カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

思いはからう、ということを

思いはからう を

辞書的に なるべく短く

わかりやすく書いてみる

それは自分が相手のために

何を思い

何をしてあげるか では ない

相手が何を思い 何を望み

どう考えているか を探り

折り合える着地点を お互いが

探し合う形で 自分も考える

あるいは行動することだ

そのことを自分も相手も

承知できる 状態 のことだ

誰かと一緒に

あるいは誰かのために

何かを為す 考える とき

相手がどう受け止めるかを

相手の立場 相手の目線でも想像し

折り合う地点をお互いが

確認してから 行動する

なぜそれが大切か

思いはかることを実際に

してあげたい と

思っている相手に

その「思いはかること」自体を

ときに誤解されて

受け止められることがあるからだ

たとえば精神医学の問題として

よく取り上げられやすい

過保護や過干渉 は その一例

逆にとにかく厳しさが大切と 決めつけることも同じだろう

自分が思えば思うほど 

相手には悲しいかな 苦痛となる可能性がある

あるいは 前にも話したように

相手がクタクタ ふらふらなときに

「やっとウチまで来てくれたから

近くをたくさん案内するよ」と

朝から晩まで引きずり回すのも

決して「思いはからい」ではない

そこからどんどんズレていく行動だ

もし 相手のそのときの希望や気持ちを

明確に 正確に尋ねたりすることなく

自分の都合と 相手の都合を

すり合わさないで

「自分の側の思いだけで

『思いやり』を発揮」した場合

自分の思いと 他者の思いとの間に

そんなふうに

接点が見つからない可能性が起こるのだ

この事実を書いたからと言って

あなたのがんばりを

全否定するつもりなど

まったくない

そうした可能性がある または

違う受け止め方 考え方の例を挙げただけで

自分が攻撃されたと感じ

怒りを覚えられる方もいるかもしれないが

ただ素直に 思いはからう という状態を考えた場合

確認していなければ

相手に伝わらない

あるいは逆にさえ受け止められる

可能性があるという「事実」を 

述べているのである

しかし こんなふうに単純に

杓子定規な回答を

そのまま お伝えしても

相手を思いはからうことについて

本当に今 わからないと 

思っておられる人には

届かないだろうし

先に書いたように

自分が攻撃されたと

思ってしまわれる可能性もある

ゆえに本当は 実際の面で

どうであったかを お問いしたいのだ

これまでの自分

これまでの相手

相手の思惑だけでなく

自分の考えだけでなく

双方の立場で 双方の気持ちを

探り合うことを

その相手とどれくらい 努力してきたか

「そうだよね?

