昨日、人に話し、そこに「なぜ」を加えてもらうことで、自分の気持ちを見つめてみる、という話をした。
これは、自分でもある程度までは、できる作業ではある。
ただし、「凝り固まった思考パターンのクセ」は、自分で気づくのが難しい場合も多く、
長所の裏面の短所、逆に、短所の裏面の長所、にも気づきにくい。
前に話した例で言えば、「時間を守ることはやっぱり必要じゃないか!」というところに意識がいってしまい、
「必要以上に規則正しくあろうとし過ぎて」、固くなってしまう」面には、気づけなかったりするのだ。
なので本当は、両方を組み合わせながら、少しずつ、ほぐしていくのがいいのだと、私には思える。
ある思考グセに行き着いて、そこから抜け出せず、グルグルしてしまう部分は、
他者からのなぜ、や感想レベルのヒントをもらうことで、「もしかして」が見えてくることがあるからだ。
専門家なら、それをさらに深く見つめるための手法も知っていると思う。
さて、書くという作業をするときのキーワードは「静かに」である。
感情が大きく揺れたらいったん手を止め、落ち着くまで待つことがとても重要だ。
それを、忘れないようにしながら、進めてほしい。
まずは、自分の嫌いな面について、羅列してみる。
難しく考えず、少しずつ行間を空けながら、思いつく言葉を箇条書きで並べてみるのだ。
できれば、紙とペンで、手書きにしてみてほしい。
書くことは、要点をまとめていく、また、もやもやした暗い気持ちを、はっきりと表現してみることに
つながるので、それだけでも実は、少し自分を落ち着かせる効果がある。
たぶん、ものすごくいろいろな言葉で、これまで自分を否定してきていると思うので、
これを書き並べることは、悲しいかな、そんなに難しくないはずだ。思いつかなくなるまで、箇条書きにしよう。
書き終わって読み直してみるとわかるだろうが、同じ意味合いの言葉を、別の表現で書いていたりもする。
たとえば弱気、意気地なし、押しが弱い、など。
そのなかで、どれが「自分を表現する」のに一番合っているかを考えて、あとは線を引いて消してしまおう。
イヤになるほどたくさんあった言葉が、少しは減らせると思う。
そうやって見直してみると、いくつかの種類の「欠点」がみつかる。
次に、そのなかの一つに注目して、今度はそれがいつ現れたか、その出来事の思い出を、
横に、あるいは別の紙に、書いていく。
このときに気をつけてほしいのは、思い出す、という行為には、イヤだった「感情」が絶対にまとわりつくため、
自分が苦しくなる、という点だ。パニックや過呼吸などの身体症状が現れる人はとくに気をつけて、
少しでも兆候が現れたら間を置いて、自分を痛めつけないようにしてほしい。
泣ける場合も、そこで手を止めて、きちんと泣いてほしい。悲しいと感じる、その感情を
しっかり味わって、文字通り、涙で流し去ってもらえたら、と思う。
しばらくして落ち着くことができたら、思い出す作業を続ける。
連鎖的に、過去の出来事をどんどん思い出すこともあると思うが、今はひとつの「欠点」にポイントを絞り、
それのみで、何かもっと以前になかったか、記憶をどんどんたぐっていこう。
小学校、もしかして幼稚園くらいまで、さかのぼれる人もいると思う。
たぶん、この部分の作業が、一番、キツイ。
どのように表現したらいいか、迷うことも多いと思う。
でも、時系列の出来事そのものだけでなく、自分が感じたこと、思ったことを正直に書くほうがいい。
たとえそれが、どんなに「弱い」あるいは「自分勝手」などと思えたとしても。
こんな紙の上でさえ、自分に嘘をつく必要は、ないのだから。取り繕う必要は、もうこれ以上ないのだ。
思い出せなくなったら、そこでいったん、手を止める。
イヤな気持ちにどっぷりつかったわけだから、できれば1日、せめて半日くらいは空けて欲しい。
ご飯を食べて、寝て、落ち着いてから見つめ直すためにも、時間は空けて欲しい。
次は、その出来事のひとつひとつについて。
古い思い出のほうから順に、「どうしたらよかったのかな」を考える。
表面的な「もっとがんばる」とか、「もっと思いやる」とかいう、立派な標語ではなく、
