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自分へ視点を向ける、その実例──ブログ紹介

たまたま、これは、

親と子、という人間関係での話。

つまり、深いゆえに重くなりやすい体験。

 

あーすじぷしー、という名で活動をされているふたりの女性、

その、お母さんが始められたブログです。

リアルに『自己の内側の発見を公表』されていて

素晴らしかったので、ご紹介します。

 

「私は娘を愛している。
でも、ずっと、自分のために、
自分の理想を娘たちに押しつけていたんだ。

それを認める事は
決して自分を否定する事じゃない。
精一杯やったんだ。

それを娘たちは
分かってくれた。
ありがとうって言ってくれた。」

 

先に、娘さん達が変わられ、

やがて、お母さんも気づいていかれました。

 

もちろん、いつも

そういう結果が生まれるわけではありません。

相手に届かなくてもよい、

という割り切りも必要です。

 

でもまずは、自分なのだということ。

それでよいのだということ。

それによって、ときには、

相手側も自己の視点の『苦しみを生む原因』に

気づいていく場合があり得る、ということ。

 

また、相手がどうこう、ではなく、

自分の視点が変わる、というのは

こういうことなのだ……と思えました。

 

お母さんという立場からの、

変化の、勇気ある打ち明け話です。

感謝。

続きもぜひ読んでみてください。

◎ママちさん

「はじめまして」

http://ameblo.jp/syomari0424/entry-12164079810.html

 

2016_06_10_2
身体をここまで変化させても
生みたかったからこそ、の葛藤。
私も今は、本気で母に感謝できるようになりました。
相手と通じ合うか、云々よりも、
自身のその気持ちのほうが
よほど大切なのだと実感できました。

Photo by Greyerbaby
Pixabay

 

すがることも威圧することも

すがりたい。

または、腹が立つから相手を威圧してやりたい。

 

それってどちらも

『相手を自分に都合のよいようにコントロールしたい』

っていう欲望満載のつたない駆け引き、

つまりはあなたと取引しますという、相手への宣言なのだよね。

 

そういう人は『誰かに価値を認めてもらいたい寂しさ』を

自分が抱えていることに、必ず気づいているはず。

 

でもその寂しさって、あなたが自分を見捨てているから起こるの。

他人を使って自分を何とかしようとしてるの。

とても残念だよね、そのやり方。

相手とうまくいかなくなるの、当たり前なのよ。

 

恋愛関係で、友情関係で、親子関係で。

何か、すがりたい自分を、感じているでしょう?

あるいは逆に、

思い通りにならないと、どこかいつも気に入らない、

って感じてしまう自分を、知っているでしょう?

 

だったら、自分で埋められるその『寂しさ』を、

なぜ、どうやって埋められるのか、知ることが先なのよ。

 

それを無視してしまうのなら、また同じこと、起こるよ。

誰かの意見を参考にしようがしまいが、どっちだって一緒。

どんなルートを辿ろうとも、

 

誰かにすがりたい

誰かに自分の望み通りに変化してほしい

(言うことを聞いてよ! って相手に怒鳴ったりするってことね)

 

その時点ですでに、うまくいかなくなる要素が

めちゃくちゃたくさんある、ってこと。

 

まあ、押す・引く、いずれかの、そんな一方的な力技で

常にゴリゴリ、他人と駆け引きばっかり

やりたい方もいるのだろうけれど、

どっちをやっても、常に他者を見張らなくちゃいけなくて、

しかも大小さまざまな不満いっぱいで、苦しい人生だよね……。

 

他者をコントロールしたがるより、

他者とのそんな取引を上手にできるようになりたい、と願うより、

やり直すなら、自分をどう捉えていくか、

そっちのものの見方をやり直したほうがいいと思えるよ。

 

正確に言えば直すのではなく、

知らなかったものの見方を得て、

それを自分に許可していく、ってことになるのだけれど。

 

無理なく許可できる練習方法、普通に、

あちこちに、存在してくれているよ。

そういう目で、まわりを見渡してごらんよ。

 

こんな私

または

あんな奴

が、今、あなたの環境や心の中に

存在しているなら、

そのまさに『今』が、自分を見直す機会だよ、

というサインなのだから。

 

あらゆる流れを自分の欲望でぶった切るクセ、

それゆえに、もめごとにつなげてしまうクセ、

そろそろ卒業してもいいんじゃない?

