私はそうした視点の切り替えを、30代後半になるまでできなかった。
姉は同じ両親に育てられても、若い頃から適度に「手を抜く」ことも知っていて、
その辺のバランス感覚は間違いなく、私より長けていると思う。
私のほうが、ずっとずっと不器用なのだ。
でも、それが私。
不器用なりに、間違った部分はあったけどがんばって、
がんばれていたときには、仕事も相当、楽しかった。
その経験は積むことができた。それは今でも心の財産にはなっている。
あとは、やり方を、生き方を、また学んでいけばいい。
ボッキリ折れたけど、その折れたところから、新たに。
折れるまで気づかなかったお馬鹿さんなんだから、うん、もう、それでいいや、と。
折れたからこそ、人の命の尊さを知った。
人の傷の痛みも、前より気遣えるようになったし、変に同情せず、いきなり説教もせず、
人というものを、見つめられるようになった。
私の場合は、折れるまで気づけなかったんだ。
折れた、学んだ。じゃあ、それを次から、生かしていこう。
同じまま、同じところに立ち止まって、親に縛られ、自分を卑下し続ける必要もない。
これは、ポジティブシンキングだろうか。
あるいは、開き直りだろうか。
どう解釈されても、かまわない。情けないヤツだと、人に笑われてもいい。
自分を追い詰めるよりは、よっぽどマシ。
人は生きていくうえで、何かしらの傷やゆがみ、「いびつさ」を、抱えていく。
私は、私自身を殺したくなるような受け止め方、考え方、やり方だけは、もうしないのだ。
周りの目のために、見栄のために生きる必要もない。
私は、バカな自分を、バカだなあ、って、かいぐりかいぐりして、生きていっていいのだ。
そういう自分を、ゆるしてあげて、いいのだと。
こうしてゆるみ始めた自分を、最近、人は「優しい」と言ってくれるようになった。
自分では、そう言われる理由が実はよくわかっていないのだけれど、
もしかしたらそれは、きっと、自分に優しくなれたからだろうと思う。
そういう副産物も生まれているのなら、よかったよかった。
あなたもまた、今、苦しんでいる最中であるのなら。
その苦しみはやがて、学びにすることができる。
なぜそんなことになったのか。なぜそんな目に遭ったのか。
それを見つめ直して、自分にとって「いいように解釈」してあげて、いいのである。
相手が何を思っていたのか。自分はどう受け止めていたから苦しかったのか。
そうした理由を、自分にとって優しい方向で、見つけてあげるのだ。
他人を恨む気持ちも、恨む自分を卑下する気持ちも、
状況を嘆く気持ちも、失敗した自分を後悔する気持ちも。
あらためて見つめ直せるときがきたタイミングで、タマネギの薄皮をむくみたいに少しずつ、
見つめ直していけばいい。
解釈だって、何度でも、変わっていっていいのだ。
かの本村氏も「死刑はそれを宣告されることによって、自分の犯した罪を見直し、悔い改め、
限られた時間を生き直すきっかけとなる」と思うようになった。
その解釈にはすでに、「恨み」ではないものが、含まれている。
苦悩は、そうやって使えれば、決してムダにはならないのだ。
それにたどり着くまで、時間がかかってもかまわない。
時間がかかったことにより、また別の学びや視点が加わり、得られるものがあるから。
あなたは、気づいたときから新たに、自分を解釈し直していけばいい。
いつであっても、遅くはない。気づいたそのときから新たに、やり直していけばいいのである。
たとえそれが晩年の、死の間際であったとしても、本当はかまわないのだ。
ただ、ゆるゆると楽に、幸せに生きられる時間が長いほうがいいとは思えるので、
願わくはそのようなときが、あなたに合ったタイミングで、なるべく早く、訪れますように。