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誰がコマドリを

マザーグースのなかで、おそらくハンプティ・ダンプティの詩とともに有名であろう

クックロビン(コマドリ)の歌、その最初の節。

 Who killed Cock Robin?

 I, said the Sparrow,

 with my bow and arrow,

 I killed Cock Robin.

 誰が殺した クック・ロビン

 それは私 とスズメが言った

 私の弓と 私の矢羽で

 私が殺した クック・ロビンを

漫画家、萩尾望都さんの和訳が一番シンプルで好きなので

それを引用させていただく(『ポーの一族』より)。

あなたのなかに いたコマドリ

それを ころしたのは スズメ

あなたが後悔している 死んでしまった コマドリ とは何だろう?

あなたのコマドリを ころしてしまった スズメ とは何だろう?

あるいは コマドリ を得ようとして 夢を見ていたのだろうか

それがいればいいのに そうしたら私は 幸せなのに と

現実には コマドリは 今 いない

あなたの手元には 今 いない

あるいは 手に入れようとして 夢見ていただけだった

そのコマドリが いなくなったのは 今 いないのは なぜだろう

また同じようにがんばれば 手に入るのだろうか

いいや スズメが あなたのなかにいる限り

あなたのそばに いる限り 同じやり方をしても また 失うだろう

泥沼のなかに 1本脚で立って いろいろなものをたくさん抱え込んだら 倒れてしまう

それをしたから してきたから あなたは倒れてしまったのだ

ならば泥沼をまず 埋めなくてはいけない そこから自分を 移動させるか

抱え込む前に きちんと地ならしをするか

先に それを やらない限り またいつか 倒れてしまう

時間がないのだ 忙しいのだ とにかくもう 今 立たなければ意味がないのだ

意味がない? 何の? それはどんな おそれ なのだ?

失ったコマドリのことを嘆く時間も 確かに必要である 必要なときもある

でもそれは コマドリを失った自分を哀れみ続け 悲劇の主人公で い続けるためではない

そこから 抜け出すための過程として 今 必要なだけである

ねえ コマドリは もう いないのだ

それなのに あなたのなかに まだ スズメがいるのであれば

まずはそのスズメを 追い払わなくてはいけない

土台から 「新しく」 やり直すしかないのだ

引き続きがんばっていれば 泥沼は 1本脚は 変化するのか?

いいえ

あなたがやめない限り 次のコマドリがやってきても スズメがまた それをころすだろう

スズメそのものを追い払い 土をならし 二本脚でしっかり立って 腰を低くして安定させ

それから 次のコマドリを迎える

あるいは 夢のコマドリではなく 現実のコマドリを迎え入れる

それが決意できるのは それが実行できるのは あなた自身しか いないのだ

もしすでに あなたが スズメの存在に 気づいているのであれば

どうか 土台から見直してほしい

いないものは いない

今 そこから 「新しく始めていい」 のだと 知ってほしい

悲劇の主人公であり続けることを あるいは同じ過ちを繰り返すことを

どうか どうか 選択しないでほしいと願う

スズメを追い払う力はすでに あなたに内包されていることを 知ってほしいと願う

目指すもの

まず先に、一言、お詫びします。

昨日のブログで、ワザと説明を省いて

言葉を記したところが2ヵ所、あります。

ひとつは、

外側の光の服を脱いだとき普通の人に「成り下がる」

と書いた部分、

もうひとつは、思いやりや愛、についての説明でした。

なぜ、成り下がると(カギ括弧をつけてはいますが)

書きっぱなしにしたか。

それは、光の服が大好きな人ほど、この言葉を強く感じて

ドキッとされるだろうと思えたからです。

周りが、というよりご本人が一番、そう感じておられるのです。

恐れとして。

それを、意識して欲しかったのです。

なので、憤慨された方がいたら、どうぞお許しください。

思いやりのほうは、今日の話に回したかったので、

これまたあえて、あっさり書いてそのままにした次第です。

こちらも、言うのは簡単だよ! と思われた方がいたらすみません。

さて、本題。

成り下がる、ことと思いやり。

この2つは、結構リンクしているように、私には思える。

実例を挙げながら、話していこう。

私の知り合いに、ある程度都会的なところから、

田舎の里山にご家族で引っ越しされた方がいる。

まったくの無関係な土地ではなく、親族の旧家のようなところ。

だが、兄弟など直接的な知り合いがいるわけではない土地。

自然の豊かなその場所で、早めにセカンドライフを楽しもうと、

移住されたのである。

が、しかし。

その里山には、問題のあるお爺さんが住んでいた。

その土地の、昔の名士……まあ、権力者だったらしい人(地主か、

地方議員も少しやってたか、そんな話?)で、引退されてからも、

その土地を守ろうと「大義名分」上は考えていたらしい。

知人のご家族は、なぜか彼に敵意をもたれてしまった。

たぶん、彼を敬うような行動を、最初の頃に

知人たちが取らなかったからだとは推測されるが、

そんなの引っ越し後、いきなりわかるはずがない。

しかもそうなるまでの期間はあっという間であり、

彼を知り、話し合う余地も時間もなかったそうなのだ。

まあそういう感じで、お爺さんからの敵視が始まった。

で、このお爺さんは何をしたか。

車の中から、毎日に近い頻度で知人宅を監視したり、

ときには嫌がらせとして、ガラス破片などを

知人の家の前にばらまいたりしたのだ。

やってることは、ほぼストーカー行為に近い。

でも、彼の表面上の意識は、この不審な新参者が

村に悪影響を及ぼさないよう、俺が見張って守らなければ、

という正義である。

そして心の奥底で求めているのは、

俺はこの村の、光輝く名士なのだ!

