カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

自分の今の「恵まれ度」

昔からの知り合いと、とても久しぶりに、電話で話した。

その人との会話で、言われたこと。

 

「自分の今がどんなふうに恵まれているかに

気づこうともしない人とつきあうのは、

友情でも愛情でも、私は必ずイヤになる自信があるよ。

だってその人は何かを『当たり前』と思い始めた瞬間、

絶対に「あれをやってもらえない」「これをわかってくれない」「どうして」

ばっかり言い始めるはずだから。

 

ふだんから、自分がどれくらい恵まれているかを見ようとしない人は、

人との関係でも、せっかく良好に始まったところで、

その良好さに慣れて当たり前になったとたん、

またそれを見なくなる、見えなくなる、の繰り返しなの。

 

で、相手の悪い点ばかり見つけては

私を怒らせるなんて、とか、不安にさせるなんて、って文句を言うの。

最初に感じた良さは当たり前だからね、もう。

 

そんな『不満しか見ない人』って、

自分の悪口も言いまくるし、

すぐに「私はまだまだ」とか言うし。

 

要は、何か、悪い点を見つけて責めるのが好きなのよ、

自分に対しても、相手に対しても、世間に対しても。

「悪いと感じること」に対する

自分のアンテナには、超絶なる信頼、

絶対的自信がある! と、周りに向かって

言い放ってるようなものだよね。

 

ふーん、あなた、自分や他人をそこまで悪く

評価・判断、決めつけできるって、何様よ?

って思うの。日本に住んでいながら。

 

ものすごくイライラするから、そういう人って、

その手の匂いがしただけで、近寄りたくなくなる」

 

……過激だなあ、と思う半面、

過去の自分の『ある部分』も言い当てられた感があり(^0^; )

 

うひゃー、恥ずかしい、そうそう、悪いほうへ自信満々でしたわ、

自分に対して、と、振り返ってしまったのでした。

 

恵まれ具合って、見方を変えれば確かに、

大量に見つかるんだよね。

見方を知って、気づけば気づくほど、

さらに他のありがたさにも、ますます気づいていける仕組み。

 

それを常にやっていて、いろいろ感謝している人から見れば、

自分や他人のことを

「できない」「無理」「あそこがダメ」「だからダメ」等しか言わない人って、

負の世界における裸の王様』チーム

負の意味での井の中の蛙』チーム

にしっかり、所属しているそうです。自分から選んで。

 

痛い痛い。はい、ええ、確かにそう。

たとえ何かがうまくできても、

自分のレベルはまだまだ、としか思ってませんでした。

マイナス面はひたすら自己罵倒してました、やがては死にたくなるほど。

ああ、マイナスチーム好きだった……。なんか恥ずかしい。

 

久しぶりに、喝を、活を、入れていただけた気分。

感謝ですm(_ _)m☆

 

2015_10_15

Photo by Tambako the Jaguar
ID:201401031000
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

「俺はね、こう思うよ」と表現できること

私が今、働いている職場の、上司に対して

この人は他者の意見を聞く「用意」をしているな、と思えるのが

タイトルの「俺はね、こう思うよ」という言葉である。

 

この表現は、私がブログを書くときに、

とても気をつけるようになったことでもある。

 

私には、私の感じる「こうしたらいいんじゃないか」という思いがある。

でもそれは「私が感じること」であって、

他者にも『当てはまるかどうか』はわからない。

 

ましてや、こんな「心の内側のこと」を表現しようとしているから

それこそ、それを『正しいかどうか』で言えば、

100人いたら100通りの答えがあるのだということを、

鬱の間に、事例としてたくさん見させてもらった。

 

ゆえに、私は意識的に「ああ、これは私の意見だよな」ということを

ふまえて話せるようになってきていると自分では感じているし、

それもあって「人当たりの良さ」(笑)という評価も、

いただけているのだろうと思う。

 

つまりね、この「自分はこう思う」という言葉を『口に出す』ためには、

2つの覚悟が必要なんだろうと、私は思えるのだ。

 

