カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

人の振り見て……

私には、どうしても苦手、と思えるタイプの人がいる。

もちろん誰にでもいると思うのだが、鬱から回復していく過程で「自分を知る」作業をしていたときに、

どうも、その「苦手」に、いくつかのパターンがあることに気づいた。

そのうちのひとつ、私がもっとも激しく(?)反応してしまう例を挙げてみると、

それは「私を見て!」というタイプの人。

何人かで会って話をするとき、その会話の中で、常に自分の考えや意見、

経験のほうへ話を「持っていってしまう」人がいる。

そして聞いている側は「大変ね」「すごいわね」「がんばって」という系統の返事を、

なんとなく求められているような気になっていく。

これまでに、私の記憶のなかでは3人、そういう人がいて、

明るい人も、悩んでいる人もいたのだが、いずれにせよ、その人と会話しているときに

私が相手に感じたイメージを言葉に例えるとしたら、それは「バキュームカー」だった。

この例えは何かの本で知ったのだけれど、あまりのぴったりさに驚いて、

うん、そう! それ!! と大きく肯いてしまった。

なんていうのだろう、どこまで「賞賛」しても、「慰め」ても、ず~っと延々、テーマを変えて

求められ続け、キリがないような感じ。ときには、ちょっと痛々しささえ感じてしまうような。

本当に会っている間中、最後には必ず「今日もそんな感じの会話だったなあ」って思ってしまうのだ。

適当に流せばいいはずなのに、他の人はそんな様子で対応しているのに、

なぜ、私はここまで引っかかるかな、と思っていたら、

これまた別の本で「気になる人はすべて自分の鑑(かがみ)」という記述に出会って、ガーンとなった。

そう、少なくとも小学生のとき、私もそうだったのだ。自分に注目してほしい、それが気持ちいい、という感覚。

友達からそれをガツン! と言われたときに(点取り虫、っていう表現だった)、やっと自分で認識したのだ。

結局、自分のことしか目に入ってないでしょう! っていうヤツ。

中学生以降、自分ではその意識を自制するようにはなったが、もしかして今でも、

その傾向は残っているのかもしれなくて、少なくとも「自分をより上へ上へと昇らせる」ために

無理をしたのも、そのことが少しは関係しているかもしれない。

注目、ほどではなくても「頑張ったことを他者から認めてもらう = 気持ちいい」っていう部分でね。

そう、きっと私は過去(または、いまだに)の自分を見ているようで、余計にイヤなのだ。

だからといって、それは「私が直してあげる」ことでもない。

もしかして、そのような「役目」があるのなら、いつか、それを言わざるを得ない状況に

なるかもしれないが(笑)、たぶん、私じゃないだろうと思える。

ショックな指摘ではあるから、それをしたうえで、上手にフォローでき、支えてあげられる人の役目になるだろう。

たぶん私にとっては、自分の学び。

そういう自分がいる(少なくともいた)ことを、改めて知ることができてよかった。

だからその点には感謝して、でも、わざわざそういう傾向を毎回、見つめるのはつらいから、

もう近づくのはやめよう、と思えた。

今後もそういうタイプの人はきっと苦手、うん。自分は自分で気をつける、それでよし、って。

もうひとつ、今度はメリットの話。

他者は自分の鑑、であるということは、自分が「いいな」と思える人、その「いい点」も、

実は自分のなかに内包されていることになる。

すでに発揮しているか、あるいはまだ表には現れていないか。

それは内容によってさまざまだろうけれど、「素晴らしいな」とか、いい意味で「うらやましいな」と

感じることは、自分がそうなれる可能性を示しているってことだ。

こちらのほうは、これからもっと、意識したいと思う。

いずれにせよ、どちらも自分を知るきっかけにはなるから、

気づいたからといってムゲに落ち込んだり、舞い上がったりするのではなく、

上手に利用していってもらえたら……と思う。

ここで言葉を紡ぐ(つむぐ)こと

ここで私がこうして文章を書く。あるいはコメントを書く。

それを読んでくださった方が、どこかで、何かを感じられる。

ブログというのは、そういう機能をもった場所である。

一度もお会いしたことのない方、ブログに綴られたお話の部分でのみ情景が浮かぶ方。

その関係の希薄さが、寂しさと同時に、安心感も生む。

今の自分のありのまま全部を、さらけ出さないですむから。

そういうつながりのなかで、私が延々と書き続けているのはなぜだろう、と考えてみると、

