自分のなかにある「暗さ」

自死を一度、真剣に考えたことのある人は、そこから離れることができたとしても、

またあの「暗闇」に向き合うことになるんじゃないか、という一種の「怖れ」を抱くという。

私も、鬱病という病に対して、また自死という選択肢に対しての「怖れ」は、確かに持っている。

その暗さを肌身で実感したゆえの、気持ちなのだろう。

この「怖れ」は、何かがうまくいかなくなったときに、ひょこっと顔を出すことがある。

しょっちゅう、ではないけれど、ふとした拍子に。

そのたびに、ああ、また、そうなっちゃうかな、イヤだな、そうならないようにしないと……と感じる。

でも、考えてみればこれは、私のペースをある程度、変える役割を果たしている。

イヤだからこそ、無茶な働き方をしないように、と自分を戒めたり、

深く落ち込まないよう気分転換しよう、と、おいしいご飯をつくろうとか、お風呂に入ろうって思える。

コントロール、ということではなく、なんらかの「無理」を自分に強いることがなくなっているのだ。

もちろん、それによって「大きな冒険」には踏み出せなくなっているとも言える。

何か思い切り変化する方向へ「やってみよう」と思うことが、億劫になるのだ。

でも、少なくとも私は過去のある時期、自分の身体と心の状態を無視して、無茶して、がんばった。

あるときは上手くいったけど、たまたま上手くいかなかったときに、壊れた。

ハイリスク・ハイリターンの人生だった、というわけだ。自戒をこめ、苦笑しながら言うけれどね(^^;)

それはそれで、確かに楽しかった。うん、結構たっぷり、楽しんだ。ありがとう、もういいよ。

これからは、普通のペースに戻っていこう。

そんなふうに思えるのだ。

であれば、私のこの「怖れ」、暗闇を再び見つめてしまうんじゃないか、という気持ちも、

上手につきあっていけば、自分を「再び壊さないようにするためのバランスメーター」にできる。

別に、落ち込むときには、落ち込んだっていいのだ。

普通に生きていたって、暗くなることはあった。

そのあとで気分転換して、よし、仕方ない、やるか……って、思っていけるようになれば。

今、まさに死への選択肢が目の前にある人は、その「病」から離れることを何より大事にする。

離れても「暗さ」に覆われることがある人は、それが「バランスメーター」であると自覚する。

「暗さ」……自分に対する「怖れ」には、そうやって向き合い、共存していけばいいのだと、

それが新しい生き方なのだと、今の私には思える。

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