月別アーカイブ: 2015年3月

なぜうまく……? の捉え方を変えてみる

今日は、ここ数日で私が読んで、自分内でつながったブログのリンクも

ご紹介しながら、書いてみます。

自分が記事を書き始めたら、ときどきこうして、

似たテーマで違う切り口の話が、どかどか見つかるときがあるのよね……。

ありがたい限りです。

 

さて、まず……。

なぜ私はうまくいかないのか。

この視点の内側で、ずっとぐるぐるされている方への、質問です。

 

今、あなたは、何を、うまくいってない、と捉えているでしょうか。

それ以外のことも、すべて、文句なしに不幸のどん底で、

心も身体も人間関係も仕事も勉強もお金も

家族も身の回りの環境も立場も

住環境も食環境も服装も持ちものも

ありとあらゆることが、まったく、うまくいっていないでしょうか。

 

本当の本当に、不幸のどん底中のどん底、

「どんどん底」と言えるくらいの状態であるなら、

ブログを読めることはないと思えるので、

まあ、そこまでどんどん底ではないはずかな、と、私には思える次第。

 

でもあなたは、ひとつの不幸を見つめる。

他のものは、大したことのない、当たり前の存在として扱い、

ありがたさも感じることなく享受して、そのまま、放置している……かもしれない。

 

その当たり前が当たり前じゃないことは、痛いほど痛感したのにね、

たった4年ほど前に。

でも、今や、当たり前。

 

ま、そんな道徳的説教をかましたくて書いてるわけではなくて、

そういう例も挙げられるくらい、普通に享受しているものはあるはず。

 

今のあなたの、その『不幸』。

問題を、その形、あなたの『不幸』として

捉えているのは、自分自身が選択したことであるということは、

もう、少しは、理解してるよね。

 

あえて厳しい例を挙げてみると、

たとえば身近な人が亡くなっても、自分を見失うほど苦しまないで、

解放された、と正直、感じる方もいるだろう。

十分に学んでこの世での修行を終えたので、彼岸に旅立たれた、と、

悲しみを感じながらも、静かに見送る方もだって、きっといるだろう。

 

そう。

あなたがそれを、意識的に、自分にとっての

「不幸・苦しみ」

という形で、あえて捉えている面は、確かに少しは、あるのだと思える。

 

もちろん生、の範囲でも、いろいろ例は挙げられる。

人と違っていてはいけない『はずなのに』とか。

しかも、そうやって違っている場合、

いつも「自分がおかしい」のだと捉える人もいる。

 

比べる際、常に自分を下に置く……。

自分で自分を『その位置に置く習慣』をつけているにもかかわらず、

さらに『そう、私はこんなふうに劣っている』のだ、とだけ、

いつも捉え続けて苦しんだり。

 

自分を一段下、さらに下、にいつも置くのは、謙遜のときも、ま、あるけどね、

謙虚、じゃないのかも。

ここでわざと、極端に言葉で表すなら、

あなたのそれは、謙虚じゃなくて、怯えや、逃げや、卑屈感、かも。

 

こう書くと、また

ああ、だから私はダメなんだ、って、さらに

自分を見下げる人もいるかな?

ちゃんとわかったうえでなら、

別に逃げても、おびえてても、いいのに。

それが当然のときも、いっぱいあるのに。

本当にそういうのこそが、習慣的な、苦しい思考パターン……ですよ?

 

たとえばすべて、自分がダメな理由、証拠として、使っていく。

自分を苦しめるほうへ、自分で、追い込んでいく。

 

だって、やめられないんだもの、という方へ。

では、それをやめたら、実際、何が起こり始めますか?

新しく自分の中に起こっていくだろう何か。

そっちを心配して、おびえていませんか?

井の中の蛙になってしまうもの、とか、どうせうまくいかないのに、とか。

 

うまくいかないときの備えとして、

自分に対して通用しそうな言い訳をくっつけて。

試していないなら、まだ、未来は決まっていないのですよ?

