カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

話して分かち合う、ということ

ここで何度か、自分の気持ちを他人に話してほしい、ということを書いている。

その効果は、私もやってみるまで知らなかった。

でも、ビックリするほど、効き目はあった。

私が知らない人たちに向かって初めて自分の暗闇を話したのは、宗教とか自助グループではないのだけれど、

スピ的な観点から、自分を変えていこう、という目的で集まった会……のようなところ。

4回シリーズで、主催してくれたスピリチュアル系のファシリテーターさんがいて、十数名で、

基本的にはお互いのことを打ち明けるような形。そして受け止め、思ったことを言葉にする。

非難せず、ヨイショもせず、真摯に。そういう感じだった。

まさにそのシリーズの間に、私は2人目の知人の死を知り、なんだかもう、どうしたものか訳がわからなくなった。

でもこんな話をまさか、見ず知らずの人に丸ごと全部、打ち明けるなんて……と思い、ファシリテーターさんに

キャンセルするべきかどうかをメールで尋ねたら「大丈夫です。逆に、話してください」と言われた。

みんな、受け止めてくれますよ、と。

実際には半信半疑で、どきどきしながら、2回目のときだったかな? 最後のほうに自分で話し始めた。

冷静に話すつもりが涙もどんどん出始め、ただもう一気に、自分の経験を語っていた。

このときに、参加していた人たちの受け止め方が、すごく温かかったのだ。

近寄り過ぎもせず、突き放したり非難したりもせず、静かに聞いて、もらい泣きしてくれた。

そしてただ「大変だったね」って、視線でうなずいてくれた。

これはその「場」を作り出したファシリテーターさんの力ももちろんある。

そして、たまたまだったのかもしれないけど、またそういうふうに「共感」してくれる人たちがみごとに揃っていた。

自分の身に起こった経験の「何か」に響いてきたよ、とか、つらかったんだね、って、静かに優しく言ってくれて。

そこで話したのは、「確かにある意味、自分は間違ってた」という感情だった。

死にたくなっちゃったんですよ、私、こんなふうに、馬鹿だから……って。

思わず泣いてしまったから、淡々と、でも切々とした感じで、私は訴えたんだと思う。

でも話したあと、自分が、温かくなったのだ。そのときはすでに、死にたいわけではなかったけど、

「馬鹿だよなあ、私」と、自分を優しい目で見られたような、ちょっと荷を降ろしたような、不思議な感じ。

それは「側で真摯に共感してくれた人がいた」からこそ、起こったことだった。

さらに、そこでは誰か、あるいは会への「依存」も発生しなかった。

その会を通じて、私が感じたこと。

人はみんな、それぞれ、いろいろな問題を抱えるんですね。

そして、自分ではどうしようもないと思えるときってあるんですね。

でも、こうして話すことで、気分は軽くなるんですね。

で、もう少しやり方を考え、自分を変えていってみよう、って、自分で感じられるようになるんですね。

人にはそうやって、それぞれの学び方があって、それぞれ自分で、人生の課題を越えていくんですね……。

具体的に、直接的に解決方法が見つかるわけではない。ただ、何か「確かなもの」、

私もきっと、自分で解決できるんだ、いつか……という確信のようなもの、が勝手に生まれていったのだ。

回数を重ねたことで、他の人の心が変化していく様子も見せてもらえたし、

なんだろう、ずっと温かい目で、お互いのことを見守っていた、という感覚があった。

年齢も経歴も生活環境もまったくバラバラだったし、問題点も全員、違っていた。鬱の話も私だけだったしね。

なのに優しくて、支えてくれる会だった。あれは不思議な経験だったな……。

そういう会だとははっきりわからずに、ただ、ファシリテーターさんが現実的な感覚も持っていて、

さらにスピ的、精神世界的な感覚も高いと感じられる人だったので、これって自分に合うかも、と思ったのだ。

ホント、生まれて初めてだったもの、「シェアリング」っていう、自分のことを打ち明ける方式。

それを経験したことによって「自力で解決していけるんだ」ということを初めて確信できた。

こうしたサポートを受けながら、でも、進んでいくのは自分。

たぶん、病院の薬も友人の支えも、時短で働くことも全部、同じようなもの。

そうしたものをサポートとして受け止めながら、私は、自分で変わっていくことができるんだ、と思った。

