カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

あなたがやってみたいから、やる

誰かに対し、何かをしようとする場合。

自分の意志で、やりたくてやっているのか、 

見返りを求める、つまり相手に

『言葉で訴える代わりに、行動で何かを要求している』のかを

見極めるための簡単な方法。

 

それを自分が延々やり続けた、と仮定してみればいい。

 

やりたくてやっているなら、相手のことよりも自分の感覚がまず思い浮かび、

疲れたら普通に休憩できるし、

当分の間、毎日やっても平気だし、

それどころか想像しただけでワクワクしちゃう、かもしれない。

 

行動で相手に要求しているなら、相手のことについて、まず思い浮かべるだろう。

相手がちゃんと反応を返してくれないと続けられない。

あるいは途中で「こっちは、やってるのに!」

(さらには「やってあげてるのに!」)という

怒りや失望や疲れ、のほうを、自分が先に想像するだろう。

 

相手の反応が気になるなら、『気にならない範囲』でやればいい。

ただ、それだけ。

 

うん。

何かの行動によって、自分の願望や欲や考えを相手に押し付けるの、やめようね。

あなたも『楽しい範囲』だけで、やっていいからね。

相手のことを第一にするのでなく、

自分が「さらに」楽しめるやり方に注目して、見つけて、

どんどん、楽しんでいってね。

 

『その結果として』、結局、見返りも来るかもしれないから。

来ないことも、普通によくあるから。

相手の反応を、あなたがコントロールは、出来ないから。

もしどうしてもコントロールしたいなら、その代わりに

あなたも相手から何かを勝手に押し付けられること、を覚悟してね。

 

やはりそれは、お互いさまなのですよ、たぶん。

こっちが「求めてやる」と、「求められ」たり「逆」をやられる。

それは相手からの『押し付けに気づいて!』のサインかもよ。

私もいろいろな場面で、そういうことを日々、練習してます……(^◇^;)

 

2015_01_26

 

 

 

それは愛でなく怯え

生きるうえでは、

常に良い子にしていないと、

自分が傷つけられるだけである。

2014_12_20

Photo by Travesty Photography

 

そんなふうに『自分が』受け止めていると、実際、

イヤなことばかりが起こるようになります。

 

本当は良いことも起こっていますが、

人間には、自分が注意を向けたものを感じるための能力が

もともと備わっているのです。

 

それははるか昔、狩りをしたり、森の中で他者を見つけたりするために

発達した能力で、実際、私たちは今でも自然に、

あらゆる音の中から「音楽を聞き分けたり」、

人通りの多い街の風景の中から「知人に気づいたり」します。

 

確かに、イヤなことをしてくる、そんな他人はいます。

それは相手が怯えているから、だったりします。

怖いから、傷つけられる前に、傷つける。

万が一にも、相手が自分を傷つけることのないよう、

常に先手を打って、まず自分が相手を傷つけ、

相手を自分の『下』として見ることで、

自分を優位に保とうとするのです。

 

彼女に罵詈雑言を投げかけ、ニヤニヤして楽しむ彼氏、

いばり散らすパワハラ、セクハラ上司or家族は、

まさに常に、怯えているわけです。

本人は気づいていませんが、怯えを露呈させている。

 

でね。

相手のその怯え。

これは本来、相手側が抱えている問題です。

あなたが、それをまともに受け止めてあげる必要は、

全く、どこにも、存在しません。

 

自分に投げかけられたイヤな言葉は、相手の怯え、ですから、

道で自分の視界を通り過ぎる『見知らぬ人』のように、

とくに関わることなく、素通りさせてしまえばいいのです。

 

自分が注意を向けなければ、反応を返さなければ、

相手はつまらなくなって、それを『やりたくなくなる』のです。

目線を合わさず、聞かないで素通りさせていることを示す。

あるいは反抗ではなく、単純に『あなたの問題ですね』という意識で

静かに、落ち着いて相手の目の中を見つめる。

 

