昨日、電車のなかで小耳に挟んだ、とあるお母さんから息子さんへのセリフ。
「誰のために、私がこんなにがんばってると思っているのよ!!」
……はい、うん、ある面においてですが、まあ、はい、わかります。
とてもいろいろな苦労をされているのでしょうし、いろいろなことをお子さんのために我慢されているのでしょう。
でも、それを子どもに面と向かって言うのは、「感謝」を、「お返し」を、強要していないだろうか。
「誰かのためにこんなにがんばっている私」は、
人の役に立てていることで「あなた」に満足感、達成感、幸福感をもたらしているのではないだろうか。
あなたが「がんばりたい」と思える対象としての「相手」がいてくれるからこそ、
あなたはがんばろうという気に「なれる」のだ。
「誰の稼ぎで食っていけてると思ってるんだ!」と、怒鳴るお父さんも同じ。
家族が協力して、あなたをお父さんとしての立場で見てくれているからこそ、
あなたも「やり甲斐」を持って仕事に取り組める。
家族がいようといまいと、本当は、自分の口は自分で養わなくちゃいけないからね。
これがさらに進むとどうなるか。
私が実際に聞いたことのあるものでは、両親不在で親戚の間で育った、という経歴を持つ父親が
家庭で超ワンマンにふるまいながら「おまえ達は父親がいて幸せなんだ。オレより恵まれているんだ」と
バキュームカーのように「自分を愛すること、認めてくれること」を強要し続けたという話。
自分の意見をすべて聞いてくれることが家族愛の証、になっていたのだ。とにかく押しつけ一本槍。
その子どもが、子どもながらに「じゃあ、オレもお父さんがいなかったら、こんなことを言われずに済むのに」と
矛盾した気持ちを感じたのも、無理はないだろう。
「あなたのために、私はこんなにがんばってきたのに、あなたはその愛に報いてくれない」
このように表現すれば、たとえばそれが恋人同士であった場合、通用しないことがあるとわかるだろう。
そうやってがんばって、気持ちよかったのは「私」だからだ。
そのがんばりが「相手の立場にも立っていて、相手もまた望む形」ではなかった場合は?
通じないのだ。残念ながら、全部が、あるいは一部が。
あなたの望むようには、通じない、愛が返ってこないのである。
友達関係しかり。仕事のうえでの上司や部下やお客様しかり。学校関係でも、もちろん、親子関係でも。
相手が望むことのみを考え、自分の意志や感情をなくしてまで叶えることが愛ではないように、
相手不在で、自分が喜びを感じるために何かを「してあげて」も、やはりそれは、どこか何か、違うのだ。
その愛情表現を行った「結果」、相手はどう受け止めるのか、受け止めたのか。
その視点がなくなると、先のような見返りとしての何かを強要することにもなりうる。
自分と相手、両方を尊重する、決してどちらかだけではない、
お互いが満足できる着地点を見つける、という視点があれば、先の母親のように「誰のために!」と、
子どもに電車の中で言わないだろうな、と思う。
もう1つ例を挙げると、先日、私が読者登録させていただいている方のブログで
「着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んで」るのってどうよ、という話になっていたのだが、
うん、私なら、それはやらない。そこに相手をも尊重する気持ちが、存在しないから。
ただ自分がそうしたいからだけだと。それを「あなたへの愛」だと訴えるな、と。
万が一、そういう自己満足がほしくなって編んだとしても(笑)、
少なくとも絶対、相手には知らせないし、贈らない。
相手に、愛を強要するだけでなく、おびえや恐怖心、とまどい、怒りなどを与えてしまうのであれば、
それはもう、相手にとっては「愛」以外の別物になっているのだ。
見返りがくることをはなから望んでいたら、当たり前だと思っていたら、強要したら……
それはもはや相手のため、ではなくなってしまう。
私も、このブログをやっていて常に意識していることだが、
「私が」話しかけたいと思っているから、これを書いている。
だから、読んでくださる方がいれば、それは本当にありがたい話なのだ。
自分をそういう気持ちにさせてくれる、相手への感謝。
その気持ちは忘れないようにしたい、とさえ思えたエピソードだった。
……まあそれくらい、そのお母さんの言い方が怖かったという話でもある(^^;)
そして、逆の立場、つまり子どもの側の立場にたったときのことも
つらつらと考えてはいるのだが、それについては次回以降に。
まだ、自分の中でいくつかの思考があやふやなのだ。