月別アーカイブ: 2015年3月

出来ていないと自分が捉え それを 数えすぎていて

○○したいのに

△△にならなくちゃいけないのに

□□でありたいのに

って 今の自分の 苦しいところばかりみてさ

なぜこんなに人生は辛いのだろう?

って そりゃ そうならないかな

出来てないことしか

持ってないものしか

数えることをしないなら

視点は 苦しさカウント オンリーになっていくよね

なぜ その視点に『自分が陥るのか』は

どうしても考えたくない?

劣っている自分 その設定自体が

すでに何か 違うという『事実』は

見つめ直そうとは思わない?

そこは触りたくないのよ 怖いから

わかりやすく 自分が持ってないものだけ 見つめたいの

それでね でも本当は 苦しいの イヤなの

という論理展開が

何か ズレているってことは

自分でも 感じられないかな?

真実は 私もそれやってたから 言えるんだけどさ

持ってないと感じられるものを 得ようとして

その向いてる方向は ズレたまま っていうことだけ なんだよ

そりゃまあ それで

どんなに『何かしよう』と もくろんでも

どんなに実際『何とかしよう』と 頑張っても

ずっと ズレたまま だよね

最初のボタンを掛け間違えたまま

そこは触りたくないの!

見たくないの!

って 

最後のボタン(実際に何かしようとする)ところだけ

つじつま 合わせてみようとしたところで

どうやっても いびつな シャツの着方になるよね

何がなんでも 一番上のボタンは 触らないままでいたいという

その怖さもまた わかるけど(鬱ならなおさら そう感じられるしさ)

でも実際に起こっているのは 自分の内側での

単なる ボタンの掛け間違い なんだよ?

まるで 一番上のボタンが

何かの 爆発物であるかのように

思えているかもしれないけれど

いいえ それ 他のところと同じ

『ボタン』ですから 本当に

確かに 飾り用にね まあ

ちょっとだけ 大きかったりは

するかもしれないけれど

そここそがワンポイント 個性を醸し出す

おしゃれな飾りボタンだったりするわけで

自分の一番上のボタンの

デザインや大きさを知ることができたら

もしかして号泣しちゃうくらい

うれしくてステキなものだって

わかること できると思えるんどけどな……

なぜか自分が

一番上のボタンの掛け間違いだけ 完璧に無視してさ

なぜなの?

なぜシャツやコートがいつまで経っても

私はスッキリと着られないの!?

って 言ってるのだとしたら?

ただ それだけだったとしたら?

その掛け間違い 直したくならないかな?

それに あなたの視点のズレ

そのどこが ズレているのか知るためには

間違えたボタンもまず 外してみないといけなくて

そのためには 結果的に

服のボタンを一度 全開することになるから

ドキドキするのも わかるけれど

全開しても 普通にちゃんと止め直せるし

今度は一番上から 順番にさ

『何か具体的にしよう』って位置の

一番下のボタンまで

スッキリつなげられて

スッキリ止め直せて

あなたの人生 という服を 

楽しめると思うよ……

一番の前提のズレ に

いつか あるいはそろそろ 

無理ない範囲から 気づいてみてね

あなたの服は

あなただけにバッチリ似合う

とってもステキなものだよ

あなたが自分を 見ていないだけで

そのシャツ 本当は

すごく似合っていて ステキなのに

一番上の 大前提の 掛け間違いである

自分を疑い 信じないこと と

自分は何も持っていない 

何もうまくいかない という思い込みこそが

あなたが自分らしく ダメなままでいるための

必要不可欠な 絶対条件みたいになってるよね

それこそあなたは それをいつから

信じ始めたのだろうね……

 

2015_03_31

Photo by epicantus
Pixabay

 

傷を「自分が」埋めていい

今日は、

こんな自分は生きていてはいけないのではないか、

という方向の思いを感じておられる方に向けて、書いてみます。

 

きっと、何かがひどく、うまくいかなかった、いっていない、のでしょう。

あるいは何かを、他者から投げつけられて(こういう比喩表現にしておきます)、

傷ついているのでしょう。

 

そして、そういう自分の内側で『二度と元に戻れない』という感覚の部分があって、

それがどうにも情けなくて、悲しいのでしょう。

 

では、そもそも、戻らなくては『いけない』のは、なぜでしょうか。

戻る、のではなく、

『新しくなる』のでは、いけないのでしょうか。

 

ここで一つ、極端な例を、出してみます。

ご記憶の方も多いでしょう。山口県光市の、母子殺人事件。

残されたご主人は、犯人の死刑を求め、当時の裁判所での被害者の扱いにも驚き、

『被害者の会』を設立し、世の中の流れまで変えられました。

 