まあ、静かに目を見るとなると、家族などでは怒って暴力を振るう輩がいるので、

その場合はまず目線を合わさない、などの『防御対策』は別途、必要ですが、

それは今のテーマではないし、暴力の度合いや関係性によっても

対策が変わってくるので、ここでは述べません。

知りたい方は、きちんと専門の方の情報をつかんでください。

自分のためにね。それは本当に、放置しないでください。

 

元の話に戻ります。

相手はあなたに受け止めてもらい、自分を優位に立たせたい。

また、すでにその立場にいる場合は、それを保ちたい。

つまりあなたに「受け止めてよ、自分を上にしてよ」と

甘えてくるわけです。はい、たとえ親であっても、ね。

 

ですが、もう一度、ハッキリ言います。

あなたが相手の問題を受け止めてあげる必要は、全くありません。

ここで『この人の痛みをわかってあげられるのは私だけだ』

と思ってしまったら、すみません、言いますよ、依存関係スタートかも、です。

そう受け止めたいと感じちゃうのは、あなたもまた、

自分が感じる気持ち、自分の快・不快の感覚を、大切にしていないからです。

 

こちらをいたぶる、痛めつける、あるいは本当に物理的に殴って、

なのにそのあとで普通に話しかけてきたり、

ご機嫌を取るかのように謝る、その繰り返し。

それがたとえば自分の子どもだったら? 放っておけないじゃない? って?

はい、放っておく必要はありません。それこそまさに、

今のうちに、しっかり気づかせてあげてください。

どんなに近い関係の他者であっても、イヤなやり方で

相手に関われば、相手はやがてあなたに無関心になる、

つまり『他者から嫌われる』のだ、ということを。

愛される、の反対は、無関心です。

 

それを一番明確に伝えられるのは、あなたなのですから。

そして、それ以外の部分で、子どもに関わってあげてください。

その区別は明確につけたほうがいいと、私は思います。

 

愛するがゆえに、イヤなことに動じないで、無関心でいる。

大切な人であればあるほど、きちんと気づいてもらいたいですものね。

 

自分がイヤだと感じることを、相手の望む通りに、

そのまま自分の評価としては受け止めてあげない。

それは相手のためでもあり、また、何より自分のためでもあります。

受け止めたくなるのなら、それこそが、あなた側の問題です。

最初に話した『良い子でいないと嫌われる』というような、

思い込みの部分で反応する。あなたも怯えているのです。

 

また、まるで街の風景から知人を見つけるかのように、

毎日の中から、イヤなことばかりに注目し始めるのも、自分です。

 

イヤな気分がすぐに晴れない場合、数時間、引っ張ったりしますよね。

わざわざ思い出して、再度、イヤな気分を自分に与える。

そうやってイヤなことを繰り返し、自分に刷り込むために、

わざわざ時間を割いているのです、あなたが。

 

そして翌日も、イヤなことに注目する。何度も思い出しては、

イヤな気分になる。すると次にたまたま、別のイヤなことが起こる。

自分が時間を割いて刷り込むイヤな思い出が、2つに増える。

2倍の時間、使って、2つのことを刷り込む。

 

もう、お分かりでしょう。これらを数日間繰り返せば、

たとえ前のほうの小さな出来事は忘れたとしても、

はい、毎日、イヤなことしか起こらない日々の完成、です。

 

相手がイヤなことしかしてこない、だけではありません。

あなたも、新たな苦しい記憶をどんどん加えながら、

それを頭の中で繰り返して自分をわざわざ痛めつけ、しかも

相手側の問題が解決しないように協力してあげているのです。

 

ではなぜ協力するか。

嫌われるのが怖いから、ってこと、多いと思います。

あのね、それ、相手はエスカレートしかしません。

しかもエスカレートして、もっとひどくあなたを扱う挙げ句、

あなたの反応に、やがて飽きます。だって本当は、相手も苦しいから。

それをして、本当はイヤな気分も、味わっているから。

あるいは調子に乗って、他の人の反応もまた、試したくなります。

そこでもっと望ましい反応を示してくれる相手に出会えば、

そちらに関心を移すのは当然です。

 

