立つことで、気持ちの上で恵みを受け取る。

目の前の小さなこと、たとえば席を譲るとか、迷っている人に声をかけるとか、ゴミを拾うとか、

そういうレベルであっても、もし自分が日々、無理のない範囲で自然にできるようになれば、

きっと今より少し、穏やかな気持ちで生きていけるような気がする。私も、やってみよう……。

マイケル、マザー、学びをありがとうございました。どうか今は、安らかに眠られますように……。

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※出典:上記「愛の軌跡」p86