カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

感情を 隠す必要はないけれど

感情を隠す必要はないけれど ぶつけ方と ぶつける相手を選ぶ

何かの本で読んだ要約のようなもの

あなたが感じている その悲しみや怒りや とまどいやさみしさは

「あなたの」感情である

あなたが あなたの内側で 感じているものである

それゆえ 周囲の人には 態度か 言葉で表さない限り 気づかれないものである

よく 以心伝心 という言葉があって 相手の考えていることが わかるようになることも確かにある

ただしそれは お互いの深い信頼感 つきあいの長さなど ある程度の条件が必要であって

以心伝心になってよ と言ってなれるものではない

こっちの気持ちを推し量ってよ と 強要しても できるものではないのだ

あなたの感情は あなたのものであるから

それが苦しいとき 誰かに聞いてもらいたいと思ったとしよう

言う相手は 誰? そして どんなふうに伝える?

たとえば職場で上司に八つ当たりされたとき

職場で その上司に向かって やんわり釘を刺すのか

それを見ていた同僚に あとで話すのか

帰ってから家族に あるいは彼氏に電話で話すのか

数日後の友人との集まりで話すのか

誰かに向かって そのつらさを解消する方法は ざっと書いただけでこれほどある

でもそれは あなたの感情であり

あなたが そう感じたことが「正しい」わけでもない

あなたは「たまたまそのときに そう受け止めた」から たとえば怒りや 腹立たしさを感じる

それはあなたのタイミングによる あなたの視点である

これを忘れてしまうと 相手に「強要」を求める

ひどいでしょ と強く言って 悪口的な同意を求めようとしたり

大変だったね かわいそうに と言ってほしくなったり

話を聞いた側の反応を 自分の都合で 勝手に自分好みに合わせてもらいたくなる

だって 私が感じているこの感情は 「正しい」んだもの 「当然」なんだもの

そう思っているから それを「正しい」と同意してほしくなったり それをふまえて さらに

「ね こんなにひどいことがあって 痛んでいるから 優しくしてよ なぐさめてよ」 と 暗に強要するのだ

あなたはたまたま そう受け止めたかもしれない

でも話を聞いた人は そうは受け止めないかもしれない

であれば こういうことがあって 「私は」こう考えて怒りを感じた と話したほうが

相手に対する強要を発生させないで済む

こんなにひどいの 腹が立っているの こんなに大変だったの ということを

怒りの感情そのままに まるでその ひどい上司が目の前にいるかのごとく ぶちまけるのと

自分の感情をも 自分でみつめながら話すのとでは

相手に対する「強要」度が変わるのだ

さらにはもし 話を聞いてくれた相手が そうは受け止めずに

「自分だったらこう感じる」「こうする」と思った場合

その新しい視点 アイデアを 聞くチャンスも生まれてくるだろう

それはきっと あなたにとっては新鮮な視点になるだろう

感情を 隠して一人で耐える必要はない

それができる人 「そうしたい」人も いるかもしれないけれど

隠して奥にしまい込んで 苦しいまま封印してしまうことは 実は必要ないのである

ただ あなたの感情に対する 100%の同意を求めるのは

違った感覚を持つ 自分とは「違う人間である」相手を ときに苦しませることになる

そのことを 頭の片隅に入れておいてほしい 相手の反応まで コントロールしないでほしい

とくにマイナスの感情は 重いので

こういうことがあった 私は苦しい 悲しい つらい 腹が立っている という話を聞いてもらうときは

自分だけの思いに浸りきってしまうと 自分がずっと苦しいし 聞いている相手も苦しいだろう

静かに泣くのはいいけれど ときに耐えきれず 号泣するのも仕方ないけれど

「私が号泣したり荒れたりするのは当たり前」

「こういうとき 受け止め 私が気に入る反応を返すのが当たり前でしょ」にならないことを 祈る

逆の立場になったら 「強要される同意やなぐさめの言葉」って 重たく感じられることは よくわかると思うから

感情表現は その感情にどっぷりひたったままで

表に出すのが「常に正しい」というわけではないことを覚えておいてほしい

それができるためには 互いの深い信頼感と そうできる場所 時間 タイミングも たぶん必要なのだ

もう一度繰り返す 無理して閉じ込めて なかったことにする必要は 本当にないのよ

ただ 表現方法を その出し方を 自分さえ 落ち着かせてみる感覚を 覚えていってもらえたら と思う

白雪姫の母親的不安。

この世で一番美しいのは誰?

