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怒りや恨みと、自己嫌悪 ~その2~

そう。つまり本来は、正しいか、優れているか、ではない。

単に人を傷つけたら、自分も傷つける。ゆえにしないほうがいい。

お互い、そのほうが心地よい。

一人ひとり、意見は違うし、考え方も違う。

あなたも含め、それは違っていて「いい」のだ。

言い争わなくても、相手と意見が違うなら、

違うな、と、ただ、思っていればいい。

たとえ相手が「自分のほうが正しいから認めろ」という主張を

してきても、それに従うことがどうしても苦痛なら、

別に怒らず静かに、それは私の感じ方、考え方とは

違うから、受け入れられない、と伝えていいのだ。

自分が「正しいから」主張するのではなく、

自分とその人は違うのだと、認識していることを伝えるだけ。

それなら争いにつながらないですむことも多いとは、思えないだろうか?

もし相手から「従え」と、本当に無理やり強制されるのであれば、

残念だが、あなたが離れればいい。

逆を言えば、どんなに声高に自分の正しさを主張したところで、

通じずに離れていく相手はいるのだ。

違うだけ、だから、それを恨む必要も、本当はない。

それを正しいと相手に認めさせたくて

戦い続ければ、自分をもまた傷つける。

これらは、他人に対して最初から、冷たく距離を置いて

付き合え、と言っているのではない。

恐れからそんな防衛をしたら、また自分のことがイヤになるだけだ。

人と自分は違うのだ、ということを認める練習、

違いを受け入れる練習だと思えばいいし、

そういう感覚をつかめれば、自分を嫌う気持ちも徐々に減らせる。

やがて、怒りも傷つけることも傷つくことも減り、

自分が楽に、穏やかになっていけるのだ。

常に正しいかどうかを判断基準にすると疲れるだけだし、

自分の考えに固執して、相手との違いを受け入れられなくもなる。

そして怒り、疲弊すれば、そのたびに自分を傷つける。

ましてや完璧で優れて正しい理想の自分で「あらねばならない理由」など

あなたの思い込みの中にしか、存在しないのだ。

そんな不幸なサイクルは、もう捨てていいと、私には思える。

相手に恨み続けてほしくないなら、あなたも相手と自分を恨まない。

相手に変わってほしいなら同様に、あなたも自分を変えていこう。

あなたもかけがえのない存在で、相手もかけがえのない存在。

違いはある。理解しあえない場合も、残念ながらある。

本当はそれでいいのだ。

それを引きずり続け、相手と、結果的に自分をも嫌うか、

それとも違いを受け入れるかについては、常に、あなた自身が選べるのだ。

怒りや正当性の主張や優劣よりも、人との間でもっと大切なものが、

他にあるのではないだろうか?

怒りや恨みと、自己嫌悪 ~その1~

世の中、ひどい人ばかりだ、と思っている人は

必ず自分のことも否定している。

正しいか、正しくないか、を選択基準にすると

周りにひどい人が増え、そういう人に対して

「ひどい」だの「この人のせいで悲しい、悔しい」だのと思う気持ちは、

必ず「罪悪感」を感じることにつながるので、自分を嫌になるのだ。

そう、怒りという黒い気持ちを持つこと自体、私たちは本来なら

それに長くは耐えられない精神構造をしている。

当然、自分のことだけ考えて人を軽んじる、

傷つけるような考えや行動を続けても

やっぱり私たちは、だんだん自分を嫌いになる。

人をひどいと思おうが

他人に対しひどいことを思おうが

私たちは最終的に自分を傷つけ、否定しているのだ。

だから、怒りからはめったに素晴らしいものは生まれない。

生まれたようにみえても、それは一時的でしかなかったりする。

相手も結局、怒りでは根本的には変わらない。

よほどしつこく、執念をもって怒り続ければ

やがて相手が萎縮していく可能性もあるが、

それはたいていの場合、問題を解決したことにはならず

ただ、相手に自分を「嫌なヤツ」「怖いヤツ」と思わせて

縁を切らせるのに近い行為となる。

しかも相手には、どこかの部分で自分が悪者扱いされる。

そして、ひどいことをした(怒りは相手にはキツイことだ)自分に残るのは

怒り続けた疲弊と、人を傷つけたという

心の奥のほうの罪悪感、それに伴う自分への嫌悪感。

たとえ目の前から災難が去ったとしても、それは残ってしまう。

だからこそ、戦争は戦争を呼び続け、復讐は次の復讐につながる。

究極的な言い方をすれば相手がイヤなヤツだから

傷つけていい、という言い訳は、私たち自身が、

自分の嫌な面を見たくないから早く自分から遠ざかってくれ、と

言いながらも結局、相手も自分も傷つけているようなものなのだ。

それをやって残るのは自分への嫌悪感なのに。

また、自分を否定する理由がひとつ、増えるのに。

増えたのは相手のせいだと、そこでまた、怒ったり恨んだりしたら?