ひとつめは

「私はこう感じる人間である」ということを、

自分が一方的に他人に押しつけるつもりはない、

と自覚できること。

 

私の意見はあくまで『私個人』の感覚。

だから、はっきりとした表現を使って伝えるような場合であっても、

あくまで『自分が、個人的に、こうだと思った』ということを

意識しながら伝えられるかどうかで、

口調がはっきり、変わってくるように感じる。

 

「これは○○○○だから△△でしょうが!」と表現すれば、

受け止める側に「押しつけ」と受け止められる場合があるけれど。

 

「これは○○○○だから△△だと、私は、そう思うんだよね」

って言われたら、それは「この人個人の『主張』だな」ってことが

ニュアンスとして、伝わるよね?

柔らかくなるというか、押しつけにはならないで済むというか。

 

そういう自覚を自分が持てるかどうか、

そういう視点に立って「他者はどう感じるだろうか」の部分もまた、

拒否せず「待てる」ような感覚を、持てるかどうか。

 

その幅というか余白をつくる覚悟、みたいなものを

自分で持っていないと、言えない言葉なのかも、と思う。

 

もうひとつは、

「自分がこういう考えを持つ人間である」

ということを明かす覚悟。

 

こちらはね、比べてみたらもっとわかりやすいと思う。

「これは○○○○だから、あの、△△なんじゃ……」という表現より

「これは○○○○だから△△だと、私は、そう思うんだよね」

というほうが「主張」として強いよね。

自分の意見を、きちんと伝えているニュアンスが届く。

 

「自分は、こういう考えを持つ人間」だと、

『自分に許可』しているから

「自分はそう思うんだ」と、伝えられる。

 

で、本来、自分がそう感じるっていうことは、

何より先に、自分で自分に「許可」していいのだと、

私は思っている。

なぜならそれは、たいていの場合、

その人自身の「個性」や「感性」だから。

 

さらに1対1の間柄だったら「相性」も関係するかもしれないよね。

同じことをAさんがBさんに言っても、Bさんは悪く受け止めないけれど

CさんがBさんに言うと、Bさんは悪く受け止める、みたいなこともありうる。

 

でもそれはCさんが悪くてAさんが良い、という話ではなく

あくまでBさん側の感性。

他にいろいろな情報や感情が、Bさんの内側にたくさんくっついているから、

Aさんに対しての態度とBさんに対しての態度が変わる。

 

もっと言ってしまえば、そういう情報をたくさんくっつけることにより、

Bさんが「同じことを言われているのに、相手によって

受け止め方……つまり気分を変える」のであれば

それは、Bさん側の何かの「問題」が関わっていたりもする。

 

はい、だからそこは「知らんがな」の世界ですね。

AさんやCさん側の問題ではない部分も、きっといろいろあるだろうと。

 

相手の問題は、相手に任せてよいのです。

そこまで配慮してあげて、遠慮して「△△なんじゃ……」ってやっても、

Bさんにはそれ、伝わらないよ。

 

相手の問題は相手に任せて、

自分はこう感じる人間、ということを伝える覚悟をすれば

「私はこう思うんだよね」って、付け足せるようになるよ。

 

たぶんね、自己主張が強すぎる(押しつける)場合も

弱すぎる(遠慮する)場合も、その裏には

「私を認めてほしい」

の気持ちが、がっちり、くっついているのだろうと思う。

 

認めてくれるかどうかは、相手側の感性であり、

相手側の問題も大いにからんでいたりする。

そこをごり押ししたり、おびえたりするから、

「伝えたい内容」以外のところで、おかしなことになるのだと。

 

私はこれまでの人生で、ある意味、主張し合わないといけない関係、

というか「強く主張しないと、うまくやっていけない」環境下で、

つまりそうするのが「よいこと」と信じて育ち、

でもそこに「私の感じることを認められたい」がくっついていたから、

伝えたいこと以外の部分でややこしい事態を何度も経験し……

(あ、大ゲンカに至って決別、ってところまでは、

ほとんどの場合、進んでないよ。ただ方向としてはそんな感じってこと)。

なんかこれ、違うな、おかしいな、と思っている間に、

別の部分の問題から鬱になって……。

 