確かにこの方は、最終的に、犯人の死刑という結果を受け取りました。

しかしその経過においては、

自分が家族を救えなかったこと(それは、無理なことであったのですが)、

また、自分が「人を殺すことを望む」という、その状態について、

とても苦悩されたようでした。

 

たまたまこの犯人は最後まで、本気の反省を見せなかったため

(犯人は「ドラえもん」さえ持ち出して、

精神状態の不安定さを作戦として訴えました)、

ご主人はアメリカに渡り、同じような理由で死刑を待っている囚人に面会して、

インタビューまでされました。そしてその囚人から、

「死刑判決を受けて、やっと、自分がやったことを

反省できるようになった」という言葉を聞いて、

そういうふうに「省みる方法」もあり得るのだ、

ならば犯人にも、そうなってほしい……。

と、その点で、自分の気持ちを、なんとか整理されたのです。

 

ただ、そのあとですら「いいか悪いか」の判断は、自分ではつけることができない、

という心情を、ご主人は語られました。

これらの話は、彼を取材し続けたノンフィクションの書籍に、載っています。

 

そして最高裁の判決が出たあと、

ご主人は「普通の幸せ」を、再婚で、再び得ることを決意され、

マスコミ報道の前から、また、被害者の会の活動からも、姿を消されました。

 

このご主人に対して。

「そんなにもひどい経験を経たのだから、

再び、まともになることなんて、できるはずないし、そもそも求めるべきではない。

人は、そこから立ち直るべきではないのだ」

「忘れることなんてできないのだから、

このご主人も殺された母子のことを一生、考え、抱え込み、

傷ついたまま、苦しいまま、この先の人生を生きるしかないのに。

何をキレイごと、求めてるんだか。そんなの絶対、無理に決まってるのに」

「どんな事情があるにせよ、他人の死を願い、相手を殺そうとしたなんて、

それはまともな人間じゃないのだから、生きているベきではない」

等、を断言できるほどに思われる方は、それほどいないはず……と、私には思えます。

 

むしろ、そこまでつらかったからこそ、幸せになってほしい、

傷が消えることはないだろうけれど、

悲しみが完全にはなくなることはないけれど、それでも……

と感じられる方のほうが、多いだろうと。

 

そう。

そういう意味では『傷』は消えないし、

亡くなった命は、何がどうあろうと、取り戻しはできません。

このご主人も、二度と元の自分には、戻れない。

でも、だからこそ、新たに幸せになってほしい。

そう願うのではないでしょうか。

 

他者のことならそんなふうに、きっと、わかると思います。

自分が受け取った傷によって、完全には元の姿に戻れなくても、

それでもなお、人は、やり直す許可を自分に出していいのだ、

どんなに傷ついても、そこから立ち直っていいのだ、ということが。

 

今、あなたは傷ついて、その弱い自分を責めておられるでしょう。

このご主人も、そうでした。同じ視点で苦しみを味わわれました。

原因が違う? あなたは自分で自分を傷つけている?

このご主人も、自分の内側で、自分を罵倒されていました。

どうしようもない状態、に、自分のことを追い込まれました。

 

無記名で悪口を届けてくる人もいたそうです。

死刑反対説を持っている人からは非難され、

この犯人の減刑嘆願署名さえ、求められたそうです

(思い込みの正義感ってこわいですね。

実際に傷ついた他者の気持ちなんて、自分が果たしたい大義名分の前では

どうでもいいのですから)。

 

どうでしょうか。

このご主人が立ち直っていいのなら、

あなたもまた、立ち直っていいのだということは、

感じられないでしょうか。

 

たとえばあなたという人の一部分が、自分を傷つけた。

そして本当に、傷によって、痛んでいる、

『傷つけられている自分』もまた、

あなたの中の、別の部分には存在している。

その「別の部分のあなた」は、このご主人と同じように、

受けた傷で「痛んでいる」のです、間違いなく。

 

人は、たとえどんな経験をしても、立ち直っていい。

このご主人は、それが端的に現れた例の方なのだと、私には思えるのです。

 

本当はそんな傷など負いたくなかった。

傷ついた人なら、必ずそう思うでしょう。

傷のない、苦しみを知らなかった、キレイな自分を思い返し、

後悔にも、さいなまれることでしょう。

 

でも、その傷は、埋めていいのです、自分で。

確かに埋めたところで、完璧に元のような美しさには、なりません。

それでも、自分が埋めていいのです。

そういう埋め方をしたら「いけない」わけでも、

元のキレイさに「戻れない」なら、

『埋めなくても一緒』というわけでも、ありません。

 

とくに鬱の方なら、こんな最低な自分が生きていて、

動物や植物など、他の命をいただくこと自体、不謹慎に思えたりもするでしょう。

私も過去、確かにそうでした。

 