昔からの住民は皆、それを知っているから

俺を敬っている!(事実は単なる「触らぬ神に祟りナシ」の扱い)、

だからお前達も、俺の威光にひれ伏すべきなのだ!

という、ふんぞり返った傲慢さである。

彼にひれ伏さないから、相手に罰を与えていたのだ。

彼が若き頃、この町を守ろうと最初に決意したときは、

確かに、夢に燃えたかもしれない。

この村を、よくしていこうと。そしていろいろ頑張って、

感謝されることも、もしかしたらあったかもしれない。

彼は、その光輝く服を、たいそう気に入ったのだ。

その立場を退いてからも、村の長老的役目を

果たしたかったのかもしれないのだが。

残念なことにその対立は、彼が亡くなるまで解けなかった。

知人も、周囲の人の及び腰を残念に思いつつ、

自分たちに味方することで実際、その方々にも

迷惑がかかる可能性が高かったため、あきらめた。

あまりにひどい場合には苦情も伝えたりしたが、

基本的には、相手にしないという方法を選んだ。

そこで暮らして生きたかったから。

とても好ましい自然がある土地だったから。

そのお爺さんが亡くなった年、初めて、知人は、その里山の秋の美しさに

心から見とれたそうだ。こんなに美しいとは知らなかった、と。

それほど、緊張の日々だったのだ。

私は知人の気持ちのほうがよりわかるため、

個人的には、こう書きたくはないのだが、

ここから先は、あえて冷静に書いていく。

訳のわからないうちに敵視され、ストーカー的な行為をされたら、

その相手と冷静に話し合い、和解を目指そうと

努力し続けることは難しい。

知人たちも何度か、落ち着いた話し合いにチャレンジして

あきらめたらしいのだが、それはもう、そうなっても

仕方のない話だ。

だからその部分では悲しい、と思う。

ただそれでも、お爺さん、腹を割って話し合いしませんか、

という方向へ、何かをきっかけとして持っていくことは、

本当にまったく、できなかっただろうのだろうか、と。

相手に立ち向かうのではない、苦情を言うだけではない視点。

憐れみ、と書くと語弊があるかもしれないが、

お爺さんの悲しさをひも解く方向。

ホンモノのストーカーにもしそれをやったら、愛情が絡むから

さらに誤解を生む危険もあり、絶対に止めてほしいのだが、

この場合は、そのような視点から働きかけられる可能性は

0パーセントだったのだろうか、とも思うのだ。

現実的には、とても厳しい話だとわかっている。

わかっているから、視点の話として書いている。

実際に直接、お爺さんにやらなくてもいい。

時が経ってから、そのように考えてみることで心が落ち着くのであれば、

いかがでしょう、という提案レベルの話。

たぶん、慈悲、という言葉を使うのが、イメージとしては

一番伝わりやすいかと思う。

そしてお爺さんのほうには。

外側の服を保ちたければ、内面から光を放つことで、

自然に人は、信頼と感謝を寄せてくれるのだということを、

知る機会はなかったのだろうかと。

見張っている時間があるのなら、道で困っている人を探して

淡々と普通に手助けすることだって、できたと思う。

過去の、外側の光の服の思い出に、そんな思いやりがプラスされれば、

あんなに立派で思いやりのある人だからこそ、

やはり名士にふさわしいと、人々は受け止めてくれただろう。

ある意味、最強である。

それはまた、周囲の人も感化していく状況を生み出し、

まさに住民の暮らしやすさ、村の暮らしの向上にもつながっただろう。

そんなチャンスがあったのに、彼は見向きもしなかった。

もちろん、名誉目的の計算された思いやりは、

すぐバケの皮がはがれるから(それをやると名誉どころか、

信用が地に堕ちるだろう)、やめたほうがいい。

でも単純に、発すれば気持ちよく、返ってくればうれしいことを、

お爺さんがみすみす見逃したのはとてもとても、残念である。

今日はこの実例だけで話を終える。

何を受け止められるかは、人によってさまざまだと思うが、

この実例を知ったうえで、自分と、自分の周囲を一度、

見つめ直してみてほしいと願う。

外にまとう光と、内から放つ光

このところ、なんとなく、外側の価値と内側の価値、

というようなことが気になっていて、

このブログでもときどき触れたりしていた。

先日の視点2、の話とかね。

そうしたら、やはり、そういう書物に出会う。

何冊かあったけれど、具体的で物語として面白かった、

宮部みゆきさんの小説の表現を、少しお借りしながら話してみようと思う。

私か読んだのは、最近文庫本となった『英雄の書』上・下巻。

ストーリーはヒロイックファンタジーに分類されるが、

そこはさすがに宮部さん、普通のファンタジーではない。

人が、光輝く英雄になりたい、と思ったとき、

その裏側に必ず影はでき、この2つは離れることはない、

