カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

「嫌い」とか、「ソリが合わない」と思う人

私にもまさに、タイトルのように感じる人がいる。

それを思い出したのは昨日だったが(笑)、なんだか「会いたくない」と思っているのだ。

たまたま会う機会を、私がみずからつくることになるかもしれない、となったときに

突如、自分のなかに「あ、今はまだ、彼女と会うのが面倒くさい……」という気持ちが湧いた。

別に大嫌い、というわけではない。そもそも、それほどよく知っているわけでもない。

最初に会ったときの彼女の話しぶりや振る舞い、彼女が書いているブログ、

その他、人から聞いた話などで、私の中にある種の「イメージ」ができていて、

うーん、あんまりお近づきにはなりたくない……と、思っていた。

で、結構、拒否してたんだなあ、と気づいて、どうしてだろう、と思った。

いろいろ、思い出したり紙に書いたりして整理していったのだが、

「こういうタイプの人がもともと苦手」で「何かと気を遣わせられる」し

「本人はそういうこと、気づいてない」ところが、わずらわしいと感じるよう。

そのあたりで、私が線を引いちゃっていた、と。

長い時間一緒にいて、彼女の他の面を見たこともないので、余計に

「感覚的に苦手」になってるんだな、と思った。それが全部、ではないかもしれないのにね。

まあ、だから、色眼鏡で相手を見ているようで、申し訳ないとも思える。

が、すでにそう感じている相手とちゃんと話してみよう、向き合ってみようとするのは、

それなりの決意と肚づもりも必要だと思った。理性ではなく、感情的に「うっ」と引いてしまうかもしれない。

今回の「機会」というのは、もっとゆるやかな楽しいものだったので、

うーん、そんな機会にそんな覚悟をするのもなあ(^^;) と思って、会うのはやめることにした。

相手の問題は相手の問題、自分が解決してあげなくちゃいけないものではない。

そう思って冷静になる練習をしている私にとっては、

「そうか、まだそう思うための練習をする相手がいたね」、という発見のような気もした。

彼女のほうもいろいろあって会う機会がほとんどなくなっていたため、正直、忘れていたのだ。

そしてさらに「面倒だなあ」と、感じること自体も「なんかいちいち自分が反応してるのが、それこそ面倒だ」と思えた。

趣味的な仲間の1人ではあるので、いつかどこかでまた、会うこともあるかもしれない。

そのたびに毎回「あ……、そうか、会うのか」と憂鬱に感じたりするのが、単純に邪魔くさいのだ(笑)

実際、「他人の問題は……」の視点が少しずつできるようになって以来、

人に対して、感情的に反応することも多少は減ってきていて、自分自身がすごく楽なのだ。

怒りに耐える必要も、場を読んでこらえる必要もなく、別に相手をいさめる必要もない。

それでもって、自分はイライラしなくて済んでいるのだ。

しかも本当に何か、「それは違う」と告げなくちゃいけないときは、冷静。

結構な割合で、感情的にならずに告げられる。

たとえば「それはこういうことなの?」って、質問のように尋ねられたりね。空気をはかる、というのかな。

ムダに、というか、むやみに感情的に反応しないで、落ち着いて対処できるのは、

自分が楽でいられる秘訣なんだなあ、と、少しずつ、実感してはきていたのだ。

で、彼女に対しては、苦手と感じる部分も少しは整理できたので、

いつか、彼女ときちんと会ったときに、自分で冷静にみてみる練習をしたいと思う。

それこそちゃんと意識して、彼女の別の面も探してみよう、と、自分で思えたときにね。

「それは違う」と思う感情を、なくしたいわけではない。そこまでの悟りを開くのは、かなり大変だろうと思う。

そうした感情を持っても、自分が怒りなどの感情でぶれずにいたいだけだ。

こらえる、のでもなく、見逃す、流す、のでもなく、冷静に。

そうした出来事は「うん、そうか、私はそういうことをNGと感じるんだな」ってわかる機会、

そして落ち着いていられるための練習でもあるんだと。

それが「自分の問題と他人の問題を区別すること」であり「他人の問題に振り回されないこと」なんだと、

今はなんとなく、思えるのだ。

……ま、こうして落ち着いて書けるのも、まだ面と向かい合ってないから、だろうけど(^^;)

