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恋愛、という不思議

今日は、一転して少しくだけた内容で、私の価値観の話を。

先日、20代前半の女の子と恋愛話をしていた。

彼女の「裏切ったら許さない」という言葉に「裏切るって、たとえばどんなこと?」と聞いたら

他の女の子を好きになること、自分の言うことを聞き入れてくれないこと、だった。

……えーと、それは、私には理解できない。

本人には伝えるのが難しそうで、結局、言えなかったけど。

たとえば結婚という形で一緒に生きていくことを誓った人が、ほいほい気軽に浮気しまくったら、

そりゃあちょっと、問題だと思う。

まあ、成り行きで結婚してしまって……とか、ケースはさまざまあるだろうけど、

一応、身内も巻き込んで「書類を出して約束」するわけだから、

その浮気相手への気持ちが本気でない限り、憂さ晴らしをするなってことに、基本的にはなるだろう。

とはいえホントにいろいろなケースがあるから、私は昔から、一概には、この場合も間違ってる! というふうに

否定はしきれない。結婚相手同士が納得してればいい、って感じかな。

お互いに恋愛を楽しんでいるっていう夫婦も実際、いるしみたいだしね(^^;)

でもそういう契約関係でもない限り、相手もひとりの、人格を持った人間である。

しかも、世の中の半分は女性で、半分は男性である。

であれば、相手の人が自分より「いい」と思う女性が現れる可能性は、ゼロではない。

もし、そういう人が相手に現れたとしても、本当は自分がその女性より劣ってる云々、比較する話でもない。

相手にとっては、その「別の人」のほうがいいのだ。相手の「好み」っていう範囲で。

じゃあ仕方ないね、そういう人が現れて、私よりその人のほうが、あなたはいいんだものね、ってことだと。

だから昔から、恋愛において「裏切られた」「恨む」っていう感覚はイマイチわからなかったし、

今でも実はわかっていない。この話を学生時代にしたとき、「わかる!」っていう子と

「わからない!」っていう子がいたから、どっちかに分かれるような感覚なのかも。

何が言いたいか、というと、人は、人を縛り付けることを、本当の意味ではできない、ということ。

その人の意志まで、自分が思い通りにできる関係が、もし! あったとしても、

それは信頼関係ではなく支配とか依存だ。

言うことを聞いてくれるから好き、というのなら、なおさらそう。

じゃあ言うことを聞いてくれれば、誰でもいいの? と、あやうくツッコミを入れそうになった(^^;)

自分の意志を相手が尊重してくれて、自分も相手の意志を尊重して、お互いに「接点」とか

「折り合いをつけれられる」地点を探す。

そういう「関係性を作ること自体」が楽しくて、ああ、この人がいいな、

この人じゃないと、こういう気持ちにはなれないな……というふうに「だんだん」感じていくこと。

そういうのが、私にとっては恋愛の醍醐味なんだけど、それって違うのだろうか?