つまりはキリがない。

本当に、あらゆる意味でキリがないのだ。

こうして考えたとき、平穏で幸せに、怒らないで暮らせる方法は、

自分を嫌いになっているその気持ち自体を

「やめる」こともひとつ、という話になる。

これは突拍子もないように聞こえるかもしれないが、

自分を嫌いでも、他人を嫌いと感じても、

そのときあなたは、絶対、居心地が悪いはずだ。

もちろん、自虐的な快感を感じる人も中にはいるかもしれないが、

それはどんなに肯定的に捉えたとしても

一時的な快感でしかなく、

心が平穏で持続する幸せとは、かけ離れたものでしかないのだ。

その嫌な気持ちをごまかし、押さえつけるために私たちが使う言い訳が

「あの人は間違っているから」だったりする。

幸せより、正しいか正しくないか、を選んでいる。

自分に対して、あるいは人に対して、常に批判的であり続ける

その姿勢が続くのは、なかなか苦しい人生だとは思わないだろうか?

そしてなぜ、自分を否定するのか。

それにもまた、正しい、正しくない、という判断が関わっている。

このことはなんとなく、わかるだろうと思う。

あるいは劣っている、優れている、という優劣の気持ち。

正しい云々、の言葉を使えば、優のほうが「正しい」と

判断している……という言い方もできる。

100%同じ遺伝子配列を持っている人がいない以上、個体差は必ず生じる。

生物の基本原理からすれば、違いはあって当然である。

身体のみならず、心理的環境もそこから受ける影響も違う。

それに「優」「劣」をつけて、自分に今、手に入ってないものを

うらやましがったりして、生きていくのは楽しいだろうか?

あなたは代わりに、他の人が手に入れられないものを

すでに必ず、備えているのに。

少なくとも。

誰かにはあって、誰かにはない。

性格なら練習できるし、身体的なものなら

それは個体差の話で、誰の責任でもない。

近づくことはできても、そのものにはなれない。

じゃあ、なぜ比較して自分をいじめ続けるのだろう。

あなたはこの世にひとりしかいない、かけがえのない存在なのに。

手に入らない、と、自分に対して文句を言い、自分を嫌い、

自分への駄々をこね続けていたら、あなたの望むものは

もしかしていつかは手に入るのだろうか?

……ある意味キツくてゴメンね。
その2につづく

自分を嫌っていることで

自分をもう、なんだかとにかく、

かなりの面で嫌っている人は、

結果として、であるが、

あなたをよい、と思ってくれた人を

遠ざけることになりかねない。

なぜなら、いかに自分が

ひどい人間であるかを

延々、相手に訴えるからである。

想像してみてほしい。

自分がいいな、と

思っている人について、

あの人はこんなところがダメで

こんなに悪くて

こんなにひどいんだよ、

と、ささやかれ続けたら。

そうなのかな、

本当はヒドい人なのかな、と

だんだん、疑いはしないだろうか?

最初はいいところを

みてくれていたはずなのに、

あなたの指摘によって

その人は、あなたの悪いところを

目にするようになる。

教えてもらったことが

本当か、気になってしまうからだ。

さらに、あなたが、

自分を粗末に扱っている現場も

目にするだろう。

つまり、全面的に自分を

嫌いであると

他者に、同じように私を

ヒドい人だとみてくれ、

扱ってくれ、と、

頼んでしまうのだ、ある意味で。

相手にとってみたら、

それはかなり辛い仕打ちに

思えることだろう。

自分の好きだと思っていた感覚は

間違いだったのか、と

捉える人も、いるだろう。

そうでなかったとしても、

どうしてあげたらいいのか、と

苦しくなるはずだ。

嫌いな面をみせるな、隠せ、

とかいう話ではない。

そんなこと、他人はお見通しである。

自分の中で、この部分はいけないな、

欠点だな、直さなきゃ、

と感じている人は、

世の中にたくさんいる。

でもそれは自分の「部分」であって

全面、ではない。

それで、いいのだ。

自分を、基本は好きになっても、

本当はいいのだ。

それにより、他者にも

辛い気持ちを与えなくなる。

この点から考えても、

自分を嫌う気持ちを

手放していく方法を探ることが、

いかに大切だかわかるだろう。

自分との関係だけでなく、

他者との信頼関係を、

みずから破壊する必要など、

どこにもないのだから。