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勝ってもいないし負けてもいない、の「空から目線」~前編~

私たちは子どものころから、教育の面で必ず「勝ち負け」という価値観に遭遇し、

実際にそのゲームをさせられ、大人になっても経験する。

運動等も含まれる競争、学力、進学、入社、

出世、金銭の差、地位、名誉……etc.

 

それで実力をはかるのはいいことだよ、と教えられ、

勝ち、負けが基本価値の一部となり、やがては「正義と悪」なども学ぶ。

で、自分と違う感覚、価値観の人を「自分より上」「自分より下」とか

いうふうにも見始めたりする。

それを性格面でも当てはめて、「上下の差」として見るようになったり。

 

でも、じゃあ本当に、実際のところはどうなんだろうね。

簡単な例で言ってみよう。

たとえば競争が当たり前の、運動。

甲子園へ出て、優勝できたら、すごいよね。

でもそのためには、本人が野球の練習に明け暮れ、

努力をしなければならない。子どものころからそれを始める人もたくさんいる。

 

では、去年の優勝者チームと、今年の優勝者チームは

どっちが「エライ」、上なんだろう。

そんなのは、判断できないよね? 年度が違えば実力も変わるし。

 

そもそも、野球に明け暮れるためには、応援する親御さん等の「環境」、

他者の協力も必要で、それに恵まれた人たちが甲子園を目指せる。

その競争に入れるかどうかもすでに、優劣、上下かな。

そもそも応援ができる親御さんがエラくて、他人より優れているのかな。

子どもが野球に興味がない、という親御さんとは、

どっちが優れているかな。

 

……ね、こう考えると、勝ち負け云々より自分が何をもって、自分をどう表現するか、の

違いだよ、っていう部分が、実はけっこう大きいのです。

何を好きだと感じ、楽しいと思い、何を目指そうと思うか。

単純に向き、不向きもそりゃあるけれど、それは個性の違い。

個性が「向いていなければ」目指してはいけない、ってわけでもないのに、

「たまたま向いてる人」が、自分や子どもが上手にできれば、

他者を「見下す権利ができる」と思うのもまた、勘違いだよね。

確かに遺伝子が「その方面で向いてた」かもしれないけれど、

他の面では「向いてない」かもしれない。

じゃあ他の面で見るときは自分が「劣ってる」と決めるのだろうか?

 

そこにあるのは「違い」であって、「上下」ではないのに。

同じ条件上の競争の場合は「上下」という結果がたまたま、伴うだけで、

その競争って、つまりはそのときの「ゲーム」的なものでしかない。

 

ということは、そのときのゲームで「上下」がたまたま

決まったからといって、その人が「人間的に優れている」わけでもない。

競争の世界であっても、たとえばイチロー選手のように

「自分で補う必要がある部分」をしっかり見極め、

家族も協力できる環境にあって、そのうえで本人がすごい努力をして

大リーガーにまで行った、そのときも、

その世界でがんばった、すごい人の『一人』になるわけで。

 

確かにその「がんばり」に対して、賞賛等の評価や給与は伴うけれど、

恵まれていたから、という部分は、絶対にその過程にはある。

それってイチロー個人が何かして、その環境を最初から設けたわけじゃない。

親が野球を許した、それが始まりで「上下」ではない、ただの「違い」だ。

 

でも彼を「上の人」、と見て、自分を卑屈に感じる人だっているかもしれない。

彼は「自分自身と実際に戦っている」だけで、

きっと他者の存在は「学びの参考」。なのに、周りは、

あいつはでも、あの部分が云々、批判者気取りになってみたり。

イチロー選手は別に、何かたくらんで他人を蹴落としたわけでもないのにね。

他者から勝手に「すごく上」に見られて、妬まれて、

批判されちゃったりもするのだ。

 

ふだんから気をつけないと、私たちはこんなふうに、

すぐにこうしたゲーム的視野に陥る。

あの人が間違っていると感じるのは、

あなたが「正しく」て「上」で「優れている」からでなく、

あなたと相手の感性や、ものの考え方が「違う」という話だ。

なのに「上下」という視点でものごとを捉え始めると、

すぐに「正しい」「間違っている」「正義」「悪」という評価にまで発展し、

そこに囚われ、自分と違う考えの人を排除したくなったり、

あるいは自分のほうになんとしても合致させようと説明をし始める。

 

うん。違いについてお互いがすり合わせることはできても、

相手の価値観を排除するのは、なんかおかしくない?