 

清水の舞台から飛び降りろ、バンジージャンプしろ、という話ではなく。

ただ、自分が、なぜそう捉えて、おびえの中にとどまることを

自分で、自分のために「選択している」のかを、いつか、知ってほしい。

 

なぜうまくいかないのか、ではなく。

なぜうまくいかない、と、

つい、いつも、

自分自身が「捉えている」のか。

これ、決して決して! 責めてるわけじゃないよ。

苦しい形で捉える「クセ」が出来上がっているだけで、

そのクセ、は、自分自身で外していけるのよ。

やってみたことのない視点だと、

意味がすぐにはわからない人もいるだろうけれど。

 

うまくいかない点だけをいろいろ、見つめている、

うまくいくはずがないと、自分で思っている、

うまくいけたらいいけど、そんなの、どうすればいいか、わからないし。

そこでとどまり続ける理由は、何?

 

たとえば、ね。

なんとか苦労してでも「得たいもの、得るつもりのもの」を見つめるのでなく、

いつの間にか『苦労するという行為』そのものを、

目的にしているから、だったりしないかな。

苦労しているときだけ、自分を、認めてあげられるから……。

 

そんなワナのような回路に陥っているとすれば、

苦労して得ても「なんか違う……」になったり、

「思ったより大したことなかった」「大きくは、変わらない」

になりやすいかも。

 

こんなふうに、視点を変えてみると、見え方が変わる、

それを一番端的に体験するために、と、あるブロガーさんが、

「テーブルの上にもし、立ってみたら、知らない景色、見えるよね、実際に!

今まで、見たことない位置、高さだよね、実際に!

同じもの見てるのに、見え方が違う!

そういうふうに、心のなかでも見方を切り替えていいんだよ!」

って、感じで、視点の変え方について、ブログに書いたのですよ。

テーブルの上に立つメソッド

君はヒーロー

 

そうしたら、それを実践されたらしい方が

「何も変わらない」と質問されてきたので、

それについても、このブロガーさんは、お返事を書かれた。

『変わり者の夢』

 

伝わるかな。この、本当にテーブルに立った方、変わる魔法を求めておられるよね。

その経験で自分が何を「きっかけとして」使っていくか、

そこ「からの、次」を「自分でやっていくため」の、たとえ話なのに。

魔法じゃない! 変わらない! と、嘆いてしまう。

せっかく実際にやってるのに、その経験を生かして、

次に実際に、自分の視点を変えてみる練習までは、しない。

もったいないよね……(つд`)

 

ということで、さらにあと2つほど、ブログをリンクしておきます。

皆さん、それぞれ、見つめるものの切り替え方の話。

どなたかの「表現」が、それぞれ必要な方に、届きますように。

病気であることと「幸せ」との関係

◆ウソの上塗り。ウソの上塗り。ウソの上塗り。隠しているから しんどい だけ。

 

2015_03_19_1Photo by ForWallpaper.com

 

○○する、○○になる、なんて……

前回の記事で、自分の状態について、

やわらかく「ある」ことも、

自分のために選んでいいよ、と書いた。

 

たぶん「何言ってんだよ、そんな気持ち、今、なれるわけない」と、

反発する人もいるかな、と思いながら書いたのだけれど。

 

気持ちが変わらなければ、自分をやわらかくすることなんてできない、

やわらか、なんて、今の問題を抱えていたら絶対無理。

もし、そう感じている方がいるならと思い、今日は書きます。

やわらか、をひとつの例として扱い、もう少し。

 

まず。本当に物理的に「身体をほぐす」やり方で

自分をやわらかくすることに対して、

すごく抵抗を感じるという方は、少ないと思う。

 

マッサージを誰かにしてもらうなんて、あり得ないとか、

お風呂に入っているときに、身体の力を抜いてリラックスするなんて

絶対に許されない、と思う人は、ほとんどいないはずだよね。

 

マッサージだって、知らない人に触られるのは嫌だとしても、

気心の知れた人だったら、また、肩や手のひらを優しく揉むくらいなら、

たいてい、だいじょうぶなんじゃないかな。

 

この「肌に何か触れるものによって」自分が力を抜くことって、

発熱等で、血行を良くすることが身体にとって負荷が大きすぎるなどの場合を除いて

単純に、自分をやわらかくしてあげられるということは、

ご理解いただけると思う。

 

では、なぜそのときは、やわらかくする「許可」を、

自分に与えることができるのだろう?