ということでいずれにせよ、あなたはやがて、

イヤなことをできる対象としての関心を、相手から持ってもらえなくなる。

つまりあなたにとっては「嫌われた」と、

受け止めることもできるような、イヤな出来事と思い出の追加になるかもしれません。

 

だからこそ、苦しいのを我慢して、延々、

受け止めてあげたところで、意味がないのです。

依存関係が始まれば、相手もさんざんいたぶってから

謝る、が続いていくでしょう。

謝りながら、お前が悪いと言うでしょう。

でも、イヤなことをできる→受け止める、という関係が続く限り、

お互いに本心ではイヤなことを味わう相手、にしかなり得ません。

 

いつか本当に気づいてくれる? もちろん、相手に何か変化が起これば、

その可能性が全くないわけではありませんが、

起こるかどうかもわからないことを待つ間に、

相手があなたへの優位性に関心をなくす可能性もかなりあります。

 

そんな『偶然任せ』に期待して、あなたは毎日、イヤなことを増幅させ、

自分が苦しみながら、待つのですか? 何のために?

幸せになりたいから、と、偶然がやって来るまで、

長い時間を不幸せに過ごしている、もしかしたら相手が飽きる。

その今の状態を、まさに自分が今、変えられるのに?

待つのでしょうか?

愛してるから、イヤなことをイヤだと言わず、

無理に笑顔を作りながら、起こるかどうかわからないことを

待つのでしょうか?

 

どうしても言えなくても、愛ゆえに、相手の問題をきちんと素通りさせる。

そんな相手との関わり方が、あるのです。

 

自分が良い子だと認めてほしいがゆえに、嫌われるのを怯える、

そっちの選択、ではないほうへ、

そろそろ、自分の注意を向けても、いいのではないでしょうか。

言うことを聞きすぎるのは、結局、

あなたのためにも相手のためにも、ならないのだから。

 

あなたは、何よりもまず先に、自分で自分を、大切にしていいのです。

それができてからのほうが、イヤなことを受け止めずに、生きられます。

 

つまり、イヤなことに注目しなくなり、頭の中での繰り返しが減るのです。

繰り返しが減れば? イヤなことが起こらない世界、

他者とのもっと幸せな関係を作れるのです。

 

まずは、相手からの評価が、ただの憂さ晴らしかもしれないこと。

そこに、もっと注目してみてください。

 

今回は、あなた側の面、だけに注目して語ってみました。

誰かの憂さ晴らしには、無関心でいい。

あなたはそうしていいし、誰でも、そうしていいのだと、

私には思えます。

 

 

違っていて いい 違っているからこそ すごい

今日2本目の 記事更新

先の話の 続きみたいなものを また書きたくなった 

長くなるけれど 分けずに書きたいので 許してほしい

 

前の話で私は

あなたも また素晴らしくて貴重な 一人である

と書いたけど これ 気休めじゃないんだ

 

個性があることは 本当に生物学的に 生きていくために 選ばれた仕組みなの

長い長い年月をかけて 生き物は

そういうふうに 変化してきた

遺伝子という仕組みを駆使してね

 

そして 人間はさらに 協働することで

自分たちを守る仕組みもつくっていったんだ

一人きりで 生きていたら 智恵も生まれなくて うまく生き延びられないから

知識を伝え合い 学び合い

よりすばらしくなるために 助け合うグループをつくっていったんだ

 

そのために声が発達して言葉になり 表現となり 文字までつくって

問題を解決し 智恵を広め合い 助け合う仕組みを持つことを選んだ

そしてそれを私たちが 社会と呼ぶようになったんだよ

 

協働するために 個性から生まれる違いをすり合わせするようにもなって

それを 折り合い というふうにも呼ぶようになった

 