そこで『自分で自分がまったく信じられない』という事態に陥って、

やっと、初めて「自己主張」と「わがまま・押しつけ」の違い、

自分がどんな育ち方をしていたのか、の客観視、

あらためて「私はこう思うんだよね」と言っていいこと、

でもそれを言うのは「覚悟」がいるんだってこと、等々を

学んできたクチです。

 

うちの上司がどういう過程を通って「それはこうだと俺は思うよ」って言葉を

身につけたかはわからないけれど、

彼も彼なりに何らかの、そういう経過と練習を積んできたんだろうな、

ということは、やり取りからはっきり感じられる。

なので仕事を進めるうえで、お互いに安心して

「これは△△じゃないか」をぶつけられて、話し合えるのである。

 

そういう方が直属になってくれたことは、

アウェーの身(笑)としてはありがたい限り。

さらにもう一人のお偉いさんも「受け止める幅」を持っておられる方なので、

私の「異業種での経験」を使ってほしいと感じてくださっている

(ゆるい、というのは、そういう意味では素晴らしいね)。

 

ということで、根本的な感覚として

「女性というのは、守ってあげるもの、という愛玩物」

が主流の業界、ある意味、不思議な男尊女卑が成立しているという

「気持ち悪さ」もまた、感じる職場であるにも関わらず(笑)!

ふだんから私も「自分はこう思う」を使うことができ、

認められたい、わかってほしい、という部分にはこだわりすぎずに

『伝える覚悟』と『受け止める覚悟』の両方、

そのバランスの取り具合を日々、練習させてもらえていると思える。

そう、もちろん私も、まだまだ練習が必要なのだ(^▽^;)

だからその部分では今の職場に、すごく感謝しているm(_ _)m☆

 

2015_10_10

Photo by Gadini
Pixabay

 

自分の「奥の意図」に意識を向ける練習

聖人君子になれ、という意味ではない、

そこは最初に明言してから、今日の記事を書きます。

 

まず、前にご紹介したこの記事をもう一度、読んでみてほしい。

Facebookですが、ログインしなくても読めます。

相手が「何を思って」そのひどい言動をしているか、

推測をしている部分に、しっかり注目してね。

 

◎古宮 昇さん

 

心理療法家であれば、ここで「相手に寄り添う」わけだけれど、

ふだんの暮らしのなかで「ひどい言動をする人」の心の中身を

ここまでたくさん、推測する必要はまあ、まず、ないよね。

 

ただ、相手が「何を思って」その、あなたにとって

「ひどい」と感じられる言動をしているのか。

その相手の意図は、あなたの「想像外のところ」という可能性だって、

あるわけで。そう、心屋さんもよく、

「なぜこんなに」という質問に対して

「知らんがな」っておっしゃいますが、まさにそれ。

知っているのは本人だけ、というか、

ここで挙がっている例では、本人だって、

その意図に気づいていない可能性がある。

 

それをあなたが「なぜこんな」って、どんなに考えたって、

正確にその意図をつかむのは、難しいでしょう?

どうしてもその意図を探したい場合、その目的は

「相手のことを正す」ために、ってことも多いはず。

 

じゃあなぜ、相手のそれを私は「正したいのか?」

自問自答してみて。答え、すぐに見つかるかな?

 

たとえば私のほうが正しいのよ! って叫びたいために、

相手の意図を探ってない?