 

人は支え合うために存在するのであって、

ぶら下がって自分だけが好きに生きるために

その相手、存在しているのではないってことです

(あ、稼ぐ稼がない、とかの話ではないよ、

そもそも精神的な対等さや相手への尊重という世界に、

そんな力関係自体、意味がないしね)。

 

何とか寂しさを埋めてほしい、と願う方へ。

なぜ自分が、自身をそんなところへ押し込み続けるのか、を

解きほぐす勇気、持ってくださいね。

幸せに「なりたい」なら、なおさら、だよ。

自分を見捨てる時間が長いほど、

あなたが言うところの『幸せ』も遠のくことに、気づいてください。

 

『自分見捨て』も結局、マイナス方向ってだけで

自己中心的であることには変わりないのです。

 

実際のところ、この先もずっと『自己中』って呼ばれていく人生、イヤだよね?(^^;)

 

2016_06_02

Photo by ratucette
Pixabay

 

対抗意識

このところ、数人の友達と、

久しぶりに会ったり、電話で話したり。

お互いの近況を話して、

笑えるのはありがたいなあ、と思う。

 

そのうちの2人から、

かの「お姉さん」のことを話したときに

言われました。

あ、お2人とも、私が働き過ぎて壊れて、復活してきたこと、

そういう働きっぷりのこともご存じなのですが。

口を揃えたかのように、おっしゃいましたわ。

 

「でも、見春さんに対抗意識燃やすなんて!?」

 

……うん……はい、ええ、ありがとう、

そこにものすごくいろいろな意味が

含まれている感じがしたよ(笑)(^◇^;)

決して悪口でなく、

素朴にそう言ってくれたことも、わかるもののね(笑)

 

てなことで、ちょっと自分を改めて

振り返ってみても良いのかしら、なんて

ふと感じた自分がおりましたさ。

 

まあ、見た目の感じやら、

昔から鍛えた弁の立ち具合やらね……(笑)

 

あと、仕事で言えば、死ねなくなって

鬱をやめようとしていたときでさえ

(Workaholicから脱しつつあったのに)、

やっぱりウッカリ、24時間中20分睡眠での土日働き、

なんていうこともやり、

まんまと再休職に陥ったおバカさんなのよ(^^;)

 

だからそういう私の仕事狂いの時代、を

知っていれば、そう感じてくれることもわかる。

 

まあ、夢中になると時間が過ぎるの、誰でも早いだけだから、

まず、その夢中になる「中身」を

自分が『本当に』好きなものに切り替えていく、

ということも必要かな、と。

昔は中身でなく、単純に

『認められたさ』でやってたからなぁ……。

 

そして、そこまでハマれる性質が自分に備わっているのなら、

それをもっと『活かせる』やり方をつかんでいく、

短時間に切り替えて集中するとか、そういうのも、

練習しなくちゃなぁ、なんて思い。

 

実際、今でも、ハマるときは貫徹に近くなったりしてるけど、

本当に好きな『遊び』的なものだけ、自分に許してるのだ。

サイト、ブログのデザイン変えやら、ハンクラっぽいものやら。

それだと翌日もスッキリしてて、目覚めもいいし、疲れ、溜まらないのよね。

ストレスがまったく違う、当たり前だが。

なんかそういう実験っぽいことはしております、今も。

 

で、話は元に戻るけれど。

先ほどの2人ともに、その後続けて、

これまた揃ったかのように

「でもそういう子から、対抗意識燃やしてもらえるってのも貴重よね」と(笑)

 

これもね、そうそう、そうなのよ。

私はあなたのお母さんだったかもしれないくらい、

年齢が離れているわけで(少なくとも20歳以上離れていることは間違いない)、

なのに『同等扱い』してくれるってことは、私も何かを、

放っているのか?(笑)という感覚もあってさ。

 

若さ的なものはさすがに、もう見た目で違いがわかるから、

何か、他にもしかしたら、だけど、放っているのかも(笑)

 

そしてそれを私がちゃんと扱えれば、年齢関係なく、的な

いい感じでいけるのかも、という話にもなり。

 

対抗してくれるってことは、何かを感じてくれてるってことだから、

それが仕事面にせよ、オーラ的(笑)なものにせよ

(『アニキ』だの『姐さん』だの、と年下から呼ばれやすいっていうの、

もしかしたら関係してるのか?)、

うまく気づけて、自分でうまく扱えればいいなあ、と思う。

 

この『かのお姉さんが、対抗意識を燃やしてくれるものが、私にあるのか』

という点に気づいた頃から、彼女のヘンな意地悪が

ますます気にならなくなったどころか、

何だろなー、と、ちょっとニヤニヤできる感覚に変化していった。

 

おお、今日もライバル意識、燃やしてくれてありがとう! みたいな(笑)

 

……あるいはこれ、

「亀の甲より年の功とは、よく言ったものだなあ」

ということなのかも、と思うけど。

 

たとえときおり、どうしてもムッとはしても、

結局、自分の余裕は、いろいろな観点から作れるのね。

 

もはや山の彼方の空遠く、に彼女を、置いておけることも驚いたけれど、

他者といろいろ改めて語り合え、自分に気づいていける機会を

かの「お姉さん」がもたらしてくれたことだけは、事実なのだ。