徐々にでも、そういうふうになりたいとは思えるので、このことは忘れないようにしたい。

ああ、なんだか今日は、自分の気持ちの暴露話みたいになってしまいました、すみませんm(_ _)m

相手に、気持ちが通じないとき

鬱々とした気分のときに限って……という前提で、この話を進めたいのだが、

誰かとの関係で、どうしたらわかってもらえるのだろう、と、悩むときがある。

いろいろ言葉を尽くしても、言葉尻を捉えられて誤解されてしまったり、

取りつくしまもなく拒否されてしまったり。

とくに、こちらは落ち着いて説明しようとしているのに、相手が怒りを見せて拒否されると

それだけでもう、がっかりする。

自分が悪いと思いあたる点があるなら、素直に真摯にそのことを謝り、

相手の怒りが静まるのを待つこともできるが、

相手の真意を測ろうとしたり、こちらの意図を説明しようとする場合は、

聞いてくれないというだけでもう、疲れ果ててしまうこともあるだろう。

こじれている、とか、相手が意地になっているような状態である。

そうでなくても今、自分は心が苦しい状態にある、という人は、

そうして説明するときにも自分の苦しさが表れてしまわないか、ビクビクしたりもするだろう。

痛んでいる自分に、引け目や負い目を感じていたら、そんな態度もありえる。

そしてその態度を見て、相手は余計にイライラする、なんてことも起こりうるのだ。

で、うまく言葉が通じないと、何をやってもダメ、と自分をさらに卑下したくなったり、

必要以上に相手に失望を感じてしまうことにもなる。

すごく冷静に、客観的にその場面を考えてみた場合。

もしかして、あなたも相手も、どちらもまともに話せる状態ではないということは、あり得ないだろうか。

怒り、怖れ、おびえ、自分かわいさ、などに、それぞれお互いが支配されてしまっていて、

相手の思惑や立場などを「正しく把握できる」状態じゃないってことは、ないだろうか。

普通、冷静に話していても、人と自分の考えた方が違ったり、価値観が違ったりすることはある。

理解できない、納得できないことは「普通に」あるのだ。

それをさらに、そうした感情でこじらせてしまったら、すんなり和解し合うことはかなり難しいだろう。

そんなときにひとつ、言えること。

あなたがその人と本当に和解したいのであれば、「ときを待つ」ことが必要だろうと思う。

あなたは、痛んでいる。相手は、意固地になっている。

そんなときに「相手に届く」言葉をみつける、その言葉を「届くタイミングで」伝える、というのはかなり難しい。

相手の意固地だけならまだ、機嫌のよいときに話せるが、その際、自分が自然体で接することができないと、

その態度によって伝わるものも伝わらない、なんてことも起こりうるのだ。

鬱々とした気持ちなんて、たとえば病にまで達していたら、すぐに治るはずはない、と思うかもしれない。

それも、その通りである。つまりは順番が間違っているということなのだ。

自分が自分のことを嫌いなのに、人に好かれるために和解を求める? あるいは、ご機嫌をとる?

それはどうして? たとえば家族なら、暮らしていくためとか、お金のため?

あるいは、ひとりぼっちが単純にこわい、とか?

お金のためなら、最低限「相手を極力、刺激しない」ようにすればいい。即座に和解まで求めなくてもいいだろう。

ひとりぼっち、というのは、本当は見方を変えればそうではない。

そもそも結婚していたって、あなたと相手は、別の人間である。違いは、必ずある。

友達だって、すでにそのような状態になっている場合は、無理をすると「媚び」と受け取られてしまう。

はっきり、書いてみる。気持ちが痛んでいるからこそ、だけど。

もしかして「相手に認めてもらうことで自分の価値を見つけようとしている」部分は、ないだろうか?

