月別アーカイブ: 2015年3月

思い通りの…… ~その2~

今回の記事、その1はこちらから。

◎思い通りの…… ~その1~
http://miharu.feeling.jp/?p=2820

 

あなたが今、やっていることは、自分の内側の悲しみや苦しみを、

素直に感じ、愛から涙を流すことに向き合っているものですか?

 

きっと、ちょっと違いますよね?

誰かと自分を比較してますよね。

 

他人と自分を比べて、

いかに自分が不幸なのか、

いかに自分は恵まれていないのか、

いかに自分は失敗してダメなのか、

その比較を繰り返して、

自分を苦しめていく作業。

 

それは、何のために行う作業でしょう?

誰かへの仕返しでしょうか?

もしかしたら、自分への哀れみ、または憐れみという、一種の「陶酔」ですか?

 

誰かへの仕返しなら、あなたは、その人のために

『今でも』生きているってことになりますね。

過去のその人を見て、過去のその人のために、自分を使っている。

過去のその人に振り回されることを、今でも願っている、かのごとく。

 

……そこに隠れている本当の意図って、では、何でしょうね。

あの人に振り向いてもらいたい、という恋のようなもの?

この気持ちをわかってもらいたい、ということ?

 

そこで素朴な質問です。

わかってもらうために、なぜ自分を、不幸という箱の中に、

24時間365日に近い範囲、押し込める必要があるのでしょうか?

 

逆のことされたら、自分は心地悪いから、そうやってでも気づいてほしいとか?

相手に気づいてもらうのに、なぜわざわざ、

その……そんなやり方を、選ぶのでしょうか。

 

憎まれてでも気にしてほしい、って、普通は「他者への迷惑行為」にしかならない。

そうよ、私が自分勝手なのは、あの人のせい、あの人がひどいから。

だから逆も許されるのですか?

おお、なんだ。では、それってつまり自分勝手、

他者よりも自分の気持ちを優先しているのだから、

自分の行為、作業を選ぶ際に、

そこのところはもう、自分の思い通りにできているじゃありませんか?

 

結果としても、意識的にわざと迷惑かけている=嫌われる、

どうなるかがわかってやっていき、その通り、が実現している。

それもまた、明るい方向でないだけで、「思った通り」の人生ですね。

 

どうせ嫌われるの、わかってるから、先に自分から仕向けている?

あるいは、どうせ、私なんか、今までいつもうまくいかなかったから、と

自分から攻撃したり、背を向けたりする?

または「もしかしたらまた嫌われてしまう、

嫌われちゃうかも、嫌われちゃうかも」と

おそれから、念じるように繰り返しつつ、接していく?。

 

そうですか……。私だから、嫌われちゃう。

それをいつも、念じるように繰り返しているならば、やはり、

どこか、嫌われることを明確に意識していることになり、

その通りの「ややこしい」結果が表れているのではないでしょうか?

 

その「未来を自分のほうからあえて悲観する」気持ちって。

「未来はどうなるかわからないから、今を味わおう、大切にしよう」

と念じている人とは、まったく違った角度の影響を、

「自分の実際の行動」にも、与えてはいないでしょうか?

 

嫌われる事態を想像しながら行動することにより、その中身が変わる。

すると普通よりは、その「思った通り」に近づいていく、

つまり嫌われる現実が起こる確率、

増やしていくことになり得ますよね。

 

そして自分に対しては「どうせ他者から嫌われる私」という経験を再び味わわせ、

自分の中の苦々しさを、さらに増やしている、と。

 

はい。

鬱なんだから、という部分も、ある方もいるでしょう。

でも、そういう方向の、念じる思考を続けてきたからこそ、

事態がこじれたり、自分が鬱になった可能性も、

まったくあり得ない話ではないのかもしれませんよ?

 

実際、私は

「認めてもらえなくなったら、私には価値がなくなる」

というおびえから延々、無理矢理、行動し続け、ついに自分を壊しました。

そして鬱のときにはさらに意識的に、自分につらい気持ちや経験や苦々しさを、

なるべく味わうように、させていました。

苦しいまま寝て、起きてまた、しょっちゅう自分を責めて。

今、思えば、価値がないと信じ込んでいた、その自分への罰ゲームみたいな行動、

信じていたからこそ実際に、自分がやって、現実化して、

自分のダメさ加減への思いを、自分でわざと増幅させてましたよ……。

 

その、自分にとってよくない方向への想像、いつからやっていますか?