というような視点が含まれている。

外側の、立派なもの。

名誉、地位、財産、偉いと人から思われそうな職業、

いわゆる社会的立場、肩書きはもちろんのこと、

家族内での強い力、友人関係における強さなど。

それを、自分で意識したとき、その裏では必ず、「驕り」(おごり)という

危険性が含まれる。

簡単に言ってしまえば、他人に向かって

「私はエラいんだ!」と力を示したがる危険性である。

それは常に、「他人に示すこと」を目的とする類のもの。

他者と自分を比較し、優劣をつけようとしている印なのだ。

別に、社会的な話に限った話ではない。

正しくありたい、自分のほうが正しいことを世間に証明したい、とか、

私の強さを、素晴らしさを、才能を、周囲に知らしめたい、

人に認めさせたい、と思うことも、驕りに容易につながる。

それを、目の前の家族にやるか、会社でやるか、

もっと大きく社会的にやるか、の差はあっても、

自分のほうが……という思いは同じである。

誰かがそう思ったとき。

それを知った他の誰かが「ああ、そんなやり方をしていいんだ」と知り、

私は私でエラいんだから、それを示していいや、と思ったとき。

正しい、正しい、が、いろいろなところで現れ、

互いに自分のほうを認めさせようと争いが起こる。

その端的な例が秋葉原のあの事件であったり、

世界各地の紛争、人種差別であったりする。

自分の素晴らしさ、正しさを証明するめに、争って戦い、

理解しない人を傷つけていいのである。

だからその争いを収めるため、世の中に法律が存在しているが、

その法律でさえ、解釈はマチマチで、国によっても違うのだ。

他人に示す、英雄的な自分の光。

それは自分の外側の、もうひとつの「服」のようなものだ。

その立場が崩れた瞬間、服が脱げる。例えば地位を失ったりしたら、

その人はとたんに、自分では意図していなかった

服のない普通の人に「成り下がる」。

さらに、思いこみによって人道的倫理観をも超え行動した人は

裁判によって「犯罪者」になりうるのだ。

外側の光の服はそれほどもろく、危うい面をはらむ。

振りかざしてしまった瞬間、光の裏側の闇があっという間に現れ、

光を放っていたはずの服が暗闇の服に変わるのだ。

その一方で、先日も書いた「思いやり」や「親愛的愛情」は、

本来、自分が立派だと思われたいから発するものではない。

本来、と断りを入れなければいけないところが悲しいが、

計算高く自分を演出したい人以外は

普通、自然に現れるものだろう。

これもまた、光のようなものであるが、

人の心をほのかに照らし、あたたかしてくれる、

そういう優しい光だ。

光が強ければ、影も濃い。

輝く服は、輝かせれば輝かせるほど闇が強くなるし、

私たちが太陽本体を直接見られないように、

人にはちょっときつすぎるものとなるかもしれない。

そもそも影があるから、私たちはモノをモノとして認識できる。

真っ白なまばゆい光が部屋中に満ちると影さえ消え、

モノの形はわからなくなる。

それは結局、真っ暗闇と同じことなのだ。

だからね。

影、闇の部分が、自分の中にある、と思える人、

自分が暗いとか、嫌いな面がある人は、

同時に必ず、光も備えているはずなのだ。

あなたが今は、見ていない、見えていないだけで。

弱さが優しさに通じるようなものだ。

驕り高ぶる人が光しか見ていないのとちょうど正反対。

これまた、やっていることは同じなのだ。

でも、ほのかに温かい光なら、それを意図的に強くしない限り

(強くすると影、できちゃうよね…)、

影もまた、薄いままで済む。

しかもそれは、失う心配のあまりないものだ。

つい忘れてしまうことはあっても、上手に使えないときがあっても、

その光の温かさを思い出すこと自体は、大抵の人にできるだろう。

イヤな人に愛を放て、とか言ってるわけではない。

いきなり、そんな難しいことにチャレンジしなくてもいい。

でも周りの人、特に、先に自分がその光を届けてもらった人だったら、

自分もまたやがて、温かい光を返したくなる……。

このことは、わかるだろうと思う。

ということはつまり、あなたがそれを先に放てば、

直接ではなくてもだんだん、温かい光が返ってくるのだ。

それって、うれしいし、幸せな循環になるよね。

自分のなかの、闇だけを見つめないこと。

外側に示す光を求めているのなら、その闇の濃さも心に留めること。

内側から発する光は、本当はなくならず、

地位も名誉も財産も関係ないところで

あなたを幸せにしてくれるということ。

求めるのであれば、外側の光り輝きまくる服、ではなく、

内側の温かい光を放てる機会がより多くなるように、

意識して、求めてほしいと思える。

とくに、自分の暗い闇を見つめている最中の人には、

それを願う次第である。