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あなたが自分を嫌っていたら

すみません、ちょっと、話を聞いてもらえませんか。

実はね、私は、自分が嫌いです。

でもあなたに、興味・関心があります。

私は、自分のことを愛せないので、

代わりにあなたが、私のことを好きになってください。

友達として。

彼氏、彼女として。

……あなたが自分を嫌いで、

周りに心を許せる友も、恋人も家族もいないとき、

それを寂しいと思うとき。

あなたはもしかして、こういったことを、

夢見てはいないだろうか。

自分は、自分を嫌いだと、決めている。

そこは絶対、変えようとはしない。

変えないと決めているのは、あなた自身である。

それは単に、そう「決めつけている」だけなのだが、

それを決定し、思い込んでいるのが

他ならぬ自分自身であることには、気がつかない。

そして誰か、助けてほしいのに、と思う。

もう一度、最初のほうを、読んでほしい。

そんなふうに、まったく見知らぬ誰かから言われたら、

あなたは喜んで、相手の言うことに従うだろうか?

その相手がたまたま強烈に、友達として、恋人として、

自分の好みの人だ、と思えたら、もしかして、あり得るかもしれない。

でも、可もなく不可もない、とくに自分が惹かれる人でもない、

そしてまったく見ず知らずの相手だったら?

あなたは、喜んで、相手の言いなりになるだろうか? 

普通は、恐怖心が先にくるよね。

だって、あなたは、相手のこと、何も知らないのだから。

相手に、興味や関心を持ってもらいたいなら、

まずはそのための接触、をしなくてはいけない。

話しかけ、自分はこういう人だ、と開示する、努力。

それがないのに、誰か! と求めても、

あなたが世界の中心で、世界を思い通りに動かせる王様でもない限り、

無理な話である。

ごめんね、はっきり言う。

夢、見てるんだよ。素敵な理想論。

自分を嫌いな人が、ただ、代わりを求めても

誰も「はい、そうですか」とは従ってくれない。

誰も、あなたの代わりに私があなたを愛するから、

もう一生、安心ですよ、とは、

言ってくれないのだ。

さすがにそこまで、世界はあなたのものではない。

いかに理想論を見ているか、夢の世界を見ているか、

そろそろ、気づいてね。

深い人間関係をつくるためには、深くするための努力を、

あなたもまた、しなくてはならないのだ。

私からは何もしません、できません、というままでは、

あなたは最初に書いたような人になってしまう。

そして、自分を開示するために、まずあなたは、

自分のことをある程度までは、許して、好きにならなくてはいけない。

そうじゃなきゃ、怖くて開示できないよね。

こんな自分、って、思ってるんだもの。

あなたは、かけがえのない、ひとりの人、としての存在である。

でも残念ながら、世界を自分中心に、

思い通りに動かすことまでは、できないのだ。

去っていった恋人、離れていった友達。

みんな、自分の考え通りには、動かない。

だって、その人達もまた、かけがえのない、ひとりの人、だから。

その人達もまた、自分で感じ、考えていいのだから。

あなたが自分を嫌うこと自体をやめない限り、

あなたは他人に心を開けないかもしれない。

あのね、やめていいんだよ、その思い込み。

周りから、あなたはこういうところがいいね、って、

一生に一度も言われたことない、という人も、まれだと思う。

あなたは、自分を好きになってあげていい。

そのための、努力をまず、していいのだ。

こんなダメなところがあるけど、

ま、でも、自分って、なんかまあ、結局はかわいいヤツじゃない。

そんなふうに思えるよう、まずは、探してみてね。

自分のために、探してあげてね。

お願いだから、世界の中心になりたいかのような、

そんな夢だけを、他人と比較して、追い続けないでね。

人は一人ひとり、かけがえのない、自分の意志を持っていていい、

大切な人間。もちろん相手だけでなく、あなたも。

ということを……現実として、事実として、理解してね。

その行動は、誰のため

昨日、電車のなかで小耳に挟んだ、とあるお母さんから息子さんへのセリフ。

「誰のために、私がこんなにがんばってると思っているのよ!!」

……はい、うん、ある面においてですが、まあ、はい、わかります。

とてもいろいろな苦労をされているのでしょうし、いろいろなことをお子さんのために我慢されているのでしょう。

でも、それを子どもに面と向かって言うのは、「感謝」を、「お返し」を、強要していないだろうか。

「誰かのためにこんなにがんばっている私」は、

人の役に立てていることで「あなた」に満足感、達成感、幸福感をもたらしているのではないだろうか。

あなたが「がんばりたい」と思える対象としての「相手」がいてくれるからこそ、

あなたはがんばろうという気に「なれる」のだ。

「誰の稼ぎで食っていけてると思ってるんだ!」と、怒鳴るお父さんも同じ。

家族が協力して、あなたをお父さんとしての立場で見てくれているからこそ、

あなたも「やり甲斐」を持って仕事に取り組める。

家族がいようといまいと、本当は、自分の口は自分で養わなくちゃいけないからね。

これがさらに進むとどうなるか。

私が実際に聞いたことのあるものでは、両親不在で親戚の間で育った、という経歴を持つ父親が

家庭で超ワンマンにふるまいながら「おまえ達は父親がいて幸せなんだ。オレより恵まれているんだ」と

バキュームカーのように「自分を愛すること、認めてくれること」を強要し続けたという話。

自分の意見をすべて聞いてくれることが家族愛の証、になっていたのだ。とにかく押しつけ一本槍。

その子どもが、子どもながらに「じゃあ、オレもお父さんがいなかったら、こんなことを言われずに済むのに」と

矛盾した気持ちを感じたのも、無理はないだろう。

「あなたのために、私はこんなにがんばってきたのに、あなたはその愛に報いてくれない」

このように表現すれば、たとえばそれが恋人同士であった場合、通用しないことがあるとわかるだろう。

そうやってがんばって、気持ちよかったのは「私」だからだ。

そのがんばりが「相手の立場にも立っていて、相手もまた望む形」ではなかった場合は?