鬱になってから? であれば今は、その気持ちが、鬱をさらに呼んでいませんか?

さらには鬱になる前から、苦々しさを自分の中に呼びこんで誘い入れてきました?

いずれにしても、今は、そのやり方、

卵が先か、鶏が先か、みたいな問答になりかねない状況ではありませんか?

 

そして実際に、鬱であるならば。

その、今、見つめている方向を、自分が選び変えることで、

鬱からも脱出するきっかけに、なり得たりはしませんか?

 

何のためにそうするか? ただ、自分のために、です。

罰ゲームも、自分をあざ笑う習慣も、本当は必要ないから。

理由は、それだけ。

そしてそれだけで、十分なのです。

 

~さらにつづく~

 

2015_03_08_2Illustration by Vector Graphics
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思い通りの…… ~その1~

人は、本当は、思い通りに人生を生きなければ「ならない」と思ってる?

あの人は結構、思い通りに生きてるけど、

私は願ってること、いっつも叶わない?

 

あるいは、周りの人はみんな、それなりに思った通り生きられてるのに、

私だけがうまくいってない?

 

いやいや。

いやいやいや。

いやいやいやいや!!

 

それ、ものすごい「妄想」ですから。

 

そんなことない、あの人は、あんなふうに、いつも楽しそうにしてる!

いやいや、あの人と24時間365日、トイレの中まで一緒に入って、

あの人の感情や思考や気持ちやらが、ダダ漏れするかのように

全部、あなたのところに届いていて、把握できているのですか?

 

トイレであの人、泣いてること、あるかもしれませんよ?

顔で笑って心で泣いてることも、あるかもしれませんよ?

 

そういう気持ちをあの人は、24時間365日、抱えたことがないって、

もし本人が言ってるとしても、本当か嘘か、どうしてわかるのでしょう。

それになぜ「あなたが」そう言い切れるのでしょう。

 

私と一緒のときはいつも、明るそうで楽しそうだから?

いっつも、自信満々、あるいは前向きそうだから?

 

とてもとても譲って、その人が楽しそうに過ごせているとしても、

ときには、嫌なことを早く忘れようと意識している、

そのために楽しむことに、集中しているだけってこと、

あるかもしれませんよ?

 

ま、あの人のことは、

ちょっと脇に置いてくださいな。

それ以前の話として。

 

調子の良さそうなときの他人と、

調子が今、悪い自分を比べていることに、

どういう意味があるのでしょう。

 

他の人には調子が良いときもあるけれど、

私はいっつもダメだもの。

 

そうですか……。

確かに、自分の、ダメで嫌いな面を

24時間365日、見つめて続けていたら、

あなたの世界は、それで構成されますよね。

 

そんなこと言ったって!

成功なんて、起こらないもの!

素晴らしいことなんて、私には起きないもの!

 

めちゃくちゃ大きい成功、や

めちゃくちゃ分かりやすく素晴らしい、出来事?

なら、あの、周りの人も、そんな滅多には起こりませんけど……。

小さな成功、うれしさ、さえ、100%存在しませんか?

見逃してみたり、軽んじてみたり、当たり前……になっては、いませんか?

 

そもそも、自分の悪い面や不幸な面を見つめれば、

そのとき頭の中は『私の不幸な出来事』でいっぱいになりますよね。

 

で、いっつも、不幸な出来事、という「過去」を、

何かあるたびに、今に関連づけては思い出し、苦々しさを繰り返して、

自分の中で味わってるんですよね……?

 

実際の話。

悲しみ、を越えていく過程で、それが必要なことも、ときにはあります。

隠していたり、見ないようにすることで、

自分の中で消化不良になっているものを、

改めて向き合い、記憶から出し、涙を流すことが、

必要になるときも、確かにあるようなのです。

それは「越えていくため」に必要な過程で起こる、回復に向けての自然な話。

 

でもあなたが、自分で選んでやっている作業は、

きっと、それとは別ものですよね?

