今日の話は、ちょっと難しい、と思われる人もいるかもしれない。
私たちがふだん、なにげなくやっていることを、細かく分けてみる話だ。
なかには、自分が責められているかのように感じるとか、
そんなことできるわけない、と怒る人もいるかもしれないが
(そして怒るということ自体、とても意味があるのだが)
まずは最後まで読んでみてほしいと願う。
私たちは誰かと接するときに、
1 話された言葉や起こった出来事、という事実に基づいて
2 その意味や理由を自分なりに解釈し
3 内容に対する感想や相手に対する感情を持つ
という手順で判断や行動を行っている。
こうやって書いてみると、結構、複雑なプロセスなのだが、
それに要する時間は一瞬で、返す言葉も、思い浮かんだ通りにしゃべっていることが多いと思う。
思い浮かんだ言葉をいったん心のなかで並べ、それでいいかを確認するのは、
かなり慎重になっているときくらいだろう。
で、注目してほしいのは
2 その意味や理由を自分なりに解釈し
の部分だ。
ここに、かなりの割合で「過去の出来事に基づく、もともと持っていた相手への感情」が
加わってくる。
本来であれば3のプロセスであるものが、2にも混ざるのである。
例を挙げてみよう。
あなたの家の近所に、とてもうるさいおばあさんが住んでいるとする。
ちょっとでも自分の意に添わないとガミガミ怒鳴り散らし、
常に人を見下し、何かと意地悪っぽい態度を取っている(ように思える)相手だ。
ある日、そのおばあさんの家の前を通りかかったら、
上から細かい水滴が降ってきた。
見上げると、おばあさんの姿はないものの、
窓の鉄格子に並べられた鉢植えが濡れているのが見える。
このとき、あなたはどう思うだろう。
また人が通りかかるのも気にせず、水をまいたのね、と思うか。
この前、言い合いをしたから、私が通りかかるのを見て水をやったに違いない、と思うか。
気づかなかったのかな、水をやるなら確認すればいいのに、と思うか。
そして、あのおばあさんは本当にいつも、まったく! などと思うのである。
事実は、細かい水が降ってきた、である。
それなのに、一瞬でこれだけの解釈をしうる可能性があるのだ。
実はその水は、おばあさんが少し前に水やりし、鉢植えから落ちたしずくが
鉄格子に当たって跳ねたのかもしれない。
おばあさんは、人がいないのを確認したのかもしれない。
でも、2のプロセスの段階からもう、あのおばあさんはひどいことをする、と自分の中で
決まっているから、解釈も基本、悪いものしか浮かばないのである。
会社で、怒りんぼで大嫌いな先輩のボールペンのフタが、なぜかこっちまで飛んできたら
また何かエキサイトしてボールペンを振り回してるのか、と思うかもしれない。
イジワルか? とか。
でも、密かに恋愛感情を抱きつつある、憧れの先輩のフタが飛んできたら?
ドキッとして、そこにどんな意味があるか、一瞬考えてしまうだろう。
はい、つまりはボールペンのフタが飛んできただけで、そうなるのだ。
そのこと自体が悪いとか云々、以前に、
自分が常に、「事実をありのままに解釈してみる」のではなく
「過去に接したときに持った感情に基づいて」解釈を行っている可能性があることを、
まず知ってほしいのだ。
これが重なると「人が怖い」にもつながる。自分を卑下している人なら、なおさらだろう。
いろんな人が常に自分をいじめるんじゃないか、馬鹿にするんじゃないか、と、
まず真っ先に、その身構え、その解釈を準備してから、
つまり「畏縮する用意」を自分にほどこしてから、人と接してしまうのだ。
こうなると、すべての会話が「馬鹿にされた」「見下されてる」「イジワルされてる」
「また叱られてる」などにつながりやすい。
……わかるよね。そう、人間関係が難しくなる一方である。
では、このグルグルの感情から抜け出すための方法はあるのか。
一気にスッキリ、ではないけれど、少なくともその感情と距離を置き、
見直しをはかれるやり方はある。
それを続いて述べてみたいと思う。