鏡に毎日、尋ねていたのは、白雪姫の、あのお母さん。

鏡に毎日「それはあなたですよ」と言ってもらって満足する日々。

このお母さんは、なぜ、自分で自分が美しいと信じられなかったのだろう?

きっと、世界トップクラスの美しさ、だよ?

美しさにしか自分の価値を見い出せず、その他の自分については、自信がなかった、あるいは嫌いだった?

少なくともそうでなければ、毒リンゴで自分の娘を殺したくなるほどの嫉妬には燃えなかっただろう。

鬱になると、似たようなことを、実はやりたくなる。

彼氏に、彼女に、常に自分のことを考えていてほしくなる。

自分に優しくしてもらいたい。そのために、ときには試すようなことまでやる。

まるで「世界で一番美しいのは誰?」って尋ね「それはあなたです」といって欲しいがごとく。

弱っているから、優しくしてほしい。弱っているから、甘えさせてほしい。

そっちから心配の電話をくれないとイヤ。

私が、僕が、何も言わなくても、そっちからやってくれるのが、愛情っていうものでしょう?

……こうして、相手の行動で、愛を計る。

一種の王様、女王様である。

かと思うと、相手を失いたくがないために、相手の言うことを全部聞く。

心の中では「そんなこと……」とちゃんと感じているのに、

自分自身でそれを、なかったことにする。

だって相手は貴重な鏡だから。自分をよいと言ってくれる人だから。

私は、僕は、自分が嫌いだから、自分のことを好きと言ってくれる、

「あなたですよ」と言ってくれる鏡は、失いたくないのである。

……それゆえに、自分の感情を感じないようにしたまま、従ってしまう。

一種の下僕、奴隷である。

こうして書くと、どちらも「いびつ」だよね。

せっかく、好き同士、なのに。

自分と相手の、好き、普通、嫌い、の単純な3つの感情で組み合わせを考えたとき、

好き×好きの確率は、1/9しかない。

その1/9の相手に巡り会えたのに、なぜ試したり、盲従して、わざわざゆがめる必要があるのだろう?

誰かとつきあっていくうえで、お互いの違いを認め合うには「折り合い」っていうものが必要で。

昔、さだまさしさんも歌っていたように(古くてゴメンよ!)