 

意味、わかるかな。

なぜそれが可能かというとお湯や、身体への優しいタッチが、

あなたの抱える問題と、何ら関係性がないから、だよね。

 

もし万が一、お湯に浸かることで今の問題が増幅するなら

今日は入浴しない、と選択するだけで済む。

 

お湯そのものは、別に悪いものではないし、

それを使い、自分が身体の力を抜くことも、別に悪いことでない。

単純に、そのとき『力を抜く』、という身体の状態を、

味わうだけの話だと、あなたははっきり、わかっているはず。

 

だったら、前の記事で例にあげたような、

プリンやガーゼや羊毛などを自分の中にイメージしてみることは、

何か、とんでもない問題を引き起こすのだろうか?

 

イメージによって「やわらか」な『状態』を作ることは、

あなたには、許されない、あるまじき行為?

 

もし万が一、そこまで……誰かに命令でもされるなどひどい制約を受けて、

考える内容のことまで縛りを受けているなら、

今、私のこのブログを、落ち着いて読めてないはず。

 

やわらかなイメージをすることで力を抜く、

その『状態』と、あなた心の中の『問題』は、

お湯と心、の場合と同じように、本当なら関係性、特にないよね?

 

ではなぜ、そんなこと『できるはずない』、

いきなり可能、不可能、などと、捉えるんだろう?

気分が暗いときには、身体の力を抜いちゃいけないのだろうか。

 

ここから、さらに私は意識して、必要な方に伝われば……と願いながら、

言葉を書いていってみるよ。

 

そんなこと不可能、と瞬間的に捉えてしまった方へ。

まさに、そうした反射的な捉え方が、今のあなたの、

思考のズレ、視点のズレ、の、ひとつの「現れ」ではないだろうか?

 

やわらかなものをイメージすることで、

自分の身体の力を抜くという『状態』は、

あなたの心の中にある問題点と、本来なら関係はない。

でも、あなたはとっさに、結びつけてしまった。

 

もしかしたら他にも、今、別に問題とはつなげなくてもいいことまで、

いちいち自分でリンクさせてから、

捉えがちになっているのかもしれない。

その可能性、私には、あると思えるよ。

 

違う!

そんなふうにリラックスしてる場合じゃないんだもの!

という方には。

 

もしかしたら、そこまで思い詰めるからこそ、よい解決策が生まれない、

それほどまでに自分で、

自分の視野を狭めすぎている可能性があることも、伝えておきたい。

 

さらに。

そんなアイデアレベルとか、思いつきで解決できるような問題じゃないよ!

という方へ。

 

ならば、今のように苦しみながらその問題だけを抱え、見つめ続け、

何も、身体の状態すら変えずに、いろんなものを

問題とリンクさせまくって、嫌な思考と苦しみを続けていけば、

いつかその問題は、解決するかな。

 

脳の快、不快を司る物質を調べている研究者が、

先に「わざと」笑顔を作ることで、身体が反応して『快』の物質を

呼び起こし、その結果、本当に気分が良くなって、

わざとでない笑顔も浮かべるようになるということを、論文で発表してるよ。

 

たとえ鬱のど真ん中でも、たまに入る風呂(たまにしか入れないよね)で

風呂場から出た瞬間、サッパリした感じを一切、感じないという人は、

そんなに多くはないと思う。

そのとき、瞬間的にでも、問題点からは、意識が離れるよね。

 

問題点から自分の注目がそれて、

快、の感覚を、身体に負担をかけることなく味わえたら、

それは、暗い状態の脳みそにも効くことは、知ってるよね。

脳みそも、自然に、別の思考ルートを、つなげられるかもしれないよね。

そうしたら、今の苦しいだけの視点を、少しすつでも、外せるかも。

 

その可能性があるなら、たまには、やってみてもいいんじゃない?