あなたはそんなにも「上」なわけ? って話。

 

もちろん、すり合わせに応じない人はいるだろう。

大勢の人からは認めてもらえない感覚を持っている人もいる。

さらには、相手のほうが「上下」に囚われて、

いろいろ説教を垂れ始めるかもしれない。

 

でも相手が「上下」に縛られているからといって、

あなたもまた「上下」に縛られなければいけないわけではない。

「上下」の視点は取り入れず、他の方法も、使っていい。

 

その、「上下」視点に縛られた人に対し、

自分が同じように「上下」視点で戦ったら、

かえってうまくいかないことも、多いんじゃないかな、と思える。

もしそれが家族であっても、「上下」、正しいと間違い、正義と悪ではなく、

「すり合わせをどこまであきらめないか」、っていう視点で

見ればいいのじゃないかと思えるのだ。

 

これは、そもそもいったいどこまで、

自分の「影響力」を広げたつもりになって

「自己満足」したいのだろうか、という話でもあるように感じる。

そんな視点で家族や友人等、周りに存在する他者と関わるよりは、

他者と一緒に、つまり対等に、交流を楽しんだほうが、

よっぽど人生、充実すると思えるのだけれど、それこそ「違う」のかな?

 

これは別に、単に「競争を下りろ」とかいう話でもない。

お互いが分かり合って競争を「楽しめる」ときにだけその視点を使い、

そうでなくて「争い」の場面では、自分が意識して

競争という視点の「つまらなさ」のほうにも

気を配ればいいのじゃないかな、と、私には思えるのだ。

そうすれば少なくとも自分は、その争いで「上下」視点だけに

囚われずに済む。他者と自分の違いをより冷静に見られて、

変な意地を張るはめになる……などの窮地には、

追い込まれずに済むんじゃないかと思えるのだ。

 

~次につづく~

 

2014_09_07_1_rindoh

 

 

人との、ものとの、関係性。そして「命」の扱い。

すみません、つぶやきに近いです。

命の話も多分に含むので、こちらに書きます。

もともと「腹黒い部分を持つ(全部がそうではないが)」主義の人に対し、

過去、先にこちらが「時代ゆえ、といって調子に乗って

実はあまり先のこと考えずに、相手をひどく扱ったうえ、

最後には尻をまくって逃げ出した」という事実を持つとき

(そして形のうえではこっちが負け、相手が勝ったとき)。

その「腹黒い人」との関係性回復は、

よほど慎重にならないと、うまくいかない。

だって相手はものすごく、こっちを恨んでいるから。

しかも、腹黒いから。

つまり、今の時代ではあまり想像できないような

「超法規的手段」を、使えるから。

先にこっちが(ホント、ものすごく)ひどいことして、

なのにそのあと、関係修復をおざなりにして、

挙句、今、相手から「おまえが悪い」と、延々、責められたとき。

まず、放置してたこっちも、相当のタマだよね。

なのになんだかさ、

「なぜそんなに責めるんだ! アタマおかしいのか?」って

怒ってる人も一部に(それともたくさん?)いる。

いやいやいや、それ、すでに、違うから。

「今だけ」を見て怒ったところで、何もうまくいきませんよ。

ましてや相手の「超法規的手段」に対抗して、こっちも

「本当は個人レベルだったら犯罪になる」ような準備、しちゃうもんね、と

脅したところで、もともと相手のほうが「世界が極寒になりそうな」手段を

使えるんです。ええ、「最後は」勝ち目、ないです。

でも「個人なら犯罪になるような準備」をしたほうが、実は

(国内外での裏取引、等々まで含め!)儲かるもんね、と

ちょっぴりの期間(?)、超法規的手段の「真似ごと」をしてみたい、と

切望しているのが、わが国(の首相とその周辺)でしょう。

またもう……そうやって、過去のこともあんまり見ないけど、

先のことも、とくに見通すことを「わざとしない」ほうを選ぶんですね。

今現在の、自分たちの儲けや栄誉(じゃないけど本当は)を、優先。

しかもなぜか、側近も、NHKに送り込んだ仲間も、

周辺みんな、鼻高々。なぜか自信満々。

そのためには若者の命、ま、少々だろうしね、

その人の「運が悪けりゃ」って程度だろう、って、

勝手にそういう話にしておいて、使い捨てる予定。

この先(もしかしたらもうすでに)ガザ地区の子どもたちの命を奪う、

そのお手伝いもミサイル部品で実施。

でも、こちらはあくまで国際貢献であり、あくまで部品の輸出ですから。

その責任は「取りません」。

それからね、安全性は確認できたけれど、何かが起こったら

「今のところ、すばやい避難計画なんて作れなくて、

すぐそばの地域の人は絶対に逃げ切れないので、

あらかじめヨウ素配っておきます」ですって。

でも安全ですよ、とは『確実に』言う。

安全、とさえいったん「認定」しておけば、

何かあっても「想定外」なので、責任は「取らなくていい」のです。

体内被曝も「がんができる原因であった」と

「認めさえしなければいい」だけの話なので、被爆可能量、アップします。

だって、がんなんて、個人差大きいもんね、もともと。

「統計上」で確定「できなければ」、責任取らなくて済みますから。

発症した人には0か100、生きるか死ぬかしかなくても

「統計上」で○人に一人、の割合なら「原因と断定」しなくていい、とか、

そういう話。

あと、これはFBで見た、元自衛隊教育担当の方の取材記事から(抜粋)。

「政府は「徴兵制は憲法上許されない」といっています。
しかし、石破茂自民党幹事長は”徴兵制は苦役ではない”
”憲法上許される”との発言をしてます。
自民党の幹事長が許されるといってるわけだから、
政府が許されないといっても絵空事です。