もっと言えば、これは恋愛に限らないことだと、私には思えている。

人と接するなかで、自分と相手が違っているのは当たり前で、

その中から共通の点が見つかると「そうなんだ!」ってうれしい。

「そういう考え方があるんだ」と知ることもうれしい。

間違ってる、とか思うのは、あくまで「私の価値観」であって、その人のものではない。

そして、それを「意見」として伝える可能性はあるけれど、押しつける気もない。

あくまで「私の場合は、私にとっては」という言葉で、話をするようにしている。

そうしないと、「折り合い」もつけられないもの。

あ、迷惑をかけられてて、それが明らかに「誰でもほぼイヤでしょう」ということであれば、別だよ。

たとえば以前に書いたストーカーさんみたいに、勝手に人のゴミ袋を拾うとかさ。

それははっきり「違う」って抗議する。

まあ、相手も「悪いとは思ってるけど」って言ったからだけどね……。

もし、それが「いいこと・正しいこと」だと思っている相手には、途中で止めると思う。考え方が違う、って。

そのほうが、自分を守れると思う。

折り合い、っていうのも微妙で、自分が折れてるんだよ、ということをきちんと伝えないと、

相手は「自分と感覚が合ってる人」と、判断してしまうかもしれない。

相手のために自分の意志を結構な割合で曲げ、相手のために生きると、今度は自分がつらい。

逆も当然しかりで、「言うことを聞いてもらう」のは、「折り合える範囲内」だけのことだと思っている。

さらに言えば、つきあっていくなかで、お互いは変化していく。だからずっと、折り合っていくことが

大切だと思う。病気だってそう。就職など、環境が変化することもそう。もちろん鬱だって、変化のひとつだ。

そうした話し合いが自然とできる相手に対しては、男女に関わらず、私は相当長く続いている。

だってお互いがラクだし、楽しいんだもの。

今回は、打ち明け話をしてくれた子がカンカンに怒っていたため(要はグチの聞き役だった)、

こういうことには何も触れなかったが、どうして「好き」っていう感情は、ここまで人を盲目にしちゃうんだろう、

挙げ句の果てに、裏切られたとか、言うこと聞け、かあ……うーん……と思ったのは、

決して私の「年の功」だけのせいではないだろう。

まあ、逆にこれって、冷めてるのかもしれないけどね(^^;)

でも本当に20代の初めから、友達とそういうことを話してたし、

そのほうが楽しいと、ずっと思っているんだけどな~。

ゆるせない人

きっと、誰にでも、1人や2人は、そういう相手がいると思う。

それって別に、あっても当たり前のことなんだと思う。

先日、私が「番外編」のブログのなかで紹介した「相手ではなく、自分のほうに焦点をあてる」という話も、

だからこそ、の視点なのだと、私には思える。

たとえばね。

私は昔、「近所に引っ越ししてきた誰か」に道で見かけられて、好かれて、

勝手に連絡先を調べられて、電話されたことがある。

ストーカーだの、性犯罪だの、DVだの、そういった被害の場合、

必ず「被害者にも隙があった」という説を唱える人がいるのだけれど。

じゃあたとえば、道を歩くときは常に油断せず、周囲を見渡して

自分にとっての敵がいないかを確認しつつ、顔を隠していなくちゃいけないのか?

宅配のゴミは手で宛先欄をちぎっていたけど、それでは甘かったのか? という話になる。

も、そういう説をぶつ人には、関西の芸人風に

「アホか、おまえ」

と言いたい。しかもあきれ顔でね。

明らかに、加害者のほうが悪いんだよ!

そういう手段で愛(そう、他人とのふれあいによる幸福感……だ)を得ようとする、

得られると思ってる、その発想と行動が間違ってる。

万が一……たとえば、ある女性が挑発的な格好をしていたから、思わず、と、考えたとする。

でも、その女性が挑発な格好をしたのは、少なくともあなたのためではない。

万人に襲われたいから、そういう格好をしているわけではない。当たり前だが。

何よりまず、淋しかったら、他人を傷つけていいのか。怖い思いをさせていいのか。

「自分がされて嫌なことは、他人にしないようにしましょう」っていう意識はなくてもいいのか?