ただ、分かち合える人がいるだけで。その人たちの変化を、間近に、話として聞くだけで。

共感して聞く、ってこういうことなんだ、答えを引き出せるんだ……と思えた。

その後、鈴木秀子先生というキリスト教のシスターが書かれた「愛と癒しのコミュニオン」という本にも出会った。

それで「アクティブ・リスニング」という、人の話を「共感をもって聞く」やり方を知って、

ああ、知らないうちに、そういうことをあの会でやっていたんだなって、わかったのだ。

分かち合うことでなにがしかのヒントをもらって、自分で自分の変え方を見つけていける方法があるんだと。

その経験があったから、私は、視点を変えられるようになったのかもしれない。

何かが起こったとき、「これはどういうことを、私に学べっていってるのかな」とか、そういう感じ。

誰かとの間に、たとえば問題が起こったとしても、その人がなぜ、そういう発言をしているのか、

この問題の、本当の「奥にある問題点」は何なのか、この人自身の問題は何か、自分の問題は何か。

こうして書いてみても、その奥にある理屈のようなものを、私はうまく表現することはできない。

心理学の専門の方なら、また別の説明方法を知っているかもしれないけれど、

人に話してみること、お互いの話を静かに分かち合うこと、

ただそれだけでも、自分の力に変わっていくんだということが、伝わればいいなと思う。

最後に、鈴木先生の本を紹介しておきます。鈴木先生は、アクティブ・リスニングや自己コーチングを

学ぶ勉強会や通信講座もNPO法人でやっていらっしゃるので、そのご案内も。

愛と癒しのコミュニオン (文春新書 (047))/鈴木 秀子

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「ありがとう」と「ごめんなさい」の言葉(2)

さて、昨日のつづきで、今日は「ごめんなさい」について。

ごめんなさい、すいません、申し訳ありません。

これは、鬱の人が常に抱えてしまっている言葉、と言っても、差し支えないと思う。

家族に、会社に、友人に、社会に、迷惑をかけている、という思いがあるからだ。

こう書くとシビアに聞こえるかもしれないが、病気になった人なら何にせよ、そういう思いを抱く。

風邪を引いて会社を休むときにだって、上司にひと言くらい謝るだろう。

鬱だから特別、という話では、本当はないのだけれど、

この病が治る期限が自分でわからないため、罪悪感をより抱えてしまうのだ。

ただ、自分に「これは病のひとつなんだ」という自覚があれば、まだマシだと思える。

やっかいなのは「そんな自分に変わってしまったんだ」と思うこと。

そう考える人には、「だから、病なんですってば!」と、私は強く主張したい。

性格は、この病気の発症に絶対的な関係ない。強気な人も弱気な人も、なるときはなる。

強いて言えば「真面目、責任感」の強い人よりは「いい加減」(これはいい意味で「よい加減」)な

人のほうがかかりにくいかもしれないが、それでも、絶対にかからない、とは言い切れないだろう。

いずれにせよ「ごめんなさい」は、心の中でその気持ちを抱きやすい分、

鬱の人にとって「ありがとう」よりは口にしやすいだろう。

が、しかし。

そんな、ある意味、卑屈な気持ち(という言い方を、ワザとしますよ)で使っても、効果はない。

想像してみてほしい。自分が子どもだったとしてみて。

クラスに、いつもイジイジと暗い気持ちで、おどおどしているクラスメイトがいる。

何かするたび、その子がちょっとした失敗をしては、ビクッとしながら「ごめんなさい」とつぶやいたとしたら。

そのとき、あなたは軽い苛立ちとともに、「はあ……」というため息しか出てこないのではないだろうか。

だってその段階で、本人がもう、自分をあきらめているのだ。そういう自分を卑下し、人の下に立つように、

上目遣いでこっちに謝ってくるのである。

……気持ちは、決してよくないよね。そういうシチュエーション自体、つらい。

そう、あなたが暗い気持ちで人に謝るときには、そのビクビクした子どもになってしまっているのだ。

あなたは、「自分が自分をあきらめている」ことを、相手に暗に示してしまっている。

相手は、困るだけだろう。

じゃあ、どうしたらいいと思う? あなたは、その子どもに「もっと自分に自信を持とうよ。

いつかは、うまくできるようになるよ」と、言いたくならないだろうか?