でもそれは、何億年も続いてきた、生物としての営みを、

狭い視野で観念的に、感覚的に、否定しているに過ぎませんし、

そこまでのキレイさだけを求めることは、今だからこそ、起こる視点なのです。

 

そしてまた、嫌なことが忘れられないから、劣っているわけではありません。

光市のご主人が「劣っている人」でないのと同じです。

 

それほど自分が苦しいのだ、ということを、卑下する必要もありません。

今、自分が苦しいのだ、という『事実』、そのことを、

今のあなたが認めてあげていないだけです。

 

苦しい今だからこそ、キレイさにも、またこだわってしまうのです。

何も傷のなかった過去の自分を記憶から引っ張り出してまで、

そこへ戻りたい、と、こだわってしまうのです。

 

ピュアな過去への羨望にこだわっても、未来は変わりません。

傷ついたあなたは、その傷によって、醜くなったわけではありません。

光市のご主人が、醜い人になったでしょうか?

傷によって、二度と見たくないようなところにまで

「成り下がった、変わり果てた」人だと、思えるでしょうか?

 

このご主人も、また。

生まれて初めて知る、自分の弱さに苦しんだからこそ、

それを越えていかれたことが、とてつもない意味を持つのです。

話を知った他者に、自動的に、勇気さえ与える。

とくに、今のあなた、人の痛みをより、感じられるようになっているあなたに、

そのことが理解できないはずはないだろうと思えます。

 

そしてね、あなたもまた、同じ、なのですよ。

卑下し続けていくのをやめ、自分を新しくしていく、

傷によって変わっても、それでも、生きてみていいのだ、という許可を、

あなた自身が、自分に出していいのです。

あなたなりの変化は『出したあと』に、生まれていくからです。

 

『出したあと』でないと、気づいていけないことが、たくさんたくさん、あります。

だからこそ、出してみていいのです、あなたの許可を。

出すことにより、あなたはそこから、学び始めます、ゆっくりと。

 

今はまだ、まったく何の根拠もないと思われるだろうけれど、

あなたは、自分に、

新たに生きていい、ということを、ゆるしてみてもいいのです。

 

その理由は、いずれ、わかります。

自分がどういう『傷の埋め方』をしたのか、

それによって何が生まれていくのか、あとから徐々に、気づいていくのです。

同時に、なぜ自分が自分を傷つけていたかも、

理解を得るチャンスを、自分で捉えられるようになります。

 

自己からであれ、他者からであれ。

傷つけられた人が、これからも、自分は生きていっていいのだ、という許可を、

自分に与えられること。

その「行為」そのものが、何か、誰かのの役に立つ日が来るのです。

 

どうか、そのことを、この先の人生で、知ってみてください。

今はまだ、何の根拠も、いらないでいいのだ、ということを、信じてみてください。

あなたが、あなたとして生まれ、今、生きている。

ただそれだけの理由で、思いとどまって、埋めてみて、いいのです。

どうか、必要な方に、届きますように。

あなたは、自然にお迎えが来るその日まで、生きていっていい存在です。

だからこそきっと、今、この記事を読んでいるのです。

 

残酷でしょうか。

残酷だと感じられたら、ゆるしてください。

でも、今、苦しんでおられるからこそ、

『先の可能性への力』を持っていることがわかるあなたに、

私が勝手ながら伝えたいので、書いてみました。

心をこめて、届けます。

長くなってごめんなさいね。

 

2015_03_29

Photo by menita
Pixabay

 

私が自分に作った『根本的な罠』の話

母にとっての悲しい過去、

そういうプライバシーにも関わることなので、

一部、ぼかして書く。

多少、わかりにくいことを、許してね。

 

うちの母は身体が小さい人で、

骨盤も小さくて、ゆえに私は、早産で生まれた。

 

小学生になったとき。

母は、私を生むより前に、

2回、流産を経験していたことを知った。

 

それでも母は、どうしても

子どもが2人は欲しいと願ったのだそうだ。

流産を経験していてもそう思えたのなら、

それは母にとっての祈り、

みたいな気持ちだったのかもしれない。

 

そして私が、生まれた。

9ヵ月の早産で、保育器に1ヵ月間、

入るような病弱児ではあったけれど、

私は、生まれた。

 

でも、当然のことながら、

私は自分が生まれたときのことを

小学生になったときには、覚えていない。

そのとき、家族がどんな気持ちで

いてくれたかまでは、覚えていなかった。

 

そして流産の話を知った私は、そのときにこう捉えたのだ。

 

流産した2人のうち、どちらかがもし、生まれていたら、

私はこの世に生まれてこなかった存在だった、と。

 

とくに、私と兄弟姉妹の間で、

誕生しなかった存在のことを、私はなぜか身近に感じた。

そしてその人の分まで、生きるのだな、と捉えたのだ。

 