いつの間にか私たちは その関係のなかで上下をつくって

自分のほうが優位に立とうとしたり 優れていると 示そうとしたりするけれど

他の動物たちは グループができたら混ざることもなくなるし

優位を示すのは グループを大切にするときに 代表だけが戦う

つまり縄張りを守るとき だけね

 

そして 個別に優位を競うのは 次の世代を生み 育てる時期 であって

24時間 365日 他より自分が優れていると

自分の仲間や 他のグループに アピールし続けることなんて ほとんどない

 

そして同じようにグループをつくる ライオンのような生き物は 

自分が上に立った途端に 自分以外の遺伝子を排除したりするけれど

それでは上手に生きていくのが難しいと判断した私たちの先祖は

社会という仕組みを 作り上げていったんだ

協調 協働する 生き延び方をね

 

なので私たちは 常に他者へも心を配るようにできている

確かに それは生きる上で必須の話であるんだけど

 

このとき大切なのは

自分を生かしつつ 他者をも手伝うっていう部分

自分も 他者も 大切にしていく必要があるところなんだよ

 

なのに過去の私みたいに やったあとの結果だけ気にしてたら

他人の目を意識することが行き過ぎてしまったら

やがては 自分のほうを 軽く扱いすぎるという事態が起こる

 

逆に 自分だけを守り 他者を軽く扱いすぎる人もいるよね

本当の一人きりでは 生ききれないのに

 

自分をより よく生かすための協調が

自分を貶めることになったり

他人を貶めることになったりしている

皆でともに生き延びるための智恵 そのための頭の働き のはずなのに

自分を あるいは他人を 何かの立場に陥れるための

作戦に変わってしまうんだ

 

協調を生むはずのものが 争いに変わり

優劣に変わり 力関係となる そうすると

違いがあるからこそ 適材適所で 自分に合う役目を果たしたほうがいいのに

あっちのほうが 楽だ

あっちのほうが 優れている

あっちのほうが 上手い生き方だ

そんな 結果ばかり気にして

そもそも協調できるという事実 協働が必要という事実を無視して

優劣争いだけの あるいは結果だけの 視点になるのだと思える

 

違いがある以上 もちろん相手とは 合う 合わないはあるよ

でもそれも 本当なら すり合わせする方法を一緒に工夫すればいい話で

お互いがそれを 知っていく必要があるんだ

どちらかだけがやる話ではないし

やったほうが偉いわけでもない

やらなくて楽をするほうが偉いわけでもない

 

その代わり 私たちは だからこそ

他者と気持ちが通じあったときに 温かい喜びを感じる

そういうふうに仕組みがもう できていると思えるんだ

 

やってあげてるのに ではない

協働に適材適所があって そのうちのひとつを

あなたは引き受ける そのチャレンジをしているということ

怖くても やってみなくちゃ わからない

 

楽して儲かるのが偉いわけでもない

楽に感じても 他者の役に立たなかったり

あるいは 誰かの犠牲の上に成立して

自分「だけ」がよいのであれば それはやはり いびつ なんだよ

 

自分と相手の気持ちを どちらもおもいはかることは

確かに難しいときもあるし 面倒くさいと思う人もいるだろうけれど

人間は そういうふうに できている

ただ そういうことなんだよ

 

話を少し 切り替えると

この 社会という世界(家族も一つの社会だ)で起こる

お互いの「ズレ」や「食い違い」を描くのが上手いのが

私は宮部みゆきさんの小説だと思っていてね

しかもそれはときにわざと「辛辣な描写」にもなっていて

その「痛さ」言ってしまえば「人のいやらしい面」を

わざとそのまま描き出したのが

『誰か』『名もなき毒』『ペテロの葬列』のシリーズだと 私は感じている

 

とくに『ペテロの葬列』は そうくるか! と思う流れがいっぱいで

その最後のほうなんて 怒る人続出かも と思ったら

案の定 Amazonの書評では 本を捨てた人も結構いるみたいで……

 

でもね これ すごく学びになるんだよ

もしこれが 自分だったら? だけでなく

自分が逆の立場だったら? 男女が逆だったら? 