私が「病」と言っているのは、同じ意味なのである。

あなたがどう思おうとも、自分の「感じ方・考え方」によってその病にかかったのであれば、

自分で治すことも、またできるのだ。

ただし、病を知らなかったときと同じ状態に戻るのは、ちょっと難しい。

でも知らなかったから、そんな「罠」のような考え方に落ち込んだ、とも言える。

せっかくそういう経験を経て罠を知ったのだから、二度と同じ状態には戻るな、と言いたいくらいだ。

さて、そういう病気のときには、自分が「ごめんなさい」を卑屈に使う可能性があると知ったうえで。

相手に、何らかのお詫びの気持ちを伝えたくなったときは、どうするか。

自分のその「卑屈さ」を、脇に置いてほしいのだ。

お詫びの気持ちは、今の自分の卑屈さとは、本当は関係ない。

そういう病の状態であること、そのものを詫びたくなったとしても、

相手に対して「申し訳ない」と思う気持ちは、卑屈な気持ちからではなく「反省」の意味で使ってほしいのだ。

反省。

わかるだろうか。反省するってことは、やがてその状態から抜け出すことを意味する。

そうなるよう、努力していきます、という気持ちをこめた、静かな心が必要なのだ。

そもそも鬱という病にかかる前なら、謝るときに、自然とそういう使い方をしていたはず。

自分自身で何か、悪いと思ったときに、「もうしません」的な気持ちをこめて、謝っていたはずなのだから。

逆に、うまく謝れないときだってある。

世をすねて、自分のしたことを振り返れないようなとき。悪い気持ちで開き直るとき。

ケンカをして、とにかく怒ってしまっているとき。

本当に相性が悪くて、相手にひどく傷つけられてしまっていて、関係を修復したくないなら、

謝る必要はないこともある。どうしてもどうしても合わない人とは、縁を切ればいいと、個人的には思える。

そうではなく、本当は大好きで、あるいは尊敬していて、その人と縁を切りたくはない、というとき

(あ、ここではあえて「愛」は、はずす。「愛」の形がゆがんでしまう例を知っているから)。

たとえばケンカをしたなら、相手への怒りはとりあえず脇に置き、冷静にやりとりを思い返して、

自分の悪い部分だけを、さっさと謝ってしまおう。

あなたの主張の内容そのものは悪くなくても、言い方が悪かったかもしれない。

決して、追加で自己主張、自己弁護をするのではなく(というか、それはルール違反だからしてはいけない)、

「この部分は、こう受け止めた(またはこういう態度をとった)私が悪かった」

という点「だけ」を(だけ、でいいから)、本気で謝るのである。

怒りにまかせて言い放つのではなく、その部分は落ち着いて、静かに、心をこめて。

そうすることで、自分はなんだか「気が済んだ」ように感じて、言い争いも「過去のこと」にできるのだ。

さらに、逆の立場になってみるとわかるだろう。真摯な気持ちで静かにに謝ってきた相手に対し、

その場で怒り続けるのは、難しくなる。

よっぽどひどいケンカをしたか、相手が自己反省のキライな、自分勝手な人なら、怒り続けるかもしれないけど。

自己反省するかどうかはその人自身の問題だから、はい、それ以上、あなたが関わる必要はない。

とにかく、荒々しい空気は、そこで収まっていくはずだ。

そして真摯に、静かな態度で、反省の気持ちから向き合ってくる人に対峙したとき。

人は、自分自身をもまた、真摯に振り返えざるを得ないのだ。

「ごめんなさい」はそのように使うことで、自分を、相手を、人との関係性を、変えていく。

そういう大きな力を持った言葉なのだ。

自分の心の中で誰かに使うときにも、こうした姿勢を意識してみてほしい。

そして何より、痛めつけてしまう結果になった自分自身に対して、

冷静に、真摯な気持ちで、反省の心を持って、「ごめんなさい」とわびてもらえれば……と思う。

あなたの心の中にいる「おどおどした子ども」を、そうやって優しく抱きしめてあげてほしい。

「ありがとう」は人の心をあたたかくし、「ごめんなさい」は、人を変えていける。

これからの自分は徐々に新しくなっていくのだから、そういうふうに使っていってほしいと、心から願う。

「ありがとう」と「ごめんなさい」の言葉(1)

