私たちは毎日、気づかないようでも、いろいろなことを選んでいる。
今日、食べるご飯。
今日、着る服。
今日、歩く道。
何気なく選んで、何気なく過ごしているけれど、そこには、もしかして、何か意味があるかもしれない。
たとえば、右の道から行くか、左の道から行くか。
どちらも、目的地にたどり着くには、さほど変わらない距離だった場合。
たまたま右の道を選んでみたら、かわいいネコに出会い、うれしくなるかもしれない。
たまたま右の道を選んでみたら、自転車とぶつかって、ケガをするかもしれない。
でも、そのぶつかった相手と知り合いになって、この先、恋に落ちるかもしれない。
もちろん、どちらを選んでも、何ごともなく通り過ぎるだけかもしれない。
そういう無限の可能性を、私たちはふだん、さりげなく選んでいるのだ。
人生の節目、といわれる進学や就職、引越、結婚といったことだけの話ではないのだ。
大きな決断をするときには、勇気も必要だろうし、努力も必要だ。
でも、小さな決断を人任せにしたり、どうでもいいや、とずっとずっと適当に選んでいたら、
たぶん、大きな決断のときに、決め手に迷い、かなりの努力を要することになるだろう。
自分の意志、自分の気持ちのつかみ方、そういう「ポイント」のようなものを、
ふだん、練習していないからである。
こうして私がブログを書くとき、今日は何を書こうか、と思うのも、決断のひとつである。
書いた文章は私の手元を離れる。読む人がどこに注目して、何を感じるか、それは私にはわからない。
ましてや、自分の経験をもとに、死と生について書いているのだから、
受け止め方はそれこそ、千差万別だろう。
だが、私はただ単純に、いい加減なことは書かない、と思っている。
そして、どう受けとめられるかを怖がらずに、なるべく多く、記事を書いていこうと思えている。
毎日可能な範囲で丁寧に、自分の心に従って、食べものや、道や、服を選んでいこうとも思う。
自分の気持ちに正直になること、自分の気持ちにちゃんと、真摯に向き合うことが、
結局は、このブログを書いたり、人と向き合ったときに、何かの役に立つように思えるからだ。
もちろん、だからと言ってクソ真面目に、カチコチに固まった判断で、ものごとを選択していこうとも思わない。
私がより、楽しいこと。
私がより、心地いいこと。
私が、このほうがいいや、と思えることを、選んでいこうと思う。
ときに遊び心も持って、クスクス、自分で笑えるような選択もしていきたい。
こわい、と思えることでも、恐怖心からではなく、ただ、よいほうを選んでいくこと。
自分が自由であることを味わいながら、選んでいくこと。
そういう、心がけをしていきたいと思う。
選んだ道を通っていく間、ときには、悲しいことも起こる。
知人の死を、私が間近で経験したときもそうだ。
でも、あのとき、そのギリギリの空気感のなかで、私は、人と気持ちがつながることのすごさを知った。
ギリギリだったからこそ、お互いの思いやりが、直球ど真ん中で、お互いの心に届いた。
そんな究極のやり方で、心を通わせる必要はないのかもしれないけれど、
そういう事態の最中であってさえ、自分の気持ちは、あまりのすごさに震えたのだ、確かに。
あの経験、あの瞬間は、一生、忘れられないと思う。
そう、だからきっと、どの道を通っても、いいのだ。
どんなルートでも、いいのだ。
それを選び、通っていく間に、何かを感じ、それをまた、次の何かにつなげていくこと。
あるいは、無意識にでも、勝手にでも、つながっていくこと。
それ自体がきっと、生きるうえでの、醍醐味のひとつなのだろうと思える。
迷ってもいいから、いつか、可能になったときに、一つひとつ、選んで、進んでいってもらえたら、と思う。
さまざまに起こっていく、選択肢の連鎖の醍醐味を、ひとつずつ、味わってもらえたら、と思う。
「間違った道」を選ぶことはない。
そもそも、間違った道、というのは、本来、存在しないのかも、とさえ思う。
どんなルートでも、何かを感じ、知ることは、できるから。
どんな景色であっても、そこにある風景を知ることは、糧になるのだと。
今の私には、そんなふうに思える。