カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

めちゃくちゃ信じてるし、応援してるよ

前回の続き……というか、その中で一部、掘り下げて書きたくなったので、

今日はそんな話。

 

まず、ひとつ前の記事で、

心屋さんと武田双雲さんのお二人を例に挙げて話した。

この方たちは、その話しかけにおいて、確信犯です、ええ。ほぼ、間違いなく。

心屋さんは、ブラック的に。

武田さんは、限りなくホワイトに近いやり方で。

何をどう言われようと、信じておられる。

あなたの問題は

あなた自身が解決できる

ということを、きっと必ず。

 

信じておられる、というより

わかっておられる、と言ったほうが

より、その確信の内容に近いのかもしれない。

 

そこが揺るがないから、

「こんなに困っているのに!」と責められても

心屋さんは「そんなの知らんがな」と言い切れるし、

武田さんは「だいじょうぶ」と言い続けるのだと。

 

どんなに非難されようと、

どんなに「能天気すぎる」と言われようと、

使命のようなもの、と、ご自身でそう受け止めて、

やっておられる(ご本人たちもそうおっしゃっているし、

文体からも感じられる)ように、私には思える。

 

そして、これも前回書いたように、

ある人の傷の痛み、その度合いについては

他者は、完全には把握できない。

他者が「一緒に感じる」だけでなく、

寄り添いすぎて同化したり

代わりに解決『してあげたら』、

そっちのほうがよっぽど、まずい。

 

粘着性の高い宗教(そうではないものもあるから、そこは伝えておくね)の場合、

全部、と言い切ってもいいくらい、

その『まずさ』を利用していると、私は感じているのである。

 

だってね、こちらに完璧に依存させたら、

壺でさえ、買ってもらえるのだもの。

実際に売ってるものは壺じゃないけれど、

具体的に書いたら怒られそうなので、やめておくね。

 

でも本当に、こんなにボロイ話、ないよ。

しかも一生、それを続けさせ、

家族まで巻き込んでいくための仕組みさえ作れれば、

あとは勝手に、どんどんやってくれるもの。

 

何か不幸があったら、あなたの信仰心が薄いせい。

幸福が来たら、あなたの信仰心が厚いから、そのごほうびなんだよ。

痛いよね、その思い込み。はまればはまるほど、苦しそうだよね……(>_< )💦

ネットワークビジネスも、良し悪しは脇に置いてみるけど、

このモデルを流用しているように思える。表彰、とかね。

 

それくらい、弱みにつけ込むことって、簡単に相手を苦しめられるわけですよ。

極端な例を挙げれば、オウムのこと、覚えている人も、いると思う。

 

そしてこれ、個人対個人、の関係でも同じで。

共依存になると、やっていいことと悪いことの判断さえ、狂ってしまう。

あなたを守るために、を、とにかくすべての理由にできるから。

あなたのことをわかってあげているのは、世界で私だけ、になるから。

 

それがどれほど、お互いを縛り、苦しめるか、

だんだん、気づくことができなくなる。

さらにはそれがご夫婦だと、子どもにも影響が出たり……。悲しい連鎖。

 

で、最初のお二人の話に戻ると、

この方たちは、180度、逆のほうを向いて、

あなた自身の力を、あなたは、気づくことができるよ、

と『延々、言い張って』おられるのだ、と私は思っている。

もちろんそれを、楽しくやっておられる。でないと、続けられない。

 

人同士の間で起こる「共感」もそうだし、

それを仕事にしている他のカウンセラーさんも、全員が全員、

単に人の悩みを利用して、お金を取ってるわけじゃないと思えるのよ。

苦しい人にとって、必要なタイミングで、

自分に投げかけられた言葉や質問の意味に気づくときが来る。

その、気づくことが始まりそうな人たちが、

これまた必要なときに、情報を拾いにいく、というだけだろうと。

 

もしそれをボランティアでやってたら、タイミングを見逃す人も出てきちゃうし、

良識のあるカウンセラーさんも、お二人も(いくら確信犯で、楽しくやっていても)、

ひたすら出す一方なのは身が持たないから、

結果的に仕事が増えることにもつながっていったりする。

 

そういう意味では、現在、粘着質な宗教も、始まりのころは

心屋さんや武田さんに近い『志』、持っていたかもしれないよね。

全部がそうでなくても、そういう教祖様だって、いたかもしれない。

途中から、だんだん欲に傾いて、ゆがんでいったのかも。

 

要するに。

勝手に語りかける側は、自分に依存させたいわけじゃない方なら、

覚悟があってやってはいるはず、と、私には思えるのだ。

 

それは、「出す」立場になれば、すぐ気づいていけるであろうこと。

その覚悟が、確信が、どれくらい強いかで、出し方も変わっていくのだと。

 

