ここから新たに始める、ということ(4)

私はそうした視点の切り替えを、30代後半になるまでできなかった。

姉は同じ両親に育てられても、若い頃から適度に「手を抜く」ことも知っていて、

その辺のバランス感覚は間違いなく、私より長けていると思う。

私のほうが、ずっとずっと不器用なのだ。

でも、それが私。

不器用なりに、間違った部分はあったけどがんばって、

がんばれていたときには、仕事も相当、楽しかった。

その経験は積むことができた。それは今でも心の財産にはなっている。

あとは、やり方を、生き方を、また学んでいけばいい。

ボッキリ折れたけど、その折れたところから、新たに。

折れるまで気づかなかったお馬鹿さんなんだから、うん、もう、それでいいや、と。

折れたからこそ、人の命の尊さを知った。

人の傷の痛みも、前より気遣えるようになったし、変に同情せず、いきなり説教もせず、

人というものを、見つめられるようになった。

私の場合は、折れるまで気づけなかったんだ。

折れた、学んだ。じゃあ、それを次から、生かしていこう。

同じまま、同じところに立ち止まって、親に縛られ、自分を卑下し続ける必要もない。

これは、ポジティブシンキングだろうか。

あるいは、開き直りだろうか。

どう解釈されても、かまわない。情けないヤツだと、人に笑われてもいい。

自分を追い詰めるよりは、よっぽどマシ。

人は生きていくうえで、何かしらの傷やゆがみ、「いびつさ」を、抱えていく。

私は、私自身を殺したくなるような受け止め方、考え方、やり方だけは、もうしないのだ。

周りの目のために、見栄のために生きる必要もない。

私は、バカな自分を、バカだなあ、って、かいぐりかいぐりして、生きていっていいのだ。

そういう自分を、ゆるしてあげて、いいのだと。

こうしてゆるみ始めた自分を、最近、人は「優しい」と言ってくれるようになった。

自分では、そう言われる理由が実はよくわかっていないのだけれど、

もしかしたらそれは、きっと、自分に優しくなれたからだろうと思う。

そういう副産物も生まれているのなら、よかったよかった。

あなたもまた、今、苦しんでいる最中であるのなら。

その苦しみはやがて、学びにすることができる。

なぜそんなことになったのか。なぜそんな目に遭ったのか。

それを見つめ直して、自分にとって「いいように解釈」してあげて、いいのである。

相手が何を思っていたのか。自分はどう受け止めていたから苦しかったのか。

そうした理由を、自分にとって優しい方向で、見つけてあげるのだ。

他人を恨む気持ちも、恨む自分を卑下する気持ちも、

状況を嘆く気持ちも、失敗した自分を後悔する気持ちも。

あらためて見つめ直せるときがきたタイミングで、タマネギの薄皮をむくみたいに少しずつ、

見つめ直していけばいい。

解釈だって、何度でも、変わっていっていいのだ。

かの本村氏も「死刑はそれを宣告されることによって、自分の犯した罪を見直し、悔い改め、

限られた時間を生き直すきっかけとなる」と思うようになった。

その解釈にはすでに、「恨み」ではないものが、含まれている。

苦悩は、そうやって使えれば、決してムダにはならないのだ。

それにたどり着くまで、時間がかかってもかまわない。

時間がかかったことにより、また別の学びや視点が加わり、得られるものがあるから。

あなたは、気づいたときから新たに、自分を解釈し直していけばいい。

いつであっても、遅くはない。気づいたそのときから新たに、やり直していけばいいのである。

たとえそれが晩年の、死の間際であったとしても、本当はかまわないのだ。

ただ、ゆるゆると楽に、幸せに生きられる時間が長いほうがいいとは思えるので、

願わくはそのようなときが、あなたに合ったタイミングで、なるべく早く、訪れますように。

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