今日からはタイトル通り、この二つの言葉について書いていこうと思う。

私が鬱になって生きるのをあきらめ、その後、怒濤の勢いで生のほうへ引き戻されていったとき。

まず、亡くなった友と知人たちに、本気で何度も何度も、この言葉を繰り返した。

遺影の前で。遺骨の前で。お墓の前で。心の中で。

鬱のつらさを肌身で知っていたのに何もできなかった自分と、

長の間、連絡もとらないままに急逝してしまった友達への申し訳なさと。

結果として生かしてもらい、その後、本や人との出会いで、考え方を変えていくことができたことに対して。

そうして生きていく間にも、ぶれたり、落ち込んだりしながら、ことあるごとに彼らの死を思い、

ありがとうとごめんなさいを何度も、唱えることになった。

そしてだんだん、その言葉にこめる意味も、感じるものも、使い方も、変わっていった。

まずは、ありがとう、という言葉について。

これは、人には使いまくってかまわないものだと、私には思える。

逆に、そういう機会をみつけては、積極的に声に出してほしい。

自転車の人とすれ違う際、軽く道を譲ってもらったとき。

電車のなかで座席を詰めてもらったとき。

誰かに何かを手渡してもらったとき。

スーパーで、レジの人が袋を配慮してくれたとき(重たいからサイズを変えて2枚くれた、とかね)。

意識するようになると、この言葉を使える場面は本当にたくさん出てくるのだ。

それは家族や、仲のよい友人に対しても同じ。

お茶を入れるなど、何かを用意してくれたとき。

自分を軽く励ましたり、ほめてくれたりしたとき。

何かの話を聞いてもらったとき。

そんなこと、今さら照れくさい、と思う方もいらっしゃるかもしれないが、

逆に、今まで使ってこなかったことのほうが、もったいない。

「感謝」を、重くも軽くも表現できるのが、この「ありがとう」という言葉だからだ。

言い方、伝え方を変えれば、その重さを自在に変えられることは、感覚的にわかると思う。

そしてさらに、イメージしてみてほしい。

ほんの少し、簡単な何かで協力したときに「ありがとう」と、相手から言葉に出して伝えてもらったら、

なんとなく照れながらも、うれしくならないだろうか。

心が、あたたかくならないだろうか。

相手に対して、何か、心地よいものを感じないだろうか。

伝えてくれた小さな感謝の気持ちが、自分をうれしくさせるのである。

そしてたぶん、家族などの身近な人に使ってこなかった場合は、

相手がせっかく言ってくれたときも、聞き流して来たことが多かったのだろうな、と思う。

どんなに恥ずかしがろうが、伝えることには意義がある(「ありがとう」については、

面倒くさいという感覚には、あまりならないで済むと思う)。

先に書いたように、相手と「何かあたたかいもの」が行き来するのは、悪いことではない。

そしてたとえ、行き来が本当にほんの少しだったとしても、あるいは無視されたとしても、

その「あたたかいもの」は、何より、言った本人に沁み込んでくるのだ。

だから本当は、相手の反応がどうあれ、自分のために使っていいのである。

とくに慣れないうちは、言う場面の多さに、ちょっと驚くこともできるだろう。

ああ、なんか意外に、見知らぬ人は親切にしてくれるんだなあ、とか、

こんなふうにいつも、気をつかってくれてたんだ……とか。

心が痛んでいる今なら、なおさら、その事実は自分に沁みてくるはず。

あなたは結構、人からいろいろ、小さくでも協力してもらっているのだ。

そのことに気づいていくと、自分がこれまで見ていた世界が、ほんの少し、色を変えていく。

家族との関係、周囲との関係、その他いろいろな場面で、単純に自分もまた、親切になっていけたりする。

そこからさらに「気づいていく」ものもあって、それは千差万別だろうと思うけれど、

決して、自分にとってマイナスにはならないと思う。

最初は小さな声でもいいから、ぜひ気持ちよく、気前よく使ってみてほしい。

家族に、いぶかしがられたとしても。見知らぬ人に、不思議な顔をされたとしても。

自分を変えていきたいなら、そういうところからもまた、「気づき」を生み出していけるのだ。

「ごめんなさい」については、明日以降に……。