私はまだ、認められたい欲が、自分にとってよくない方向で少し残っていて、

自分が否定されるのを、どこかでまた怖がっていて、

しかも、残念な過去の記憶が、自分をまだ、一部、恐れさせるせいで、

できていないことが、いろいろたくさんあるけれど。

 

それでもね、私もまた、なぜかは知らないが、伝えたい人、なのですわ。

本当に、究極の理由を言えば、自分がやりたいから、やってる。

あなたの力を信じていることを、なぜかどうしても、伝えたいから。

 

そして、別にそれをやるのは私じゃなくてもいいわけで、

そう、いいわけだけれど、

なぜか私も、それを伝えたい、のです。

 

ますます、意味不明になるかしら。

あなたは、本当に、あなた自身の素晴らしい力を備えていて、

その力は、あなたに見つけてもらえることを、

きっと楽しみに、心待ちにしていて、

その力は、本当に、気づいたそのときから、

あなた自身を変え、すごく楽しく、

うれしい方向へと、発展させてくれるよ。

 

私は、心屋さんほどブラックになれず、

武田さんほどピュアホワイトにもなりきれないけれど、

「すべて私がわかって解決してあげるわよ」

という方向では『一切』ない形で、

共感、と、たぶん文章……言葉の力を借りながら、

これからも、伝えたいと思います。

 

って、わー、言い切っちゃうのか? 私も(^0^;)

要するに、勝手なお節介野郎宣言にもなりましたね。すみません。

 

刺さったり、腹が立ったり、違うわ! と感じたら、

何が違うのか、何がムカつくのか、刺さるのか、さらに

なぜ自分はそう感じているのだろう

という部分を、できる範囲で、冷静に批判なく見つめてもらえたら、

本当に、本当に、幸いでごさいます。

 

私はこれからも、あなたの力を信じて、

勝手に、私のやり方で、応援していきます。

どうぞ、お許しをm(_ _)m

 

2015_03_23

Photo by justbarbara
ID:201501060100
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伝えること、受け止めること

受けた傷の痛みは、

それを受けた本人にしかわからない。

 

この言葉を書いたのは、

14歳の、当時、同級生だった男の子で、

私がそれを読んだのは、

かれこれ30年前以上昔、ということになる。

 

悲しいこと書くなぁ、と思ったけれど、

当時、彼の家庭環境はかなり複雑そうで、

いろいろ辛かったようなので、

そうか、だからかな……と、私は感じた。

 

それは一遍の詩の、始まりの言葉。

当時の私には、出てこない表現。

当然、幼いこともあって、私には

彼の苦しみの深さは、わからなかった。

 

でも、

そうか、痛いことがあるんだね、と

紙に書いて伝えて、

うん、と彼が返事をしてきたので、

それは、つらいね。

と、真面目な気持ちで書いてみたら、

その短かさゆえか、私の気持ちは彼に届いたらしく、

ありがとう、という言葉を、

返してもらえた。

 

何か役に立ったかどうかは、わからない。

ただあのとき私は、

寄り添っていたのだろうと思う。

一人の友だちとして、彼に対し。

 

当時、彼の詳しい状況なんて、何もわからなかったけれど、

それでも何かを感じたから、ちゃんと真面目に書いたのだろう。

 

そうしたら、そのことが、

当時、苦しさの中身を

具体的には他者に表現できなかった彼に伝わったから、

ありがとう、の言葉を返してもらえたのだと思う。

 

ちなみに後日、

私が失恋して落ち込んでいたとき、

また彼から「元気ない?」と

文字で尋ねられ、

「うん、失恋した。悲しい」

と返事をしたら、

「悲しいときは、星を見ればいいよ」

という返事をしてくれた。

「曇り空で星が見えなかったら?」と

質問したら、

「曇りの日は、心で見ればいい」と。

 

そのさらなる後日談として、

夜の7時に、わざわざ私の家の前まで

自転車で、小さな天体望遠鏡を運んで来てくれて、

生まれて初めて大きな月の表面と

『二連星』の姿を見せてくれたのも、この彼だった。

 

そのあと、時期をずらしてお互いに片想いし合い、

タイミングが合わなくて両想いにはならなかった……、

そんな、のちの恋が始まるもっと前の、

性別や環境や立場などは何も関係ない、

単純な友だち同士としての、心のやり取りの話。

 

相手の痛みの、その中身、度合いを、知ることはできなくても、

寄り添うことは、できるのだと思える。

共感、という気持ちを持つことによって。

 

そして逆の立場になったとき、

相手が共感してくれたという、その気持ちを、

自分が、受け入れられるなら、

ありがとう、って思えるのだと。

 