……キツイところを、突いてしまっているかもしれない。

でも、もし「他者によって、自分がいる価値を自分に認める」ことを、多少なりとも求めているのであれば。

そんなことはもう、本当にまったく、しなくていいんだよ、と言いたいのである。

あなたは、自分自身でもっと、自分のことを好きになってあげていいのだ。

こんな私のことを、どうやって好きになれというのだ、と思うかもしれない。

何をやっても今はうまくいかないし、暗いし、立ち直り方もわからないし。

だって、それが「鬱」という病気の、症状なんだもの。

風邪をひいたときに、くしゃみや鼻水が出たり、発熱したり、咳が続くのと同様、

自分を卑下することも、先の見通しがすべて暗い結果に終わることも、病気ゆえの症状である。

自分は今、こんな状態だけれど、そうなっているのは病気ゆえであって、

そんな病気にかかる、弱い自分もいたんだ……と、認めてあげればいいのだ。

弱い自分は、自分のなかに存在する。同様に、本当は強い自分も、自分のなかに存在している。

今は、強いほうは隠れてしまっていて、自分にはみえなくなっているけれど。

少なくとも、自分を卑下したり、ビクビクしたりすることがなくなれば、

あなたは「相手のこと」だけを、きちんと見ることができる。

そうして初めて「どうしてこの人はこんなふうに話を捉えるのだろう」

「何が、この人のなかでこういう“拒否”の態度を取らせるのだろう」というふうに、

相手のことを、冷静に客観視できるのである。

関係がこじれてしまっている相手とは、そうした距離感を保ちながら、話していく必要がある。

和解の糸口を見つけるためには、「自分はいつでも、どんなときでもその自分でよい」というような、

ある種の安心感、自信のようなものが必要なのだ。

……そのように考えたら、今は、和解のために、と無理をしなくていいことも、わかってもらえるだろうか。

何より先に、あなたが、弱い部分をもったあなた自身を許してあげることが、

一番、大切なのである。

そして、弱い自分を認めることは、これから先の自分が「人生で最も強くなる」ための

第一歩であるということも、心のどこかに留め置いてもらえたら、と思う。

弱いことは、強い。この一見、逆説的なことを、頭でなく感覚でわかるようになれば、

人との関係もまた変わっていくし、今のように無理をしなくても、変えていけるのだ。

怒りと憎しみと苦しさの連鎖

タイトルの通り、これらは連鎖する。人との間で、そして自分のなかで。

自分の気持ちが痛んでいると、こうしたマイナス感情は、どんどん自分にダメージを与える。

許せないし、つらいし、そんな自分がイヤになる。

連鎖+相乗効果で、余計に苦しくなるだろう。

自分にとって理不尽なことをされたとき、人は怒る。

それが身に覚えのない、相手の勝手な思い込みだった場合はなおさらだろう。

そう、その部分は、持っていていいのだ。そこまで曲げろ、というのではない。

ただ、今のつらい状態で、それらを連鎖させてしまうことは、自分にとって「苦しい」だけなのだ。

たとえば、言葉の行き違いや勘違いによってそうした感情が生まれたのであれば、

それを「訂正」してみることはやってみる価値があるかもしれない。

こういう考えで、こういうことを、伝えたかったのだと。

でも、怒りの姿勢でそれをやっても、「怒りの雰囲気」が相手に伝わって、

内容でなくただその「態度」によって話がこじれてしまうかもしれない。それではもったいない。

その場合はいったん怒りをおさめ、お互いが静かに話し合える状態に持っていくことが、本当は必要なのだと思う。

怒りがの感情が湧き上がるときに、つい忘れがちになるのが、

あなたにとって、あなたの意見が正しいように、相手にとっても、自分の意見は正しいのだ、ということ。

たとえば意図的に意地悪をする(子どもが構ってほしいがゆえにイタズラをするようなもの)だった場合は、

自分が悪いとわかりつつ、相手はそれをやってしまうわけだが、そのときにも「だって」と、相手は思うだろう。

そんなふうに、原因が「直接的でない」ことも、結構あるのだ。奥のほうに、別の問題を抱えていることが。

家族に虐げられている人が、学校や会社などで他の人に優位性を示そうとするのも、その一つの例である。

「正しい」「正しくない」だけでは、あっさり片付けられない。

人は、いろいろな面を持っていて、一筋縄ではいかないのだ。

であれば、あなたが「怒りに身を任せる」ことは、決して得策とは言えない。

自分を守るため、そのためにこそ、今のタイミングで「言葉が届くか、届かないか」を考え、

届かない場合には「今は無理」と割り切ることも、ときには必要になると思う。

そして「根に持つ」のではなく、相手の問題であるかどうかを「見極める」こと。

相手の問題を「あなたが親切に解決してあげなくちゃいけないのかどうか」を、落ち着いて判断していこう。

直接的に、イジメやセクハラなどの被害にあっている場合は、他に打てる手はないか、考えてみる。

実際、そのマイナスの連鎖を起こしているのは、あなた自身の感情なのだ。

だから少なくとも、自分の受け止め方を変えられれば、その苦しい連鎖は止められる。

自分に対する怒りや憎しみも、また、同じである。

自分を他者のように見てみることで、また、気づける点はあるだろう。

今、この苦しいときだからこそ、どうか、巻き込まれ続けることをSTOPさせる方法を、考えてみてほしい。

そうした「視点」を、探してみてほしいと思う。

憎しみの報復は憎しみしか生まない。その実例は、アメリカに利用されたと恨んだビン・ラディンと

昨日の、「喜ぶ米国人」という姿をみれば、知ることができるだろう。

このようなマイナスの感情の連鎖は、程度の差こそあれ、あなたの周りにも、あなたの中にも起こりうる……。

本当に、それを止めてほしいと思う。変えていけることを、心から願う。