世の中、ひどい人ばかりだ、と思っている人は
必ず自分のことも否定している。
正しいか、正しくないか、を選択基準にすると
周りにひどい人が増え、そういう人に対して
「ひどい」だの「この人のせいで悲しい、悔しい」だのと思う気持ちは、
必ず「罪悪感」を感じることにつながるので、自分を嫌になるのだ。
そう、怒りという黒い気持ちを持つこと自体、私たちは本来なら
それに長くは耐えられない精神構造をしている。
当然、自分のことだけ考えて人を軽んじる、
傷つけるような考えや行動を続けても
やっぱり私たちは、だんだん自分を嫌いになる。
人をひどいと思おうが
他人に対しひどいことを思おうが
私たちは最終的に自分を傷つけ、否定しているのだ。
だから、怒りからはめったに素晴らしいものは生まれない。
生まれたようにみえても、それは一時的でしかなかったりする。
相手も結局、怒りでは根本的には変わらない。
よほどしつこく、執念をもって怒り続ければ
やがて相手が萎縮していく可能性もあるが、
それはたいていの場合、問題を解決したことにはならず
ただ、相手に自分を「嫌なヤツ」「怖いヤツ」と思わせて
縁を切らせるのに近い行為となる。
しかも相手には、どこかの部分で自分が悪者扱いされる。
そして、ひどいことをした(怒りは相手にはキツイことだ)自分に残るのは
怒り続けた疲弊と、人を傷つけたという
心の奥のほうの罪悪感、それに伴う自分への嫌悪感。
たとえ目の前から災難が去ったとしても、それは残ってしまう。
だからこそ、戦争は戦争を呼び続け、復讐は次の復讐につながる。
究極的な言い方をすれば相手がイヤなヤツだから
傷つけていい、という言い訳は、私たち自身が、
自分の嫌な面を見たくないから早く自分から遠ざかってくれ、と
言いながらも結局、相手も自分も傷つけているようなものなのだ。
それをやって残るのは自分への嫌悪感なのに。
また、自分を否定する理由がひとつ、増えるのに。
増えたのは相手のせいだと、そこでまた、怒ったり恨んだりしたら?
つまりはキリがない。
本当に、あらゆる意味でキリがないのだ。
こうして考えたとき、平穏で幸せに、怒らないで暮らせる方法は、
自分を嫌いになっているその気持ち自体を
「やめる」こともひとつ、という話になる。
これは突拍子もないように聞こえるかもしれないが、
自分を嫌いでも、他人を嫌いと感じても、
そのときあなたは、絶対、居心地が悪いはずだ。
もちろん、自虐的な快感を感じる人も中にはいるかもしれないが、
それはどんなに肯定的に捉えたとしても
一時的な快感でしかなく、
心が平穏で持続する幸せとは、かけ離れたものでしかないのだ。
その嫌な気持ちをごまかし、押さえつけるために私たちが使う言い訳が
「あの人は間違っているから」だったりする。
幸せより、正しいか正しくないか、を選んでいる。
自分に対して、あるいは人に対して、常に批判的であり続ける
その姿勢が続くのは、なかなか苦しい人生だとは思わないだろうか?
そしてなぜ、自分を否定するのか。
それにもまた、正しい、正しくない、という判断が関わっている。
このことはなんとなく、わかるだろうと思う。
あるいは劣っている、優れている、という優劣の気持ち。
正しい云々、の言葉を使えば、優のほうが「正しい」と
判断している……という言い方もできる。
100%同じ遺伝子配列を持っている人がいない以上、個体差は必ず生じる。
生物の基本原理からすれば、違いはあって当然である。
身体のみならず、心理的環境もそこから受ける影響も違う。
それに「優」「劣」をつけて、自分に今、手に入ってないものを
うらやましがったりして、生きていくのは楽しいだろうか?
あなたは代わりに、他の人が手に入れられないものを
すでに必ず、備えているのに。
少なくとも。
誰かにはあって、誰かにはない。
性格なら練習できるし、身体的なものなら
それは個体差の話で、誰の責任でもない。
近づくことはできても、そのものにはなれない。
じゃあ、なぜ比較して自分をいじめ続けるのだろう。
あなたはこの世にひとりしかいない、かけがえのない存在なのに。
手に入らない、と、自分に対して文句を言い、自分を嫌い、
自分への駄々をこね続けていたら、あなたの望むものは
もしかしていつかは手に入るのだろうか?
……ある意味キツくてゴメンね。
その2につづく