受容を決めるのは、自分自身である ~前編~

(先の2つの話の続きですが、タイトルは変えます。また、今回は文体も変えます。ご容赦ください)

ここまで話してきたことが、たとえば鬱の人にとって

かなり厳しい内容であることは、私も過去の経験から承知している。

頑張りすぎをやめられないから、卑屈に近いあきらめにもなってしまうからこそ、

今、苦しんでおられるのであろうと。

だが、私はここで、明確にお伝えしたい。

今の苦しみから、自分を、自らの力で抜け出させる権利を「持っていない人」など、一人もいない。

たとえ万が一、現状では、誰かに自由を制限されていたとしても。

あなたの気持ち、あなたの心は、いつでも、あなたのものである。

自分の力で、その苦しみを「自分の元から手放させてあげて」いいのだ。

あなたは必ず自分で、自分の気持ちを、変えてあげることができるのだ。

鬱になったり、暗く悩んだりするのも、自分の受け止め方が関係している。

だからこそ自分でまた、そこを抜け出すことも可能なのだ。

あなたが本気で望みさえすれば。

そう、あなたが本気でそれを望みさえすれば、である。

誰かが魔法の杖を振って、あなたを一瞬にして苦しみから救い出してくれることはない。

たとえ一時的に抜け出せたように思えても、相手がまた気持ちや態度を変えれば、

あなたは元に戻ってしまうだろう。シンデレラの魔法が解けたかのように。

結局はその人に依存して、その人の気分や態度に振り回されてしまうことになるだろう。

自分で別の道を、別の受け止め方を、探してみる。

それがこの先、また「元の木阿弥(もくあみ)」に自分を戻らせないために、

かなり有効な方法であると、私には思えるのだ。

そのために必要な、しかも、とても重要なポイントのひとつが

「今の状態になってしまっている自分」を、まず最初に「受け容れる」ことである。

確かに即実行できるほど簡単ではない。でも実は、最初の壁はたった1枚だけである。

今、自分は、何らかの理由で、痛んでしまっている。

痛んでしまっていること自体は、今、自分でわかっている事実である。

今、自分は、その状態のところにいる。それは、事実である以上、仕方ない。

では、今ここから、「次に、どうすればいいのか」を、自分でつかんでいこう。

この気持ちのまま、ここにとどまり続けることを、自分で選ばなくてもいい。

ここにたどり着いたのも自分だから、きっとさらに、別の道があるのだ。

自分で、それを探してもいいのだ。探すことを、自分は、ゆるされている。

今のところから新たに自分に優しくできる道を、今、ここから、これから、

私は自分で探していってもいいのだ。

そう。何も遅くはなく、何も手間取ってなどいなかった。今までは自分の学びとして

自分には必要な時間だったのである。

これを今、あなたが、静かに思うことができれば、それでいいのである。

(後編につづく)

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