カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

相手に伝える前に、できること

先週からなぜか、「自分を勝手に整えていく期間」が始まっているため、

ブログ更新が滞っていてすみません。

もしかしたら更新がゆっくりになるかもしれないし、

また、毎日書くかもしれません。

私も、私なりに日々、試行錯誤しているのです(重たい意味でなく)。

 

ですので本日はさくっと、他の方々の記事や意見を紹介させていただきます。

 

私がここでいつもお伝えしている、

「自分で自分の視点を変えてみる」こと。

その練習になるかな、と思えたものを、3本です。

 

たとえば、腹立ちや怒りや苦しみや悲しみを、単純にそのまま

「おまえのせいだ!」と投げつける前に。

いきなり伝えるより、先にまずね、

その感情や気持ちを、自分のために「使ってみる」ことができます。

伝えたい感情を整理して、大切なポイントも見つけられます。

だから思いを、成り行きで相手への言葉に「変換する」より前に、

まずは自分に問いかけて、できれば紙にでも、書き出してみてください。

◎大塚彩子さん
『まわりの人に責められてる! って思ったら、自分が自分のこと責めてるんじゃない? 』
http://ow.ly/Sdmfh

 

そして、自分の最終的な目的「なぜそれを私は、

この人に伝えようとしているのか」も、見つめてみてはいかが?

◎さとうみつろうさん
『最終承認者は、誰か?』  
http://amba.to/1XV5f1V

 

こうした「捉え直し」って、別に、感情が高ぶっている人に限らず、大切です。

冷静だと思えている、支えている側の立場、の方も同じです。

 

公的にでも、プライベートでも。たとえば友人からの相談でもね、

そこに、何を見るのか、なのです。

フェイスブックで見つけて「そうだな」と思えたものをご紹介しますね。

支える側のあなたが見つめるべき「相手のポイント」って、

本当にそこなの? という、心理学の専門家の方の言葉です。

 

◎古宮 昇さん

自分が何を伝え、それによって何を得ようと(変えようと)しているか。

他者との関わりは、自分を知るきっかけ。

少なくとも、そこに「優劣」や「正義と悪の明確化」を求めているなら、

あなたのその視点は、必ずあなたにとって、

大切な気づきとなるものを含んでいると、

今の私には思える次第です。

 

相手に自分の気持ちを伝えることは、もちろん、大切です。

でも、じゃあ本当に自分は「何を」伝えようとしているのだろうね。

ステキな方々の、それぞれの表現から、

そんなことを改めて、捉えるきっかけにしていただければ、ありがたいです。

 

ゆっくり、少しずつでもいいから、練習していけますように。

そしてあなたが少しずつでも、緩やかに開いて……咲いていけますように。

 

2015_09_15

Photo by irenne56
Pixabay

 

あんなことがあったから……

あんなことがあったから

あんな目に遭ったから

あんなことをしたのだから

 
ゆえに

私は 幸せになっては「いけない」とか 

私は 幸せになれないに「決まっている」とか

また絶対 あんなことになるに「違いない」とか

 
それって全部 過去の記憶から自分が「そう信じることにした」だけの話だよね

 
過去の記憶というのはあくまでも

「そのとき それ自体を 自分が こう解釈した」

という 話なのだけれど それを

絶対

だと思い込むことに決めたんだよね?

そういう方向を選んだのは まぎれもなく 自分だよ

 
寝たきりであっても 毎日幸せで 感謝にあふれてもいいし

ホスピスにいても 心穏やかで うれしさを感じてもいい

 
そういう人と 実際に 私は 話をさせてもらったから

今を見て その今の自分を どう解釈するか は 

自分が選んでいいのだと 思えている

 
私ね 星野富弘さんの画集を いちばん最初に見たときのこと

今でも 覚えてるのよ

 
その画集の表紙には 車いす生活の話などは 何も書かれてはおらず

ただ「星野富弘の画集である」と わかるだけ の体裁だったの

 
私は あの 素朴な絵のなかに 力強さを感じて

「へえ 絵手紙かな なんか気になる……」と思って 

その画集を 手に取ったのだ

 
言いたいこと 伝わるかな?

自分が惹かれるものには 普通に 勝手に 惹かれるの 

自分の「感覚」と彼の「車いす」には 何も関係などないのよ

 
ましてや

今の自分

を表すのに あなたの背景も過去も 別に必要ないのよ?

それこそ あなたの容姿や性格のことさえ 関係ない

 
今を 自分が どう感じて それを 自分で どう解釈して どう扱うか

すべては それの 連続であるだけ

 
「あなたが見る」世界は あなたが「そう解釈してる」んでしょう?

そのことは なんとなく わかるよね?

あなたが「好きだな」と感じる あなたが「嫌いだわ」と感じる

あなたが心地よい あなたが気分悪い

そういうのを感じて そう解釈してるよね? 

周囲の人を 社会を 自分を

  
そして それに基づいて 自分の行動もまた決まるよね?

 
ならば 行動の前に 解釈の仕方を 変えることも可能なのよ

そこが変われば 行動なんてそれに基づくから 変わるのよ 勝手に

 
過去をつなげて 過去を積み重ねて そこを基準にして

批判して 非難して 罵倒して

過去の自分を 延々 自分にとって悪いほうへ 利用する

 
そういう「解釈の仕方」をすることが辛いなら

その「仕方」そのものを 別にやめていいんだよ?