それがよい・正しいのだから

あなたは間違えてるから あるいは

何も言わないから こうするよ」

と 宣言してこなかったか

これが素晴らしいに違いない と

相手に相談なく やってこなかったか

あるいは逆に

「あなたが思うことに

私は何も口を挟まず

意見を述べず 従います」と

全面的に お任せしてこなかったか

思いはかることが

双方で起きていけば

お互いが笑顔になれる機会も時間も増え

さらに信頼し合えるチャンスとなって

とてもしっかりとした 温かみを持った

素晴らしい関係が生まれる

だからこそ マザー・テレサは

新年のブログでも書いたように

おびえることなく善を行えと

おっしゃったのだと思える

あれは一方的な考えで善を行うのではない

相手を思いはかり 相手の立場で手を差し伸べることを

あきらめるな と 言われたかったのだろう

そこまでしてもまた 相手に素直に

受け止められるとは限らない

相手の都合が 変わることもあるし

相手が受け止められない

類のものとなる可能性もある

それでもなお やる意味があるのは

それが通じたときこそ

結果として生まれるうれしさ ありがたさは

やってみて初めて感じられる

とても強固なる幸福だからだ

死を思い 死ぬことがかなわなくなり

どうしたらやり直せ 幸せになっていけるのかを

これまで探し求めてきた

不器用な私がたどり着いた気づきのひとつが

この 思いはからうことの ありがたさである

決して大げさではなく 責めるつもりもなく

そのほうが より 幸せになれると

本気で思うからこそ

その素晴らしい温かさを

小さなことからでも 感じてほしいと

真剣に願う次第である

これを読んでもなお 責められたと

苦しまれる方がいたら

それは私の言葉の至らなさと

説明下手ゆえでしょうから

心からお詫びいたします

その気持ちのなかには 必ず

変えていくためのヒントがあります

せめてそのことだけをお伝えし

頭を真摯に下げるのみですm(_ _)m

私もあなたも大切、な姿勢 ~後編~

腹が立つ、イライラする、などの感情を伝えるときも同じ。

あなたが悪い! 間違ってる! ではなく、

それは、こういう部分で私が心地よく感じない、

私がつまらない、私が悲しい。

相手から、落ち着いて(ここも重要)そう言われたら、

それについてまったく何も感じない人は、まずいないと思う。

そうなれば、どうすればいいかも、相手は会話の流れのなかでちゃんと、

自分から考えようともしてくれるだろう。

自分で考えて答えを出せば、それは命令でも強制でもないから、

相手も納得できる。納得できればこの先、ウッカリすることはあっても、

双方でやがて覚えていけるのだ、お互いの着地点を。

結果としてそのほうが、自分も、相手も、心地よくないだろうか?

もちろん、悲しいかな、どうしても、それが相手に通じないときはある。

着地点が見つからない。絶対、折り合いがつかない。

その場合も、検討したうえであるなら、

今回はこう、その代わり次はこう、とお互い、妥協もできるのだ。

私はひたすら、ラクをしたいんです、という人(子どもとかねあせる)には、

まあ、強制しなくてはいけない場面もあるとは思う。

子どもでなくても、どうしても、自分が得することしか、

選びたくない人もいるけれど……。

その場合、たとえば保護・被保護関係にある血縁者でなければ、

関係することを一度やめる選択だってあるのだ。

これまでにも何度か言っているように、相手の問題は

相手が気づかない限り、変わらないから。

そしてどうしても、相手を、自分が変えなければいけないことでもない。

そう、言うことを聞かない子どもだって、

たとえば彼氏や彼女ができればアッサリ変わるかもしれないのだ。

相手が気づく機会は、あなただけが作らなくてはいけないわけではない。

もちろん、相手に伝えておくことは、意味があると思う。

でも、それを「いつ」受け止めるか、

そして受け止めるかどうかさえも、相手の選択なのである。

実際、やってみるとわかるのだが、

こちらが「アイ・コンタクト」を始めると、

そのメリットは、意外にスッと、相手にも伝わることが多い。

するとやがて、なんだか知らないうちにお互いが

「アイ・コンタクト」を使えるようになり、

双方それぞれに選択の余地ができて、折り合いできる着地点が見つかる。

結果としてもめごとが減り、心地よく感じ、

お互いのことを信頼できることにもつながっていくのだ。

その場限りの関係、力のやり取りなどで、相手や自分が納得いかないまま

お互い疲弊するよりは(傷ついても、傷つけても、結果はともに疲弊だ)、

気持ちを伝え合い、両方が納得できたほうが、よほどラクだし、

自分が何より、うれしくて楽しいと思う。

自分の気持ちを自分で見つめ直すためにも、

一度、「すべての相手」に対して、やってみてもらえればと思う。

身近な練習例を言えば、ご飯をつくってもらって、それがおいしかった、

で、おいしい、というだけでなく、「おいしいから“うれしい!”」までを伝える。

おいしいという言葉、そして笑顔を見れば十分、伝わるじゃないか、という

ツッコミを受けそうではあるが、では、あなたは、

毎回必ず、相手に笑顔も言葉も伝えているだろうか?

難しいことを考えていたら、言葉どころか笑顔も忘れていないだろうか?

あるいは慣れて、当たり前になったりしてないだろうか?