彼が言うとおり、

誰かの痛みを、まったく同じ痛さとして

他者が感じることはできないけれど。

その痛さを知らない人からであっても、

寄り添ってもらうという形で楽になれることは、

確かにあるのだと思う。

 

そして、相手や自分の痛さの『度合い』がひどすぎる場合、

受け取れないときもあるだろうし、

それもまた、そうであっていいのだと。

 

ここからは、個人的な意見。

そうしたことを知ってはいるけれど、

知ったうえでなお、

私は、ときにはあえて、断定的な表現も使うと思う、これからも。

 

なぜなら、その内容に注意を向け、

自分で反発なり、

引っかかりなり、

何でもいいからつかんで、

そこを「きっかけ」にしてくれる人が、いるかもしれないから。

 

その人自身が備えている『自分の力』。

腹が立つからこそ、

「なぜ自分がそう感じているか」を知り、

新しい考え方に気づいていく……。

その可能性が、あると思えるから。

 

ただ、そこには、伝える勇気も必要。

断定表現にまで至る勇気の度合い、

私はまだまだ、低いけれどね(ええ、怖くてまだ逃げてるね(笑)すみません)。

 

なので、たとえば心屋さんや武田双雲さんに対しては、

意見の中身云々でなく、単純にその点で、尊敬の念が湧く。

こちらからの一方的な語りかけをするときに、

自分が持つ覚悟って、そういうことなんだろうと、

今の私には思えている。

 

そもそもその文章が、勘違いの自画自賛を含む

「井の中の蛙的な説得」かどうかは、

読んだ相手にきちんと伝わると思う。

 

さらに言えば、変な話、需要と供給という面もある。

私に全部任せていいよ、

大丈夫よ、私にはわかってるよ、

と、他者を自分に依存させたいかのような人のところには、

ちゃんと、という言い方も何だけれど、

他者に依存したい人が寄っていくことも、想像はできる。

 

たとえそのあとで、新たに苦しむことになったとしても、

それぞれがお互い、抱えている問題ゆえに起こることだから、

その苦しさの経験こそが、それぞれ

「何かに気づいていけるきっかけ」

になるかもしれないよね。

 

自転車に乗る練習をするかのように、

どんな道のりでも、自分で学びにはしていけるから。

自分でいつか捉えられれば、それでもいいのだと。

それこそ他人が、先走る予測みたいな心配から

口を挟む話では、本当は、ね……、ないのだと思う。

 

最後に……。

14歳の彼の詩も、

その後のやり取りも、

全部、授業中の手紙回しだったことを伝えておきたい。

 

ゆるいおバカな中学校の、

ゆるゆるな授業時間だからこそ起こった、

他者との触れ合いの機会。

 

詩という形で、開示してもらえたことにも、

こちらにありがとうが還ってきたことにも、

のちに逆の立場で、開示させてもらえたことにも、

それを思い出せたことにも、

思い出すきっかけを与えてもらえたことにも、

感謝。

 

2015_03_22

Photo by RachelBostwick
Pixabay

 

私の、私たちの、視点 ─ judgement

どう書こうか、あるいは書こうかどうしようか、迷っていたこと。

今日、書こうと思います。

 

今回の記事はとくに、すべてをご納得いただけると思ってはいません。

それでも自分がいくつかの情報を読んで感じたこと、

それらを通じて自分の中でつながったことを、

きちんと例に挙げつつ、書きます。

 

話の中に挙げたリンク先を一読いただけたら、と願いますが、

捉え方は人によって違うでしょう。

ですので、ご不快に思われた方がいらしたら、どうぞお許しください。

 

私が時折、感じてきた違和感。

そのうちの一つに、パラリンピックの報道があります。

障がいを持ちながら、オリンピックという世界レベルにまで

自分の能力を高めて挑戦することは、

すごく素晴らしいことだと思う一方で、

それをことさらに強調する報道に出会うと、

奥歯にものが挟まったような違和感を感じていました。

 

自分でも、それが何なのか、うまくつかみ切れていなかったのですが、

たまたま読んだ記事で、まさに障がい者の方自身が、

その部分を明らかにしてくださいました。

 

よかったら、以下の記事を、読んでみてください。

◎障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは
http://logmi.jp/34434

 

この記事を読んで、私には

『確かに私は、そのように消費してきた』

という気づきがあり、自分がパラリンピック報道で感じていたものも

これだったか、と思えました。

 

普通、とは、能力、とは、何なのだろう。

美しさ、素晴らしさ、感動、の陰に潜む価値観。

このコメディアンの方の言葉で、

自分が持っていた視点の偏りを、改めて気づかされました。

 