自分の愛する人だったら? 入れ替わった立場だったとしたら?

距離のある人だったら?

って考え始めると うーん って唸らされちゃう

 

愛するがゆえに ゆがんだり 憎みすぎるがゆえに ゆがんだり

そういう相手のこと あるいは自分のこと 実は私も まだまだ

どちらかだけを「大事にし過ぎる」んじゃないかって 気づかされるのだ

 

また この前 漫画家の羽海野チカさんが

どうやって作品を創造しているかを紹介した

『3月のライオン おさらい読本 初級編』というのを読んでみた

そうしたらまあ 羽海野さんたら 全登場人物にそれぞれ 個別に憑依して

セリフや流れを 山のようなアイデアから絞りまくって描かれていて

ギリギリ入るまで 膨らんだモノをときに凝縮させたりもして

話を創っていく方らしい

 

そんな打ち込み方ができるのは 表現者のサガ だとも思えるのだけれど

めちゃくちゃ苦しくても めちゃくちゃ楽しくて

だからこそ 続けていられるのだし

しかも そこまで読み手に心を配るからこそ 

こちらに届くものも 大きいんだと思えた

 

直接の人間関係だけでなく そういう心の配り方もあるんだよね

そのために羽海野さん 入院までしちゃったそうなんだけど……

そこまで突き詰めるのは ある種の やはり「人としてのいびつさ」であり

だからこそ 天才と 呼ばれるんだろうな と思えて

こちらもまた うならされたのだ

 

自分と他人 両方を しっかり喜ばせても

そのためだけに 自分を延々 酷使したら

やっぱり人は 壊れるようにできている

それをやり続けるために さすがの羽海野さんも

連載ペースを 落とされたらしい……

 

何が言いたいかというと

こんなふうにも私たちは 自分と他人の「視点」を知ることができるよ

想像することができるんだよ っていう話

 

人のふり見て 我がふりを直せるのって

実はそれだけ脳が発達してて

脳だけでなく 心が 感受性が発達しているからこそ できることで

人間って すごいようにできているな

他者をおもいはかる仕組みを持っているんだなって 改めて思えるのだ

 

そして適材適所で お互いが楽しめたら そういう関係を作れたら

本当に幸せだよね と……

 

個性があるからこそ 尊くて

個性が強すぎたら 調整もして

でもその個性を 自分の分も 他人の分も

折り合えるように 大切にしていく

 

どちらかだけに 偏るのでなく

どちらかだけを 卑下するのでもなく

どっちも大事にするように そして適材適所になれるように と

私たちは すでに 仕組まれている

 

だから今 どちらかだけに偏っている人は

足りないほうを もっと大事にできるようにしたほうがいいと思える

自分の気持ちも 相手の気持ちも どちらも 

本当は大切で必要なんだよ 私たちには……

 

しかもね 適材適所になれるように

ならして平均的に まとめてしまうのでなく

個性だけをアピールするのでもなく

理解して 上手く使って

自分自身を 相手のことを 楽しんで見守れるようになってほしい

そのために いろいろなモノや出来事から

ヒントを得てほしいなと 願う

 

あなたの 他人とは違う部分も

また他人が あなたと違うということも

どちらも すごく上手につくられていった

私たちの 仕組みなのだ

身体の不調さえも やっとペースを落とせた羽海野さんのように

自分と相手のための 何かの新しいきっかけに なりうるのだから……

 

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Photo by luxt.design ID: 201308311200
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『ペテロの葬列』
宮部みゆき 集英社 ¥1944(税込)
http://www.amazon.co.jp/dp/4087715329

 

『3月のライオン おさらい読本 初級編』
羽海野チカ 白泉社 ¥700
http://www.amazon.co.jp/dp/4592140028