このとき、私はある種の罠に落ちたと、今なら思える。

自己否定につながりそうな、自分の存在価値の薄さ

(本当なら、私は、生まれてこなかった子ども、という認識)と、

だから私は、2人分生きなければいけない存在、がんばらねば、

の2つを、思い定めた瞬間だったから。

 

一見、前向きでありながら、自分内で、自分を『低く見守る』視点、

自分を縛る視点にも、それはなっていった。

がんばらねば、の根拠に、私が自分で、使ったのだ。

 

母が、流産という、女性にとって

すごく辛い、悲しい経験を経てでも、

望まれて、9ヵ月、小さな身体の胎内で育ててくれた存在だったのにね。

しかも全身黄疸が出て、生まれた日に輸血となり、

保育器には入ったけれど、

そうまでして、育てようとしてもらえた価値のある子どもだったのに、ね。

 

生まれてきた子どもは、皆、そもそも、

そうやって誕生してきた子どもなのだ。

ひとりの例外もなく、母の胎内で存在することを

ゆるしてもらえた存在。

 

しかも私の命の、元の半分は、

母が女性として『生まれたそのとき』から、

卵子として存在していたんだよ。

 

つまり、母の母、私の祖母が、母を胎内で育てたときから、

細胞としての私の一部は、生まれていたのだ……。

それが命のつながり、生きものとしての、私の存在の『元』にある。

 

そしてまた、父親からも、一番早く、卵子にたどり着ける力を受け取っていた。

さらには、遺伝子、というものの組み合わせを、

私のために、独自に変化させてもらえたから、兄弟姉妹とは違う、

他の人とは違う、私、が生まれた。

 

他の人とまったく同じにはならないよう、

私が、周囲が、私のことを、

ひとりの人間であると識別できるように

変化させてくれたのは、誰だろう?

宗教的に言えば、神さまになるのかな。

 

誰かの完璧なクローンではない、

量産される人形みたいな存在、ではない私。

この世にたったひとりしかいない私。

卵子と精子が協力し合い、さらに個別に、

いろいろな変化をさせてもらい、それを受け取って、

胎内で育って、そのあとから生まれてきた、私という存在。

 

『本来ならいらない、生まれなくてよい人間』ではなかった。

出産という苦しい思いをしてでも、

生まれてよいと思われ、生まれさせてもらった存在だった。

 

そして生まれてからも、生きものとして、

毎日、動植物の一部を、命を、

これまでたくさん、いただけている存在。

 

いっぱい、いっぱい、すでに受け取っている。

受け取ってきた結果としての、今の私がいる。

 

それに感謝せず、あの苦しんだとき、

私は、何を卑屈に捉えていたのだろう。

 

何を求め、何を認められたがり、

足りない、足りない、満たされよう、と

もがき苦しんでいたのだろう。

 

存在として、私は、もうすでにゆるされていて、

もうすでに、たくさん受け取れていたのに。

日々、受け取っているし、

これからも、受け取っていけるのに。

 

いてもよいから、生まれさせてもらえた。

私が『生まれた』こと、が、少なくとも

他者を安心させ、安堵させ、あるいは幸せにしていた。

 

そして、たとえそれが『過去の出来事』であったにせよ、

根本は、誰しも同じ。

望まれても、生まれ出でることのできない存在も、たくさんたくさん、いた。

たとえ『親になんか、望まれていたとは思えない』人でも、

生まれることはなぜかゆるされた、結果的に。

 

でなければ、あなたは今、ここにいない。

悔しいかもしれないけれど、そこだけは事実で、

しかもその命は、祖父母からも、そのもっと前からも、つながっている。

つながってきたからこそ、いる存在。

 

立派でないとか、いろいろ卑下しているかもしれないけれど、

つまりは自分のことを、たとえば立派だと思いたい、

そこに囚われているだけなんだよ、今は、たまたま。

私が自分で罠を作って落ちたかのように、

あなたも何かを、自分にとって苦しい方向で捉えているだけ。

 

今もすでに、食品としての、他の命をいただけている、

実りという次世代のための命を、いただけている存在。

誰かが一所懸命育てくれたものを、受け取れている存在。

自然が、自分らしさを発揮してイキイキしている、

それを受け取れている存在。

 

自分内で罠を作り、その罠に自分から落ち、

足りない、と信じ込み、あえいできた、

その時でさえ、豊かに受け取ってきたからこそ、今、ここにいる存在。

 

もっと早く、そこに気づいてみても、よかったのにね、私。

今、ここにこうして、存在することを、素直に、感謝してよかったんだね、私……。

 

2015_03_28

Photo by efzareklam
ID:201502240000
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0