まず、私は私自身の痛みを、吐き出しているのだということ。

これは、痛みも相当、薄くなってきてからの「過去の掘り出し」作業であり、

誰かに読んでいただけるかもしれない場、という中であえて書くことで、

自分を見つめ直している部分が絶対にあると思う。

もう一点。

同じ思いをされた方、されている方が、もし、何かを感じてくださったときのこと。

これは、感じてくださった方の「感性」であり、その「感性」はその方にすでに備わっている「力」である。

私が影響を与えるとか云々、ではないのだ(そんな高ビシャな気持ちで書いていたら、

読んでいる方にすぐバレて、誰も読んでくれなくなる)。感じる、というのはあなたご自身の、力。

そのことに気づいていただけますように、と、願っている。

私の紡ぐ言葉は、今もそうだけど、あらかじめ、入念な下書きはしていない。

思いつくままに、ある意味「気ままに」、書き連ねている。

それが文章となって、なんらかの意味を紡いでいくとき、それをどう受け止めるかは、

その方の力、なのだ。だから常に感謝している。

もちろん、私は誹謗・中傷を書くつもりはないし、自分のことを棚に上げるつもりもない

(また、上げられるような自慢の棚もないしね……(^^;))。

基本的に自分の経験と自分が気づいたことから、言葉を選び、意味を紡いでいるつもりでいる。

それでもときに、おせっかいと思われたり、ときに格好つけすぎと思われたり、まあ、いろいろな

受け止め方は起こるだろう。それは私もまた、他の方の文章を読んで何を受け止めるか、が

まさに「私の視点」になるわけだから、同じなのだ。

誤解を恐れずに言うと、非難や批判を、私は怖がっていない。

無視できるほどの図太さはないけれど、自分の感じたことを文章として紡いでいく以上、

違う、と感じられる方がいらっしゃるのは、当然のことだからだ。

もう二度とこんなブログは読まない、とか、こっちのブログに来ないでくれ、とか(幸い、そこまでの否定は

今のところないけれど)、そういう「要望」があれば真摯に対応するけれど、

それ以外は、こちらから云々、というつもりもないし、ケンカする気もない。とくに怖れていないのだ。

なぜなのかは、自分でもわからない。「関わった責任」とかで、無理して続けるわけでもない。

そもそもブログやSNSという形態のなかでは、関わり方にも限界があると思えている。

そういう意味で、リアルに会っている友人ほどの責任は、きっと負い切れないだろう。

それでも対話したいし、たとえ一時的な意見の相違は起こったとしても、

ご縁のあった方の意見を読み、文章で表現しながら、語り合いたい。

きれいごとのみがあるから、あるいはいつでも逃げ出せるから安心……などとも思っていないから、

たぶん、こうして言葉を紡ぎ合うこと自体が、私はまず、好きなんだろう。

インターネットという環境が出来て生まれてきた新しい関係性だけれど、

言葉を紡ぐ意味を、新たに私は考えさせられることになっている。

そして、うっすらとではあってもここでご縁ができた方々に、不思議な形ではありますが、

ご迷惑もかけるかもしれませんが、どうぞよろしく、と、改めて感謝と挨拶の気持ちを伝えたい。

希薄でありながら、ある部分、濃厚であるこのブログという場所が、

憩い、学び、痛みの解放、あるいは気づき、感動の場として、そういうプラスの場として、

より多く機能していきますように。

私自身がそのように使え、また、私が意図せずとも何かを感じ取っていただける場を、

続けていけますように。

今日はなんだか、ぼんやりとした話でごめんなさいね。

人に向かい合うときの自分

昨日の話から、ふと思ったこと。

恋愛であれ、友情であれ、人と向かい合って何か関係性を作っていくときに、

私はどういう視点を持っているのだろう、と考えてみたら、

あなたは何を大切にしてますか、教えてください。

私が何を一番大切にしているか、知ってください。

そういう、相互の「価値観」なんだと思った。

相手にどう思われるか、というところよりも、その人の考え方を知りたい、

私の考え方も知ってほしい、というところなんだと。

嫌われるかどうかについては、私は小学校6年生のときに、それまで仲良しだと思っていた

女の子2人に「親友じゃない」とある日突然(と、私には思えた)ガツンと言われて、

それがすごくショックで、人とどう接していいのかわからなくなった時期があった。

まあ、それまでの私は確かに、「気を遣う」って部分が欠けていたのだと思う。

結局、何が悪かったのかは、彼女たちに明確に教えてもらえなくて、ただΣ(゚д゚;)ガーンとなったんだけど。