また、その一方で。

障がい者の方自身も、通常以上の感動、のために、

自分の障がいを使ってしまうことがある。

少なくとも、そう感じているこのコメディアンの女性のような方も、いるのだと。

 

そしてそれは、ダメなことだろうか、という思いもあります。

自分の個性を大事にする、生かす、という視点で考えれば、

隠したり、卑下することではないのだと。

 

でも、それを障がい者の方ご自身が、

あえて今回、こういう言葉で表現しますが、

ある意味『売りもの』として、他者からの承認(評価)を得るために使うと、

その方は自分の『個性』をずっと悲劇的に扱わねばならなくなる……ことも

ありえるんだな、と、感じました。

 

さらに、このことを知ったあと。

たまたまFacebookからのつながりで、

障がい者のペアのバレエダンサーの方々の動画を観たのですが、

そのダンス表現から立ち上がってくる美しさと、

彼・彼女の障がいの『姿』を、やっと自分で切り離して観ることができ、

それとともに、彼女と彼が今回、訴えた内容に対する違和感、

およびそのFacebook上で語られている「感動」の感想内容にも、

はっきりとした違和感を持ちました。

 

そのダンサーのお2人は、それぞれが障がいを持ったこと、その苦しみと、

それでもまた再び踊れることの喜びを、

ダンスのコンクールで表現されていました。

それらを、表現者としていったんは外側に表すことが、

通過点として必要だったのかもしれません。

でも今後、それを『売りもの』にしないで済むことを、祈りたいと思えました。

 

個人的には、そう感じられるようになってよかった、と、思えていますが、

普通に考えれば、私はその分、冷静というより冷たい人だと

他者から思われる人間になったのかもしれません(^◇^;)

きっと私のことを、そう捉える方もいらっしゃるだろうな、と。

でもそれは仕方ないことだと思えます。

 

また、同様に。

ある人が、何かの行動をした。そしてある結果が生まれた。

そのとき、その、ある人の内側に、どのような意図があったかを、

自分でももっと見ていきたいと、ある事件から思えました。

その人の良い(と私が感じられる)視点と、良くない視点、と。

 

これは、かの過激派による日本人人質問題が起こったときに、感じたことです。

 

果たしてどこまでが、自己責任、なのか、迂闊、だったのか。

今回、ネット上では、彼らがそれぞれ政府の意向を受けて動いて、

その意図を相手側に見破られ、それで余計に事態がややこしくなり、

政府は、そのつながりを隠すために2人と手を切った、という説も流れています。

 

実際、1人目の方は、首相と同じ思想の勉強会に属していて、

自衛隊に武器も販売していたらしいことを、自身のFacebookなどで

語られていたそうです。

 

そして2人目の方も、そうしたつながりの中で、

何らかの交渉のために派遣されたのだとすれば?

単純な自己責任云々で片づく話では、途端になくなってしまいます。

 

でも、もしそうだとして、その意向を受けたのは、ご本人の選択です。

そして真実は何なのかを調べるすべは、今の私にはなく、

どんな説があるかを、知ることしかできないのです。

 

その一方で、2人めの方が、たとえスパイ的な活動をされていたのだとしても、

世界で起こっている悲しみを、真剣に伝えようとされる

ジャーナリストであられたことも、事実であろうと。

この方が、個人で作られていた報道用のホームページから、

取材報道されている動画を観て、私は、ですが、そう感じたのでした。

 

今回の、こうした情報を知って。

他者には、本当にいろいろな意図や気持ちがある、と、改めて思いました。

それは当たり前の話かもしれません。

だからそれを『知る側』も、片側の面からだけ見て、

これはどうこう等、短絡的に判断するのでなく、

とくに自分が何か違和感を持ったときは、

なぜそれを感じたのかを、もっとちゃんと観てみようと思えました。

 

その際に、こんなことを勘ぐるなんて、私は冷たい人間かも、

などと、変におびえることも、やめて。

 

そしてもう一つ。

自分の視点も価値観も、つまりはまだまだ狭いのだと思えています。

でもそれを、自己批判するのでなく、自信をなくすためにでもなく、

できる範囲で、自分なりに改善するために、用いていきたい。

そっちのほうへ、自分の気持ちを移行させたい。

そういう気づきのチャンスをもらえたのだと、解釈していきます。

 

今までなら常識的に捉えていたことでも、

違和感をきっかけに調べてみて、

自分なりに捉え直してみてもいいのかな、と思えているのです。

 

以上、社会的な話をいろいろと例に挙げましたが、

「他者や世界を見るときの視点」について書きたかったので、

あえてメインブログにて、書かせていただきました。

自分が忘れないようにするための、記録でもあります。

読んでいただいて、ありがとうございました。

 

2015_02_16

Photo by White BG