条件反射的な理屈などは、つけないで。

それとも、イメージして何か損でもする? 時間とか、かな?

あるいは効くはずないって、決めてかかる?

では、高価な薬なら、OKなのかな?

 

こんなふうに、関係ないもの同志を、今は私、いきなりつなげちゃうのか……、

何で私、とっさに反応しちゃったんだろうな? など、非難でない形で、

自分の思考パターンを淡々と、遠くから眺めて、

自分に静かに問いかけてみることは、

いずれ、あなたの役にきっと立つだろうと思うし、

ネガティブオンリーの思考回路から、自分をはずしてみて、

たとえば身体の『状態』に注目してみることは、

自己の気持ちを単純に切り替えることにも、つながると思うよ。

 

風を感じる、でもいいし、夕焼けを眺めてみるのでもいい。

今の思考パターンとは関係ないことを味わう、という意識を、

自分の中に作り出してみることくらいは、

自分に許してあげても、私は、いいと思える。

 

よかったら、できる範囲で、やわらか、や、ゆるやか、を味わうことも、

意識して、自分に許可していってね。

 

その選択を自分にしてあげられるのは、あなた自身だけだから。

 

2015_03_16

Photo by aronho
ID:201409111500
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

やわらか、という観点のために

どこかぎこちなくて、一直線。

あるいはいつもおびえてビクビク。

 

私は表面的には、1つめの自分、であることを感じていて

柳のような人間になりたい……などと言葉にしていたけれど、

その奥……裏側にはビクビクの自分が控えていましたよ、と。

 

これらの2つは、思考や感情の上で、

もしかしたらセットなのかもしれない。

 

私の場合「2つのことを同時には、うまく『こなせない』人」という

刷り込みも、自分に対して意識的に、明確にやっていたしね。

 

しかもこの場合の『こなせない』は、

両方とも100点近くを取らねばならない「のに」できない、

という、とんでもない高基準を設定していた。

 

今からすれば、なんじゃそりゃ、な話だけれど、

人は常に頑張らねばならない、が基本姿勢だったから、

そりゃもう、身体全体、力、入りまくりな人だった。

 

この前、書いたように、認められないと私は『ダメ』な人間、

他の人とは違って、私には『ダメな人間性』がベースに備わっている、

そもそもが「劣っている状態」の人間なんだ、と、

心の奥で勝手に思っていたから。

 

じゃあ、普通って何なのよ、優れているって何なのよ。

比較するのであれば『普通の人間』についても

ちゃんと捉えてなきゃ、本当は比較できないはず。

 

でも、そんなこと、気にもしなかった。

うまくできてる人だけ、見てた。

それをいろいろ、自分に取り込んでいかなくてはいけない、

努力を続けていかなければ、私は本当は

普通に「さえ」なれない(と心の奥で、実はおびえている)。

 

優れている人、つまり認められる人になるって、

さらにそのもう一段階、上の話で、

そこへ行くには、ベースとしての、このダメな私をまず

とにかく鍛えねばならないのだ……とか、そんな感じ。

 

で、その結果、努力の対価として、自分が求めているのは

『他人からほめてもらうこと』だったのよ。

も、なんじゃそりゃ、のオンパレードだね。

 

当然、リキみます、これだと。

身体全体に、自己否定が、密かにベースとして染みついているから、

何かするときは、常にその「リキんだ」状態からスタート。

そして競争。あるいは頑張らねばならない、の視点。

 

これのどこに「やわらか」なんて状態を挟む余地、あったのだろう。

イメージだけ持ってて、

やってることは、かけ離れてて。

 

でもね、イメージがあった、ということは、

なんかおかしい

いつも私は、自分をぎこちなく感じる

なぜか、やわらかくなれない

ということには、気づけていたわけで。

 

もうちょっと、身体全体の感覚に、目を向けてみればよかった。

常に力を入れていた、

常にリキんでいた。

そのことがすでに、自分の観点のズレを示していたのにね。

 