これもまた、詳しく正確に言えば

「私のほうが正しいってことを、理解しなさいよ」であり

つまりは「私の言うことが間違ってないと、

私が良いと、誰か認めて!」でもある。

あ、責めてないよ、可能性としてありうる、っていう意味ね。

 

誰か(相手)に、実はそんなことを叫んでしまっているのかもしれない。

相手は相手の問題でいっぱいいっぱいで、だからこそ

こちらに「ひどい」と感じさせるような言動をしてくる。そのとき

あなたはそれに対して「私が良いって認めてよ!」という要求をかぶせる。

 

ずれてるよね? これ。お互いの意図が。

「ずれ」ているってことは、わかるよね?

そんな「斜め上からの、あなた側の要求」をそこにかぶせても、

相手に通じないこと、結構、ありそうだよね?

 

あなたが「自分は間違っていない!」と言うとき、

あなたは「私はこのように感じる人間なんだ」ってことを、

認識しているでしょう?

じゃあ、それでいいじゃない。

堂々と胸張って、そう感じる自分を、

自分がいちばん先に

それでいい

って認めてあげれば。

 

なぜ、誰かに「承認」させないと、気が済まないのかな。

そのために相手側の問題を使ってるんだよね?

だったら、こちらのことを認めてもらうためにも、

ちゃんと、相手の気持ちの「元にあるもの」に対しても、

寄り添う覚悟は自分に必要になってくるよね。

 

「ずれ」を修正していく必要、あるもの。

もちろん「自分のことをよいと認めてほしい」と感じている、

その自分の内側にも、きちんと目を向けつつね。

 

実際、そこまでするのって、本当に自分自身の覚悟がいるし、

感情をかぶせないって、かなり、たいへんなことなんだよ。

そもそもその寄り添いも、相手側が望んでいなければできないし。

だからこそカウンセラーという職業が成り立つほど、覚悟が必要。

 

そういうことは面倒だからと全部、吹っ飛ばして、

イヤなことをする相手へ「自分を認めさせる」ってことに

あなたが固執すればするほど、ずれが大きくなったりして、

あなたがさらに、イヤな思いをするわけでしょう?

 

自分で「これでよい」って思い定められないの、なぜだろうね?

相手から、あるいはせめて別の人に承認をもらわないと、

自分が落ち着けないのはなぜだろうね?

それこそ、何を要求してるんだって話。

 

このときにさ。

『自分が自分のこと、整理したい』から、

自分が、自分を「これでよい」と確信したいから、

「吐かせてほしい」って他の誰かに頼むのであれば。

それはね、

『愚痴をきっかけにした、自分の気持ちの発見ツール』

に変えられるよ。すごくいいきっかけにできると思える。

 

でも、そうではなくて「あの相手が認めてくれない」から

代わりに他の人に「良いと認めてもらい、ほめてもらいたい」であれば

その訴えられる他の人のほうにも、ときと場合によっては

「え? 自分のことしか考えないの?」って

受け止められてしまう可能性もあるよ。

 

自分が自分の感覚を「よい」と思っていいこと、

でもそれは「他者の承認」が必要なことでもなく

ましてや誰かに「認めてよ」って訴えなくてもよいってこと。

 

そこを練習してみるのって、すごく大切だと思う。

練習していけば、この先、

誰かから「その人自身の問題」を

あなたのほうに投げかけられてきても

そんなの、知らんがな

って言えるようになる。

そして自分は相手からの要求(怒りはかなりの確率で「要求」だ)、

引きずらなくて済むようになるからラクだよ。

 

これは傍から見れば「自信」とも映るかもしれないけれど、

実は、人と自分は「違う」んだってことを、自分が認識する練習。

それでいいのだと、知っていく練習。

違っていて当然だよね、別の人間だから。

苦しさから離れたいからこそ、冷静になる、ってことでもある。

 

誰かを正すとか、認めてって叫ぶ前に、

自分のその奥の意図を見つけて、なぜそうなるのかを見つけて、

そこを解放してあげようよ。

そういうツールとして、その苦しさを使えるよ。

自分の『奥にあるもの』を探す覚悟は確かに必要だけれど、

苦しいときってある意味、「すごくいいチャンス」だと、私には思えるよ。

 

2015_09_26

Photo by mksn
Pixabay