すでにその段階でダメでしょう、って話になる。

まあ、第三者の声は別に気にすることはないのだけれど、

そういうわけでこの相手を、私が一般的な意味で「ゆるす」ことは、たぶん一生、ない。

当時は道を歩くのもちょっと怖くなったし、駅の階段とかで下を向くようになったり、いろいろ嫌な思いをしたのだ。

では、何をゆるすのか。

ゆるす、というより、「ああ、もういいや」ってことだと、私には思える。

そんな相手のことをいちいち思い出して何度もムカムカするのは、疲れた。

相手はゆがんだ発想により、私のことをもっと知りたかったのだ。

私が相談しに行った警察の人も、「本来、人が人を好きになる、ということを、

警察は止められないんですけどね……」という本音をボソッと漏らしてくれたのだが、

まあ、犯罪に至らない限り、実際そうなんだろうと思う。

もし犯罪に至ったところで、「もうその人のことをあきらめなさい!」って、

警察が、気持ちを変えるための仕事をするわけではない。その「行動」を抑止するだけなのだ。

しかも「犯罪に至ってから」ね。悲しいことに。

そう、つまりは、そのゆがんだ認識と発想を「本人が」自分で変えない限り、どうしようもないのだ。

そしてそれを、私がどうこうして「あげる」筋合いのものでもない。

だから私は、「もう、いいや」と思った。

そういうことが過去にあった。嫌な思いをした。でも、これからも道はのんびり歩きたい(当たり前だ)。

過去のことなんだから、もう、いいや、と。

そういう感覚……自分のなかの「暗い思い出」を過去のものとして、流してしまうこと。

一気には流せないだろうと思うけれど、思い出す必要がなくなった、と、「私自身が」徐々に、

切り替えていけば、いいんだと。

そんなふうに視点を変えることは、相手を「ゆるしてあげる」ってことではなく、

自分が自分に「優しくなってあげる」ことだと、私には、思える。

もう最近は、思い出すこともかなり減ったし(悲しいかな、ときに必要以上の緊張をすることはあるけど)、

相手のことも「かわいそうに……愛を求めても、その認識と発想じゃ、この先も無理だろうな……」と

冷静に、他人事として(いや、実際に他人事なんだけど)、みつめられるようにはなった。

自分の例を挙げて説明してみたけれど、私は「ゆるす」ということを、

そういう感じに捉えてる……ということが少しでも、伝わるだろうか。

すべての嫌な思い出で、こうした捉え方をするこはできない! 

と思う人もいるかもしれないけれど、

少なくとも徐々に、「自分に優しくなってあげる」ということは、

してあげてもいいんじゃないか、と感じている次第である。

他人と自分 ~番外編~

私がAmebaで読者登録している方々の4つのブログが、みごとに今日、人と自分についての話で、

これって本当に必要な視点だよな、と思えるので、それらをご紹介する。

ただ、自分の文章ではないので、「番外編」とつけさせていただく。

自分はどこまで、人との違い、その人自身の個性を許し、認められるか。

その際、自分自身のこと、立場や気持ちはどう捉えればいいのか。

そんな話である。

ひとつめ。

個性を認めるっていうのは、米国型などと言われるように「私はこうよ!」と

自己主張して相手に(ある意味、無理矢理)認めさせることではない。

その人が周囲と「違っていてもいい」ことを、素直に捉える、という話なのである。

日本だって、落語に出てくる八兵衛や熊公は、

限りなく「ダメ」で「使えないヤツ」で「うっかりもの」だったりする。

でも長屋のみんなは「そこが面白い」と捉えるからこそ、

「あいつは粗忽モノだからよぅ~」なんて言いつつ、手を貸し、面倒をみるのである。

少なくともそれを笑って聞ける土壌は、もともと、日本にはずっとあるはずなのだ。

●日本メンタルヘルス協会 衛藤信之のつぶやき

「変わり者には病名を?」

http://ameblo.jp/n-etoh/entry-10940014875.html

じゃあ、相手のことをそのように思うとき、自分自身についてはどうか。

まずは謙虚さ。そして「その人のため」でなく、「自分のため」に、嫌な思い出を解放すること。

解放については、スピにまつわるカードの話で書かれているけれど、これって別に宗教観ではなく、

自分自身の気持ちの持ち方、捉え方なのだと思える。

●武田双雲 オフィシャルブログ  書の力

「本当の謙虚とは。」

http://ameblo.jp/souun/entry-10939216509.html

それを少しシビアに、直接的に表現すると……。

●心理カウンセラー 心屋仁之助 公式ブログ  心が、風に、なる。

「めんどくさい女(男)を簡単に言うと」

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-10939853971.html

さらに、それでもなお、他人から受けた傷で、痛んでいる気持ちを解放するには、

相手ではなく、自分の気持ちのほうに焦点を当てること。

人をゆるそうと思うより、ずっと優しいし、実際、易しい。

●愛と魔法を現実に☆癒羽  ミラーカウンセリング☆魂の伝言

「☆ゆるし☆7/1のカード」

http://ameblo.jp/healingspaceyou/entry-10937320941.html

これらに書かれたようなことは、そう簡単にはできない?

でも、心が痛んでいるということは、今まさに、自分自身の「受け止め方」も「視点」も、

変えるきっかけにできるときなのだ。

人によって感じ方は違うから、簡単じゃない部分があっても別にいい。

少なくとも「切り替え方」のひとつの例、だと思えればいいのだ。

このように偶然ながら、まるで誰かが揃えてまとめてくれたかのように感じられるメッセージが

ときおり、届くんだよね……。

あなたは全然ダメじゃないし、人のつらさや痛みもわかるようになっていけるし、

これらに書かれた話も、少しはうなずけるようになっているはず。

鬱という病を経るからこそ、いいほうにも変われるってことを、少しだけでも理解していただければ幸いだ。