具体的な「対処方法」を、セリフまで考えて、これもまた、書いてみるのだ。
こう言えばよかった、こんなふうに振る舞えばよかった、こう考えればよかった。
そのときとは違う「対処方法」が見つかって、気持ちが少し落ち着くならば、それでOK。
あなたはもう、それに「気づけた」わけだから、次からは、気をつけて対処することができる。
すぐには上手くできなくても、その「芽」を、見つけたことになる。
今、書いたことを、心に留めておこう。
対処方法が思いつかない、あるいはやっぱり前と同じことしかできない、というもの。
そこで、同じ答えしか見つからなくて「グルグル」してしまうものが、あなたの「思考パターンのクセ」だ。
グルグルしてしまうものは放置して、とりあえず、全部の出来事について、見つめ直してみる。
書き終えたら、対処方法がみつかったものは、それでとりあえず、おしまい。
次に、「クセ」に取りかかろう。
たとえばがんばりすぎて壊れた人が「やっぱりここで、もっとがんばっておくべきだった」としか思えないのであれば、
それがあなたの「パターン」である。あなたはそういうときに「がんばる」という対処方法“のみ”で、
乗り切る「クセ」がついているわけだ。それ以外の方法は思いつかないか、
あなたにとって「やってはいけない」ことになっている。
ここでようやく、「なぜ」の登場である。
あなたは、なぜ、そう思うのだ?
先の例なら、なぜ、「がんばるしかない」のだ? ということを、考えてみる。
とても、とても、冷静に。他人事のように、見てみよう。
それは「見栄」ではないのか? 「負けん気の強さ」だけではないのか? 人に嫌われたくないという
「ご機嫌伺い」ではないのか? 他の人なら、どうふるまうだろう?
そんなふうに、見つめていくのである。
なぜ、私はここで「これしかない」と思えるのだろう? と。
そのとき見えてくるのは、自分の価値観、だったり、大事にしてきたもの、だったり、
あるいは「別の欠点」だったりする。
こんなことが絡んでいたのか、という、別の過去の思い出だって、湧いてくると思う。
それらを丁寧に丁寧に、書き留めていこう。
この「なぜ」は、どんどん、深く掘り下げられる。
「見栄」があるのは、なぜだろう? 「ご機嫌伺い」するのは、なぜだろう?
どこかに行き着いてグルグルするまで、書き加えていく。
場合によっては、別のグルグルに、つながったりもする。
はい。それを、行き着いたグルグルを、人に話すのだ。
そこから先は、たぶん、なかなか自力では脱出できない。
たまたま、誰かのやり方を見て気づけたり、読んだ本で気づけたりはできるかもしれないが、
あなたの中に根を下ろした「グルグル」の部分は、あなたにとって「それがよい」
(苦しくても正しい)ことだからこそ、根をを下ろしたのだ。
なので、誰かに、聞いてみるのだ。他の人なら、どうするか。
あるいは、どうすればよかったのか。
もしかしてみんな、そんな状況になったら、あなたと同じ状態になるかもしれない。
あなただけが悪くて、そんな状況に陥ったのではないかもしれない。
書く、というのは、そういうことを、見つめ直す作業である。
自力で答えが出せないことに、いらだたしさも感じるかもしれない。
でも、自分の何がいけなかったのか(別にいけなかったわけじゃない場合も、あるのだけれど)を
見てみることで、多少は冷静になれる。
少なくとも、原因がわかれば、つらい、つらい、いやだ、苦しい、なんともできない、どうしよう、という
「感情」の怒濤のループからは、離れられるのだ。
こんな作業をしても、さらにまだ、気づけない点は、あるかもしれない。
人は、イヤな気持ちや思い出にフタをするようにできているから、そのフタが頑丈であれば、
なかなか、気づくことはできないかもしれない。
でも、「死にたい」と思うくらいなのであれば、それよりはいくらか、マシである。
やってみる価値は、あると思える。
くれぐれも、身体症状に気をつけながら(単純に、息苦しくなる、というのも含まれる)、
自分を追い詰めるのではなく、自分を外側から静かに見つめてみる、という意識を忘れずに、
やってみてもらえれば、と思う。