”我が国の存立を守るためだから
苦役ではない”というのは、裏を返せば
”我が国の存立を守るために
苦しみはないんだ”ということです。
みんな笑顔で死ねということになります。

こればかりは完全に信用できません。」

(元防衛庁教育訓練局長・防衛研究所長
新潟加茂市長 小池清彦さん
赤旗 2014.07.27

引用させていただいたのはこちらの記事です
→かばさわ洋平ブログ
「徴兵制否定は絵空事」小池清彦加茂市長
http://ameblo.jp/takumiuna/entry-11900522522.html )

その少し前くらいから、同じことを感じつつある人が

あちこちのSNSにたくさんいて、

私はそれらを読んで考えさせられ、

調べて「なるほど」などと同感し始めていたところだったので、

元自衛官の「指導教官」のなかにさえ、

こう感じる人がいることにある種の衝撃を受けた。

こちらの勝手な「悪い想像」のレベルじゃないんだ、と。

うるさいと感じる他者を、過去もまともに省みず、威嚇したり、

一部の支配層だけの利益のために人の命をかくも軽んじることを、

今後もずっと「奨励する国であり続ける」ことは、やめたい。

日本は昔から「和をもって尊しとなす」理想を持つことができ、

「相身互い」で、火事のときには皆で家を打ち壊してでも延焼を防ぎ、

海外に留学すれば「笑顔で相手の意見を聞く耳を持ち、

なんとなく、なじみやすい人」と思ってもらえ、

海外に試合観戦に行けば、自主的にゴミを拾える。

被災地はモノ不足になる、で、需要と供給の自由経済の国なんだから、

物価を10倍に上げていいでしょ、なんて発想もしないでいられ、

半壊して電気もない店内で、並んで買い物もできる。

その心は、私たちがずっと、持っている。

もったいない、の精神も、強制になりすぎなければ、ステキだ。

英国にだってこの精神はあるけれど、

日本流は「使い方を工夫し、作り変えて使い続ける」ことまでする。

大人の浴衣は子どもの浴衣になり、やがて赤ちゃんのおむつになり、

最後には雑巾になって……というふうに、使われてきたのだ。

命を大切にし、心を大切にし、相手を大切にし、モノをも、大切にする。

そちらのほうをこそ、未来へ、伝えていきたい。

私たちは、民主主義国家の一員なのだから、

そっちを自分が選択することができるし

それを周囲に伝えていくことも、できるのだ。

「ほかのものへの愛」と言い換えてもいいかもしれないような、

人との、ものとの、関係性。

そっちのほうの、日本の良さを、伝えていこう。これからも。

ねえ、そっちを、選ぼうよ。

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私が笑顔になれて、あなたも笑顔になれて

自分が、笑顔になれる範囲のことで

(それが必ず、自分の目的のひとつであって)、

そのなかで、相手に何か役立ち、あるいは何かが届き、

相手もまた笑顔になれるようなことを、やってみる。

それが安堵の微笑にせよ、喜びの破顔にせよ。

その気持ちが通じたとき、人は、

静かで、でも心温まる確かな喜びを、感じられるのだと思う。

自分だけが、笑顔になれることを探すのではなく。

相手だけをなんとか笑顔にしようと、自分の感情や思いを殺すのでもなく。

私が微笑を浮かべられる、それが可能なことのなかから、

あなたも微笑を浮かべられるようになること、見つけてみるね。

仕事であれ、家族であれ、友人であれ……。

そういうふうに、そこを一所懸命、探せばよいんだな、と思う。

自分にも相手にも、正直になる、ということ。

自分を決して、決してだまさないということ。

力みすぎない、ということ(それをすると必ず反動が来る)。

そして相手を、自分の踏み台にもしない、ということ。

そういうものをこれからは、なんだか目指したいな、と、

いろいろな方のブログを読んで、思った。

最近また、読みたいと思えるブログやメルマガがいくつか増えたのだ。

今回の話は、これまで読ませていただいている方に加え、

それらからもヒントをいただけた。

購読時間を考え、なんだかスマホの使い方も効率的になってきたよ(笑)

決して超有名人ではない、いわゆる市井の人たちの、

よい想いや感情、気持ち、ものごとの捉え方。

それを自分が読みたいときに、

その方の言葉で伝えてもらえる……。

ステキな時代になったなあ。感謝m(_ _ )m☆