知らない間に人を傷つけていたというのは、当時の自分にはすごく「怖い」ことで、

そのときに「人を傷つけるより自分が傷つけられるほうがマシだ……」なんてことも思った。

母親には「本当はその子達も言いたくなかったことを、言ってもらえたんだから、気づけたことに感謝しなさい」

と言われ、12歳のアタマでは難しすぎて、う~ん、となった。

たまたま、心優しい別の女の子2人組が仲間に入れてくれ、卒業まで孤立はせずに済んだことはありがたかった。

で、中学1年生のとき。その中学校ではいくつかの小学校から人が集まってきたから

環境がガラッと変わったが、「どう接すればいいのか」がまだわからず、内心、ビクビクしていた想い出がある。

幸い、中学2年生のクラスがあり得ないほどステキな人たちの集まりとなり、

変な気の遣い方をしなくても仲良しになれて、それがもう、本当に心底楽しかったので、

「怖がっていた自分」は一気に払拭されて、元気になれた。

あのときの仲間たちは、優しくて温かかった。自然に、「人を見守る」ってことを教えてくれたように思う。

自分もそうあるべきだわ、というふうになっていけたし、成績とか、見てくれなんて関係ないや、

優しさや思いやり、心のやりとりのほうが大事なんだわ、とか、いろいろなことを実地で教わった気がするのだ。

たとえば学年の最後のほう、バレンタインデーのときに、片想いの女の子がクラスの男の子に

休み時間、堂々とみんなの前でチョコレートを渡して、自然に拍手が起こってたんだよ。

で、受け取った男の子も、自分の意中の女の子じゃないのに、笑顔で「ありがとう」って言えるの。

その「温かい」空気感。すごくすごく、人っていう存在を好きになれた“時間”だった。

そういう、自分にとって大きい、2つの経験を経たからだと思う。人を肩書きや成績では見ないですむようになった。

相手が何を考え、どんなふうに受けとめるのかも、気をつけて見るようになったと思う。

同時に、それを受けとめて感じる「自分」についても、注意深くなった。

相手の思惑ばかり気にするのではなく、自分も相手も、どちらも大事にしていいや、っていう感じ。

そこからたぶん、私は昨日書いたような「折り合い」という接地点を、探すようになれたのだと思える。

相手に対して、一方的に折れる必要もないし、こっちの主張を、絶対に通す必要もない。

相手が話したことに対し、賛成ならば同意し、違うな、と思ったら

「私はこう考えるのだけど、どう思う?」って、静かに誠意を持って、きちんと話すこと。

そういうことを心がけたら、「嫌われる」とか「嫌い」とか云々を、気にしないでよくなった。

もちろん、前にも書いたように、まだまだ、苦手だな……と思う人はいる。

私が言っている「話し合い」の余地がなさそうに感じる人。

自分のことだけを見つめ、「私はこうなの」「こうなの」「こうなの」っていう部分だけを言い、

こちらに対し「だから私のことをこう考えろ」って、強要してくるように感じられる人。

正直、「ん~、その一方的な感じは、面倒くさいな」と思える。

でもそれもまた、ある意味、私の受け止め方の問題で、私がたまたまそのとき、

相手に対してそう感じた、って話ではある。もしかして相手は、他の面も持ってるかもしれない。

だからもし機会があれば、相手の「そうじゃない面」も知りたいな、とは思う。

何回かそうやって「知って」みて、それでもやっぱり「面倒」だと思えたら、

「それは違うと思う」って言うか、言っても無理そうなら、近づかないようにすればいい。

これも実際、職場のお局の先輩に対して「近づかない」策を取ったことがある。

当然、「生意気」と言われた(笑)が、「うん、だって、面倒だし」と思えて、

意地悪されても放置できた。そもそも職場でそういうことするほうが変だし、って。

そうしたら、あまりに私が平然としていて、他の人とは普通に仲良く接していたので、

お局様のほうが、意地悪しにくくなったらしい。だんだん、勝手に減っていった。

こっちが自分のなかで「やましく」なければいいのだ、自分勝手な視点でなくそう思えるなら、

ちゃんと自信を持っていていいのだ、と、そんなふうにも思えた経験だった。

自分の過去を思い切り例に出して、接し方についての考えを語ってみたけど、どうだろうか。

今になってみれば、小学校6年生のときの経験も、母の言うとおり「感謝すべきこと」だったと思えるし、

痛い経験も、痛いなりにのちのち、役に立つのだと、私には、思えるのだけれど。

だから人との関係を怖がる必要も、無理する必要もないのだと、私には、思えるのだけれど。