 

~次へつづく~

 

2015_03_08_1Illustration by Vector Graphics
ID: 201501290100
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別のところを見つめて、知ってみる

たとえば、自分のダメな部分を誰かから指摘されたとき。

 

→なるほど。では私、そこがダメなのだから

頑張ってそれをやめていこう

→その指摘を受けなくなった、あるいは軽くなった

→なるほど、これでいいんだ、と思う

 

しばらく経って。

→また同じような(あるいは別の角度の)指摘をされた

→なるほど。ではまた頑張ってそれをやめてみよう

→しばらくは指摘されなくなった

→やはりこういう変え方でいいんだな、と思う

 

このパターンをこれまで、繰り返している人は、

何か問題が起こるたびに、

「ではどうしたら、次から指摘を受けなくて済むようになるか」、

に注目している。

 

そうした方策を考えるのは、仕事などの役割分担ならまだ良いのだけれど、

いや、仕事上でさえ、いつも自分がそこにしか注目していないなら、

これ、実は、ときどき危険。

 

もしかしたら相手の都合や、その場の状況に合わせて、

自分を曲げちゃうとか、無理させることがあるから。

 

なるほど、という部分の「素直さ」は、

とてもいい『資質』なのだから、

その部分は大切に取っておいてね。

 

で、それとはまったく別に。

指摘を受けた
  ↑
このときの自分にも、ちょっと注目してほしい。

 

そう言われた自分のこと、どう感じるか?

毎回いつも『私はダメだわ』と否定的?

自分に対して、非難ごうごう?

ゆえに、では、頑張って○○を……。

 

またはあの人が、この部分が、悪いんじゃないか! 何言ってる! の反論中心?

で、同じく、では頑張って○○を……。

 

他者に対して、自分に対して。

いつもそこの視点でとどまっているなら、

少し、もったいないよ。

 

これは怒りや、悲しみ、後悔などのパターンでも同じ。

なぜ、私は、そんなふうに感じるんだろう。

その視点、あとからでいいから、持ってみてほしいのだ。

 

ただし、

こんなの許せない(自分を、または相手を)

なぜそんな!(相手が、自分が)

等を感じている間は、

その自分の『感情』にも振り回されるから、

上に書いたような視点、持つことは難しいよ。

 

感情の渦巻きから、ちょっと離れられたときに、落ち着いて

「なぜ私はそもそも、そう思う(思いたくない、

あるいは相手から思われたい、思われたくない)」のか、

このところを、紙にでも書き出してみてね。

 

するとね。

どの部分を、どんなふうに、自分が嫌だと思いたいか、または非難しているのか、

そういうのが、見えてくるよ。

 

そうしたら、さらになぜ、自分がそんな非難をしたくなるのか、

そう『自分が』感じるのか、を、見つめられるようにもなる。

それも書いて整理してみていいと思う。

 

実際、やってみるとわかるけれど、

このとき、誰々がそう言ったから、という理由、書きにくくなるのだ。

だって、その誰々さんと自分は、違う人だからね。

誰々に言われたことをきっかけに、

『あなた自身が思った、感じた』ことを書くわけだから、

なぜ、の理由は、別のところに見つかるはずだよ。

 

こうした掘り下げ、ぜひ、やってみてほしい。

自分が本当は、何を望んでいるか、見えてくるよ。

 

そうして、掘り下げたところで、もし「傷ついてる自分」などを見つけられたら、

それをまた、責めたり、変に哀れんだりするのでなく、

ああ、そういう自分がいるのだなって、

いったん、その『事実』自体は、淡々と認めてほしい。

 

たとえ居心地が悪く感じられても、そういう自分がいる事実そのものを、

見なかったことには、しないでほしい。

 

そういう自分がいたことを、ただ、知るだけでいいから。

そこから、視点が、きっと変わり始めるから。

 

とくに、いつも何か、うまくいかないパターンのことがある場合、

その場面における『自分が何をどう感じてるのか』

『さらに、なぜそう感じられるのか』を見てみることは、

自分の思考の切り替えに、やがてつながっていくよ。

 

「本当は私、○○だと感じてるや……」

「○○を願ってる……」

というところに、たどり着けるようになると、いいね。

 

いつもいつも、自分を責め、あるいは相手を責めて、

では変わらなきゃ、やめなきゃ、

次にどうするか、だけを考えるのでなく、

そのときの自分を、あとからでいいから、

いったん立ち止まって、丁寧に、見つめ直してみてね。

 

2015_03_07Photo by Chris g Collison
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