「どちらかが苦労して 繕うものではないはず」なのだ(by『関白宣言』)。

お互いが納得できる「着地点」を、お互いで探っていって、お互いがちょとずつ譲り合っていく。

それができないのはなぜか。

一番大きい理由のひとつが「あなたが今、自分を嫌っているから」である。

(相手の状況や性格については考慮しなかった場合、ね)。

自分を嫌っているから、誰かに代わりに認めてほしいし、認めてくれる相手を失いたくないのだ。

白雪姫のお母さんが毎日、鏡に聞かなくては気が済まなかったように、

あなたもずっと、誰かを求める。でも、自分を本当は見失いたくないし、嫌いたくはない。

自分で自分を好きになれれば、実は鏡に問わなくてもすむのだ。

……今日はたぶん、うら若き皆さまの、痛いところを突いたかもしれない。

イベントシーズンで悩み多き方々に、根本のところを理解してほしかったので、書いてみた。

刺さった方がいたら、ごめんなさいね。

でも、あなたが「なすべき」ことがあるとしたら(本当はべき、とかいう話じゃないんだけれど)、

相手のことを考えすぎて、あれこれ不安を増やすのではなく、

その脳の調子の狂いを、生活の中で丁寧に整えながら、

なぜ自分で自分をここまで痛めつけ、嫌いになってしまったのか、を探ることである。

内側からの輝きは、その人だけが持つ宝石だから、

それが見つかれば、あなたの恋も人間関係も、よりよい方向へ進むのだ。

そのほうが、よりあなたを魅力的に見せることは、単純にわかると思う。

だからね。まずはその病を、治していこう。

無理するとまた逆戻りしちゃうから、決して、無理せずに。

あなたの輝きは、内側に、隠れてしまっているだけだから。

決して、ないわけではなく、なくなってもいないのだから。

依存とサポート

「依存」とは、他者にさまざまな答えを求めたり、

自分の価値を認めてもらおうとすること。

恋愛に限らず、これは起こりうることである。

たとえば誰かの話が、今の自分の困っている部分に当てはまる、と思ったとき、

その人の話をもっと聞きたくなる。

それを自分なりに噛み砕いて解釈し、気持ちが晴れたり、

悩みを解決するヒントになれば、その話は、自分をサポートしてくれるものになる。

しかしそれにとどまらず、鵜呑みにしてしまう場合が、ときに依存へとつながっていくのだ。

たとえば、の話。

ずっと毎日、ある人に「つらいよ」と悩みを打ち明け、

「うん、つらいですね。大変ですね」という言葉のみ毎回、返されたら、

そのうち自分自身がだんだんと申し訳なくなったり、

行き詰まってしまうことは、簡単に想像できると思う。

かと言って、答えを知っていそう、と思う誰かにガンガン、

それはこう、あれはこう、と、答えを教えてもらったら。

そのうち、その人から離れるのが怖くなる。

だって自分には自信がないまま、なんとかしようとするからだ。

宗教の変な勧誘と、それにはまっていく過程は、まさにこれを利用している。

納得させながらも、相手には、それが「自分ですでにその答えを心のなかに

秘めていたからこそ、そうだ、と思える」、という部分を気づかせないようにする。

魚の獲り方を教えず、ひたすら魚を与え続けるのだ。

そのようにして行き着く先が、他者依存なのである。

しかも「素晴らしい! この教えに付いていけば、間違いない!」

という、相手からの賞賛つきでね(^o^;)

ひたすら優しく受け止め、求めらる答えをどんどん伝えるのは、

本当の愛、ではないとさえ思う。

それは魚の獲り方を一生、自分では気づけなくするようなもの。

獲る能力がちゃんとその人にあることを本人には気づかせないようにして、

獲る前に与えてしまうようなものなのだ。

そして気づかないあなたも、与え続けてもらいたいがために、

やがて何かを譲歩したり我慢するようになるだろう。

そう、あなたは、自分のなかに答えをすでに、秘めている。

それゆえ、よいカウンセラーは、本人が答えを見つけられるように、

会話などで導いてくれる。

やがてあなたが気づけることを、信じている、というより、知っているから。

何度でも言う。

あなたがもし、誰かの言葉に反応したなら、それはあなたの中にもう

答えの「氷山の一角」が見つかっている証拠だ。

それを捉え、元にして、自分で今できることへ、変えていこう。

こうした気づくためのヒント、という意味でのサポートは、

今、可能な範囲でどんどん活用してほしい。

でも、恋人や友人にひたすらわかってほしいという恭順さを求めたり、

自分に役立つ答えを求めたりしているなら、いったん立ち止まろう。

相手にわかってほしいなら、あなたもまた、相手の気持ちを

わかってあげなくてはいけない。それが関係のベースであることを、

この病の間はとくに、忘れがちになりやすいから。

さらには、私にはわかっているから聞きなさい、と豪語する人を

今はとくに頼ろうとしないほうがいい。話を聞くのはともかく、

聞けなくなったら、この人がいなくなったらどうしよう、という不安が

起こるようであれば、それは依存の始まりなのかもしれないから。

だいじょうぶ。

答えは必ず、あなたのなかに、ちゃんと備わっている。

無理せず、できる答え探しや行動を、まずは少しだけやってみよう。