苦しみは100%悪、か ~後編~

他者は、あなたをサポートはできるけれど、

あなたの代わりに価値判断することはできない。

それをすると、その人がいてくれないと何も決められず、

何も選べず、何もできなくなることを、普通なら、

どちらの立場であっても、感じ取れるから。

そして、この「サポート」こそ、お互いの心に温かいものを生み出し、

サポートだからこそ、よい状態で支え合える。

苦しみを超えると「思える」かどうかは、ひとえに、

あなた自身の選択にかかっているのだ。

苦しいことは、それを苦しいと捉えるからこそ、生まれる。

これはとくに、死に関わる経験(自分であれ、他者であれ)をした人なら

容易にわかるだろうと思える。

どうしようもなく、そこへ「巻き込まれる」ような感覚があるだろうし、

そのときは、止めようがない、と感じるだろう。

でもね、その悲しみや苦しみは、「今は」感じていても、いいのだ。

苦しめ、と言っているわけではない、そこは誤解しないでほしい。

でも「自分ではどうしようもないこと」は、確かに起こる。

それを「抱えていたまま」でも、受け止め方は徐々に変えられるし、

幸せ、ありがたさ、は、別なところで、その点とは関係なく、

感じ取れることが、できるようになっていけるのだ。

そのためには時間という回復薬が、必要なことも多いだろうけれど。

取り返しのつかないことは、うん、すまない、もう取り返しはつかない。

でも人は、そのままでも、新たに、別の視点では抜け出していくこともまた、

少しずつ、覚えていけるようになるのだ。

繰り返し繰り返し、自分を責め、他人を責め、それだけを考え、

誰かに依存さえ、しようとする。

そこだけを一生、考え続けていけば、確かに生きてるのさえ、止めたくなるだろう。

でも、それを一生考え続けていくかどうかは、

あなたが選ぶことができるのだ。

今はただ、どうしようもない苦しみという波、それが襲ってくることを、

自分に許していいのだと気づいていく。そう決めるのだ。

それがあるのを許すことのほうを、選ぶ。

この苦しみは、今、自分が「持っていてもいいのだ」と。

そう捉えることを選べば、実はやがて、その苦しみ自体が変化していく。

死に限らず、自分の外側で起こることは、

すべて、自分でいつか、捉え方を変えられるし、

結局それは、自分で自分をゆるめ、楽に、幸せにしてあげることにもつながる。

そんなふうに、苦しみは、学びにもできるのだ。

するとそれは、つらい学び方であったこと、に変わっていく。

そのためにわざわざ苦しみのほうを選択する必要はないが、

すでにある苦しみも、あなたの選び方次第で、大丈夫、新しい力に、

あなたが望めばやがて、できるようになるから。

「それがあったからこそ」より素晴らしい「よい人生」を選ぶあなたに。

これはそうなるための経験、受け止め方であったのだ、と。

苦しいけれど、苦しいままであっても、そうなることが、あなたには可能なのだ。

なぜ可能だなんて言えるか? すでに今、あなたが、苦しいから。

それこそが、実は証拠なのだ。

意味が今はわからない人はいるだろうけれど、本当に、そうだから。

苦しみは悪、とか、外側のことなんだから、やはり外側の

「代わりになるよいこと」で埋めないといけない、

そうでないと、私は幸せに「なれない」と

決めつけている人もいるだろう。

その憎しみも悲しみもつらさも痛さも。

今すぐは無理でも、自分には、本当は学びに変える、

その方向を選ぶ力が「すでにもう」あることだけ、

覚えておいてもらえたら、と思う。

それは「寂しさ」とはまた違う、弱いままで強い、

実は、自分にとって温かいものなのだ、と。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

code