私の場合の、このリキみ。

それは、自分そのものを

『基本的に、もう、そもそも私は劣っている』人間、

ベースのレベルが、他者より低い、ダメな人間だと、実は裏で否定していたため。

そっちの思い込みのヒモ解きには、目を向けられなかったなー、

鬱になるまで、本当に。

 

これでさらに、表面的意識では『優れていたい』が

目標だったのだから、笑えるわ……。

そんな観点だけでやってたら、

超人的に努力せねば、そんなの保てるはずないじゃん。

 

で、これね、私は、では! とばかりに努力するというところ、

そっちにだけ目が行ってしまってたけど、

同じく自己否定、自分はそもそもレベルの低いダメ人間、と捉えて、

そこで折れたまま、あきらめている方も、いるんだと思う。

自己に対する態度、その表し方が違うだけで、根っこは同じなのだと。

 

あのー、それがもうね、思い切り変な話ですから。

やり続けるにせよ、あきらめてジッとするにせよ、

超人的になる以外、解決策がないような思考の状態に自分を追い込む。

それ、めちゃくちゃ、辛いほうへ思いこみ、してますから。

なので、そもそもの前提とか、

普通の人、優れている人って、の部分についての、自己の決めつけ具合とか、

そっちのほうに、目を向けてみて、いいと思えるよ。

 

そこの『おかしさ』に気づいていければ、

24時間365日、リキんでおびえて、ビクビクしなくて、すむようになるから、

その結果として力が抜けて、勝手に『やわらか』な状態も、生まれるから。

別に手抜きとかサボるとかじゃないよ、単に、やわらかなだけ。

やわらかさって、うらやましがって遠くから眺めるものでないのよ。

 

想像してみてほしい。

何かを「否定する」ときって、怒り方面の感情だから、

腹の奥のほうに黒い塊がグッと現れて

それをお腹の圧力で押さえつけるような感覚、ないかな?

同時に胸がモヤッと赤黒く燃えて、頭に血も昇ったりして、

身体が硬くなる……脇も締められて、全体に力、入らないかな?

 

それを、自分に対して瞬間的に、断続的に……つまり常に、繰り返しているのです。

たとえ「あきらめている」人でも、裏でそれ、きっとやってるよ。

で、自己否定は、そうやっていったん、力を入れてから、

さらに自分に対しガッカリする。怒りと悲しみの混合。

 

自己否定って、そういうこと。

そりゃ、ため息とリキみの混合しか、自分に与えなければ、

いずれは身体にも何らかの不調、現れていくよね……。

 

そもそもの前提、を見つめ直してみる、

その勇気を、

いつか自分のために、持ってあげられますように。

 

やわらか。

そんな『あり方』。力を抜いた状態。

ときには自分が、まるでプリンのように、

ツヤツヤでピカピカで、

プルプルにやわらかくて、

外から見ても幸せそうだし、

自分の内側全体に、

おいしくてやわらかなモノが

詰まっていることを感じる。

あるいはとてもやわらかなガーゼでもいいし、羊毛とか、

自分の好きな、心地よいやわらかさで想像していいと思える。

それらが、自分の全体を満たしているような感じ。

 

そこに至るための条件や理由はまったくなし。

常には無理でも、ときに、そういう自分である、というだけ。

その『状態』も、人間として当たり前に、

持っていいのだということに、

自分から、気づいていけますように。

 

行動の充実、じゃないのよ、

ごほうび的なことでもない。

「自分に対する」心の変化。

やわらかなもので満たしていい自分。

 

それは自分でしか起こせない、変化だよ。

気づきを、ヒントを他者からもらえたとしても、

自分に対する感情を捉え直すのは、

自分だけが、やってあげられること、だよ。

 

2015_03_14

Photo by pro.foto

ガチガチの状態は、そもそも人にとって自然な姿勢でないから。

力を抜いてやわらかい状態でいる、

それは生まれたときからすでに、

あなたも、知っていること。

だから自分なりに、取り戻せるよ。