うれしい、と言ってもらえたら相手もまた、

「そう言ってくれて私もうれしい」に、すぐなれる。

うれしさをそのようにやりとりできたら、お互い、どんな気持ちになれるだろう?

家族を相手に、お店の人を相手に、その心地よさをあらためて確認できるのだ。

ふだんできていないのなら、それは「十分伝えている」ことには、決してならないのだから。

どれほどの効果があるかは、相手によっても違ってくるだろう。

でも少なくとも、これは「思いやり」という気持ちをはぐくみ、

自分が嘘をつかず、相手にも嘘をつかせないで済む、

そんな方法だと、私には思えている。

とくに「うれしい」「ありがとう」が増えると、

それは自分の心にも、脳にも、効くのだから。

私もあなたも大切、な姿勢 ~中編~

ま、そんな極端な例はともかく。

話を戻すと、自分の満足のために他人を利用するタイプの人も、

一見、メリットがありそうだけれど、

実は、どんなにたくさんの人と知り合っても、

本当の信頼関係を築きにくくなる。

「自分勝手さ」に慣れていく過程で、過去に知り合っていた人との間にも亀裂が入りやすい。

結果として、たとえばやがて「へりくだる相手」と「上位に立てる相手」を

区別するようになって、損得勘定でしか、人付き合いができなくなっていったりする。

で、残念ながら他者は、人のそういう計算をたいてい、きちんと「怪しい」と感じ取れるので、

やはり、よい人間関係からは、遠のいていってしまうのである。

「自分がこうしてほしい」という希望だけが、何かと強すぎることを、

いつか、自覚できればいいのだけれど。

とはいえ、そういうゆがみは、誰にでも起こり得る。

私だって、常に両方を揺らいでいるのだと思う。

自分と他者との関係は、1人ひとり、

誰が相手かによって、変わるだろうから。

でもね。

なるべくうまくいく捉え方は、あるような気がしてきたのだ。

それは「私も大切、あなたも大切」という、

両方を大事にするやり方。

まず最初に「自分がやられてイヤなことは、他人にしない」という

一番の(!)前提条件があって、

そのうえで、自分も相手も尊重する方法だ。

その場面、場面によって、どっちでもよいこと、

正解がいくつも存在することって結構、あるように思う。

だから、お互い、折り合えるところ、妥協できるところ、

その着地点を、探ればいいんだな、と。

いちいち面倒だと思われるかもしれないが、

最初にきちんと、その着地点を一度見つけられれば、

それは次から、暗黙の了解にもなっていく。

確認し合わなくてもよくなっていくのだ。

わかりやすい例を挙げれば、新婚さんが、タオルの使い方ひとつで

習慣が違っていて、最初にケンカするような、そんな感じ。

それを、気持ちの部分にも、当てはめていいのではないか。

そのときには「あなたがどうこう」と相手側のことを

指摘するのではなく、これもまた心理学用語で言うところの

「アイ・コンタクト」を用いればいいのかな、と。

「アイ・コンタクト」の“アイ”とは、「私は」の“I” である。

しかもなるべく、何をしたい、何が悪い、などでなく、

それを「どう感じるか」まで踏み込んで伝える。

たとえば、この日に一緒に何かをしたい、

それにはこんな理由がある、

さらには、それがその日にできないと

私は「困る」のか、単に「寂しい」のか。

そこまで伝えるのだ。

困るレベルなら、相手も都合を合わせてくれるかもしれない。

あるいは、他にやり方がないかも検討できる。

寂しいだけなら、代わりにメールで報告したり、

別の日に埋め合わせしたりできるかもしれない。

なぜそうなのか、という気持ち、感情まで伝えることで

相手にも無理のない選択肢を、検討できる余地が生まれる。

自分も、たとえば「あ、単なるワガママを言ってるな」と気づいたりして、

今回は甘えたいな、今回はまあ、我慢しようかな、と

落ち着いて判断できる余地が生まれるのだ。

~後編へつづく