過去の記憶と 今の自分を 自分でわざわざ 

苦しむために つなげなくても いいんだよ?

 
背景なんて 別になくても 他者には「届け」られるし 

その気になれば つながれるよ?

 
あなたが過去の自分を 今の自分につなげるからこそ

他者と なんとかかんとか もにゃもにゃするの

うまくいかないと許されないとか ダメだとか

心がさみしすぎて狂いそうとか 

それさ もうまるで 「贖罪」だよね

 
「過去のひどさを 帳消しにしたいがゆえの 何らかの 代理のもの」

を 求めようとしてしまうのかもよ?

 
他者と信頼しあって つながるのに 過去は いらない

だって記憶喪失の人だって 苦しい面は持ち続けながら

それでも 幸せになっていいでしょう? 

それとも 完璧な状態じゃないと「ダメ」なの?

 
つながるのは 今 目の前だし 構築していくのも 今から「先」なのだから

あなたが 今 先に 自分を 自分の解釈を 変えていいのよ……?

苦しい思いをしたからこそ その過去を わざわざ自分から選んで

自分につなげなくても いい

 
私が言っていること 難しかったらごめんね

必要な方に 必要な言葉が 届きますように

 

2015_08_17  
Photo credit: Lotus Bud / 蓮(ハス)の蕾(つぼみ)
via photopin (license)

 

「違い」と「間違い」

違い と間違い

これって文字は 同じだけれど

意味は 全然違うよね

 
間違いの反対語は「正解」で

違いの反対語って「同じ」だよね 

間違い と 正解 の間には はっきりと溝があるけれど

違い と 同じ の間は 「似ている」という段差などもあって

性質がもう 全然 別ものなのだ

 
そして 自分を卑下する人に見られるのが

他者との意見の違いを

それは単なる 違い なのに

どっちが正解で どっちが間違いか

というところに 持っていってしまうことだ

たとえ相手が プンプン怒りながら

「それは違うわよ!」と言ってきたとしても

うん あなたと私は そのことについて

確かに違いを持っているね

と 同意できる話なのよ ホントはね

 
まあ 怒っている相手はそれこそ『間違い』のニュアンスで

違う! と言ってるわけだろうけれど

そうだよねって 違いを認めてしまえば

こっちは別に 怒らなくても

または落ち込まなくても いいのよ……

 
わかるかな

他者と 自分が違うこと

それを ダメとか いいとか

良し悪しにまで つなげて捉えるのは

自分自身が 選択してるんだってこと

 
たとえ相手が「間違いだ!」と叫んだとしても

それはその人の価値観における良し悪しであって

あなたが完全に同意しなければいけない なんてルールは

たいていの場合 本当には そこには存在していない

 
なのにどっちが良くて どっちが悪いか 

裁こうとするのは あなたもまた 自分で選んでやっているんだよ

裁こうとしてくる相手が目の前にいたって 

それはその相手の価値観でやっているのだから

 
ああ そこは あなたと私で違うのね 

 
ってことなのよ

どちらがより良いかなんて 

対峙する相手によっても その都度 変わるんじゃない?

 
ふーん そう思うなら こういうときにはこうしてね

私は私で こうするわ

で おしまいにしたって よかったりするよ?

 
それを 良いだの 悪いだの

私はまた『間違って』しまっただの

相手が『ひどすぎる』だの

良し悪し 怒り 被害 いろいろなものをくっつけて

自己の自信喪失にまでつなげたりもするやり方を

毎回毎回 別に 選ばなくてもいいんじゃないかな?

 
いろいろなものをくっつけまくって

違いを 間違いかどうか にまで変化させるのは

もうやめても いいんじゃないかな?

 
あなたには あなたの捉え方がある

私には 私の捉え方がある

それが大きく隔たっているときは

私は悲しく感じるわ 

私は残念に感じるわ ってことだよ

 
必要なら 折り合いをつけられるようにしてみる

あるいは「似ている」ところまで

お互いが歩み寄ったっていいのだし

(これ 一方的にやるのは無理だよ 感覚的に納得できないと 

自分に嘘をついて 無理させるだけだからね)

 
さらにそこから

そうか 私はこういうことを大切に思うのか

これを大事にしたいんだな って気づきも生まれたりするから

なら 私はそれでいいや それを大切にしよう って 思っていいんだよ?

 
相手を批判して攻撃したり

自分を攻撃して 非難しまくったりするそのパターンって

ときにはそこに

『私が素晴らしいって認めてよ!』

のニュアンスがくっついたりもするからさ 

実はそれ プリーズ 認めて って言いたいだけかもよ?

 
これは私も普段から

気をつけて練習していることなの

間違い ではなくて 違い

そこを意識するだけで 少し自分が穏やかになれたりもするから

よかったら 試してみてください

 
当然のことながら この前提として

相手と私は 違っていてよいのです

一緒じゃないとイヤ! という人は

それこそ 他者を自分の思い通りに

コントロールしたいんだなっていう可能性も含んでいることに

気づいてくださいね

 
あなたが誰かに 思考を強制されたくないのと同様に

他者もあなたに コントロールは別にされたくないだろうと思えますよ

 
その辺は 大人になって

違うことを認めても いいんじゃないかな?

と 自戒も込めつつ 最後にささやいておきますね

 

2015_07_29

Photo by condesign
Pixabay