通じないのだ。残念ながら、全部が、あるいは一部が。

あなたの望むようには、通じない、愛が返ってこないのである。

友達関係しかり。仕事のうえでの上司や部下やお客様しかり。学校関係でも、もちろん、親子関係でも。

相手が望むことのみを考え、自分の意志や感情をなくしてまで叶えることが愛ではないように、

相手不在で、自分が喜びを感じるために何かを「してあげて」も、やはりそれは、どこか何か、違うのだ。

その愛情表現を行った「結果」、相手はどう受け止めるのか、受け止めたのか。

その視点がなくなると、先のような見返りとしての何かを強要することにもなりうる。

自分と相手、両方を尊重する、決してどちらかだけではない、

お互いが満足できる着地点を見つける、という視点があれば、先の母親のように「誰のために!」と、

子どもに電車の中で言わないだろうな、と思う。

もう1つ例を挙げると、先日、私が読者登録させていただいている方のブログで

「着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んで」るのってどうよ、という話になっていたのだが、

うん、私なら、それはやらない。そこに相手をも尊重する気持ちが、存在しないから。

ただ自分がそうしたいからだけだと。それを「あなたへの愛」だと訴えるな、と。

万が一、そういう自己満足がほしくなって編んだとしても(笑)、

少なくとも絶対、相手には知らせないし、贈らない。

相手に、愛を強要するだけでなく、おびえや恐怖心、とまどい、怒りなどを与えてしまうのであれば、

それはもう、相手にとっては「愛」以外の別物になっているのだ。

見返りがくることをはなから望んでいたら、当たり前だと思っていたら、強要したら……

それはもはや相手のため、ではなくなってしまう。

私も、このブログをやっていて常に意識していることだが、

「私が」話しかけたいと思っているから、これを書いている。

だから、読んでくださる方がいれば、それは本当にありがたい話なのだ。

自分をそういう気持ちにさせてくれる、相手への感謝。

その気持ちは忘れないようにしたい、とさえ思えたエピソードだった。

……まあそれくらい、そのお母さんの言い方が怖かったという話でもある(^^;)

そして、逆の立場、つまり子どもの側の立場にたったときのことも

つらつらと考えてはいるのだが、それについては次回以降に。

まだ、自分の中でいくつかの思考があやふやなのだ。

真摯なつながりはどこからでも

私がAmeba内でやっているゲーム。

そこから、ブログを読みに来てくれて、

いろいろ話せる友達ができた。

はい、ふざけた画面でごめんなさいよ(^o^;)

今は携帯の農園やらペットやら、バーやらを楽しんでいて、

例えばペットはこんな着ぐるみがもらえたりもするゲームで、

飼ってるブタのキャラクターに着させて遊んでいるのだ。

こんなゲームでさえ(笑)、遊び、関わりあいながら、お互いを知っていける。

他にブログを通じて実際に友達になった人もいるし、

こうしたつながりは、今の時代ならではだな、と思う。

もちろん、すべてがいい人とは限らないが、

なぜだか、ご縁があるなあ、と深く思える人も現われたりする。

距離や性別や年齢なんて、関係ない場合があるのだ。

顔すら知らなくても、やり取りの中で感じられるもの。

騙そうとする相手は、いずれ、自分にも、それがわかる。

ボロが出るか、相手が耐えられなくなるか。

だから、こちらはただ真摯に、対応すればいい。

そう、自分が、心をこめて応じていきたいと思える相手であるのなら、

ただ、その感覚に素直に従えばいいのだ。

ネット上の出会いに限らず、人との関係において、

利用しようとか、すがろうとか、なんとかしてもらおうとか、

そういう損得勘定を持って近づくと、後から必ず、何かが起こる。

そんな気がする。

愛情でさえ、返してもらうことを前提にし始めると、関係が狂うことがあるのだ。

自分がただ、寄り添いたいと思えるから、相手に、何らかの愛……、

友愛でも、隣人愛でも、人間愛でも、恋愛でも、

何か、そういう思いを表したいと思って、伝える。

家族という、つながる前提のある関係性は、またちょっと、

別の要因(責任とかね)を含む可能性があるけれど、それ以外なら、

本当は、ただ、何らかの愛。それだけを思えれば、いいんじゃないかなあ。

自分がそうしたい、表したいから、ただ、相手に表現する。

そう思えれば、見返りとか、裏切りとか、騙す、騙される、

なんてことに、わずらわされないで、済むような気がするのだ。

そんなふうに自分が誰かに対し、何らかの愛を表現できる。

それは本当は、とてもステキで、尊いことなのだと、私には思える。

まあ、甘い考え、ただの理想論だと、

蹴散らかす人もいるだろうな、残念ながら。

人間関係の悩みは当然、悩みとしてあってもよくて、

人とのつながり、愛というものの尊さは、本人が感じられる限り、

損なわれたりしなくて、ちゃんとそこにあるんだよ、と、

言いたいのだけれど……。

たとえ相手が騙す気満々であってさえ、ね。

自分が感じられるものがあれば、それは別に嘘や偽物ではないのだ、と。

あなたが感じるものは、あなたが大事にしても、いいのだと。

そしてその真摯さは、何らかの形で、

やがては相手に届くのだ、と……私は密かに、信じている。

真摯な思い、そんな愛の力を、私は、信じているのだ。