世界がいかに自分という人間をかわいそうな者として扱ってくれるか

えー、タイトル文を打っただけでもう、厳しいことを書きそうですね、私(^_^;)

とりあえずそういうテーマにしたいと思えていますので、

すみません、できる限り真摯に、書いていこうと思います。

私がこの話を書こうと思ったのは、30代前半の頃、とあるバス停で

見知らぬおばさまから説教(?)をいただいたことを、ふと思い出したからです。

待ち時間にたまたま、そばに居合わせた私に対し、そのおばさまはなぜかいきなり、

私が結婚して家族がいるかどうか、探りを入れてきました。

私にとってはワーカホリックの時代でしたので、たぶん肩をいからせた

バリバリのワーカーに見えて、何かを心配なされたのかもしれません。

で、私が素直に、結婚しておらず、子どももいないことを告げると、

おばさまは「それがいかに将来、寂しい生き方になるか」を

説いてくださいました。ええ、バスが来るまで、こんこんと。

途中で私、飲んでいたペットボトルのお茶を鼻から吹き出しそうになったほど(笑)、

そのおばさまの頭の中にある未来の私は、年をとるにつれ

寂しくたそがれ、しおたれて、へこんでいってしまったのでした。

はい、まさに、余計なお世話、価値観の押しつけですね。

それから十数年経ちましたが、現在の私には

自分のことを本気で打ち明けられる友が複数存在しており、

しょっちゅう語り合えなくてもお互いを信頼しており、

しかもお互いにそれを「ありがたい」と感じることができています。

その視点を得られたことにより、私はこの先も、

そういう大切な人と巡り会う機会を自分で真摯につくれることになり、

死ぬまでありがたく、他者に感謝でき、幸せでいられるでしょう。

これはもう、はっきりと確信があります。なので、おばさまの意見は、

すみません、せっかくですがご愁傷さまです、ということになります。

で、私がそうなれたのは、鬱を経たからで、

その経験があったからこそ、そうした関係性もいっそう可能になったわけですが、

この過程で私は一度、自分を徹底的に卑下しまくっています。

まさに、そのおばさまが一部指摘していた「寂しくてどうしようもない私」には

まったく別の理由からですが、状況的には、なっていたわけです。

この私の、鬱の時代。

私は本当にありがたいことに、たとえどんな状況であったとしても、

自分をそこまで『みじめな者』として扱う必要がない」ことを、

心をこめて語ってくださる方々や書籍などに出会い、

いろいろ学ばせていただけたのでした。

そしてまた、自分をそうやってみじめな者として扱い、卑下することで

人は自分を死に追いやりたくなり、しかもそれを実行さえしてしまう、

実行したあとには、それがどれほど周囲にとって苦しいものを「与える」かまで、

実地で(←ここは本当に強調したい。それはとても厳しく悲しい現実でした)

学ぶことにもなったのです。

今の私の感覚として、ですが。

人間にとって、自分を自分で「本気で見下げ果てる」ことほど、

苦しいことはないんだな、と思えます。

自分で自分を痛めつけることだけは、自分から手放さない限り、

逃げられないこと、だからです。

が、しかし。

その最中で、卑下しているからこそ「恵まれない私、かわいそうな境遇の私」

という視点も生まれやすくなります。

するとその視点が生まれたとき、他者に哀れんでほしい、という気持ちも生まれます。

そして、自分を卑下しているのが苦しすぎるがあまりに、

「自分が自分を痛めつけている」ことを見ないようにし、

代わりに「かわいそうな私」をなんとかしてほしい、という部分にのみ、

意識を集中していくようになることも、ときに起こるのです。

以前に書いた『「かわいそう」ごっこ。』という記事は、その点について

述べたものですが、その奥にある本当の自分の気持ちは

「こんな自分なんて、私は認められない、見たくない」という、

『今の自分を絶対に受け入れたくない自分』なわけです。

見たくないのに、そのマイナスの部分で、

他者から哀れんでもらい、なぐさめてもらおうとする。

見たくないのに、利用する。矛盾しています。

ゆえに、どんなになぐさめてもらったとしても、

いつまでたっても、満足できません。

そりゃそうです。自分の中にあるその問題点は、何も解決できておらず、

放置され、しかもそのままの形で、見たくないはずなのに見える状況で

わざわざ「自分によって利用」されているからです。

なぐさめてもらうためには、どうしてもそのままの「悲惨な私という状態」、

その視点を、自分自身がキープしなくてはならない。

自分を見下げるという、苦しいままでいなくてはいけないのです。

他者からのなぐさめで、自分が満足できるはずがありません。

だって私、実際にかわいそうでしょうが! と、

ここで怒りを感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

はい、あなたの苦しみを、決して侮ったり、嘘だと言っているのではありません。

あなたの苦しみは、確かに本物であり、つらく、苦しいことでしょう。

その点は本気で、本当に、否定しません。

私が言っているのは「自分で自分を見下げるという視点を『固定している』」ことであり、

そちらのほうの苦しさについて、述べているのです。

どれほど自分が哀れな者であるか。

それによって他者に大切に扱ってもらおうとすると、

結果は必ずといっていいほど、不満足、になります。

誰かとの間で共依存が起これば「うまくいっているときだけ」幸せになれるかも

しれませんが、今度はその人との間で苦しいことがたくさん、発生してしまいます。

なぜなら世界には、かわいそうな人がたくさんいて、

またそれをどう感じ、受け止めるかも「相手次第」だからです。

あのおばさまにとっては、私でさえ「かわいそう」の一人、哀れみの対象でした。

他者の感情や感性は、自分が支配・コントロールできるものでは、決してないのです。

「かわいそう自慢」をし始めたら、絶対に、他者より優位に立てません。

そんな競争、勝てるはずがないのです。

世界では毎日、悲惨なことが起こっていて、それがニュースでも報道され、

人々は毎日、ある意味では心を痛めています。

そのなかで「私はこんなにかわいそうです。だから私に注目して、

私をかわいそうな者として扱って、なぐさめてください!」と

声を限りに叫んでも、一瞬しか、あるいはいずれ、届かなくなるのです。

どうか、気づいてください。

他者が自分の痛みを本当には理解してくれないから苦しい、だけではありません。

その叫びの奥にあるのは「自分を見下げ果てた自分」という、苦しさなのです。

どんなに身体的、環境的、心情的に、苦しい状況にあっても。

人は、やり直して、というより、はっきりと以前とは違うくらい、

あらたなよい人生を「歩んでいい」のです。

私がよく例に出す星野富弘さんも、そうした一人です。

頸髄に損傷を負った元・体育教師。

首から上しか動かせなくなってから「絵や詩を描く楽しさ」に目覚めた人。

花などの自然を美しいと思い、楽しんで描くからこそ、

人の心にも美しさが伝わり、心を和ませます。

この人が、かわいそうな私、でとどまっていたら、

彼の美術館など、できはしなかったでしょう。

あなたは自分を、そこまで見下げ果てなくても「本当にいい」のです。

どうしても視点の切り替えが難しければ、他者の「サポート」を、受け取ってください。

哀れみや同情ではなく、自分の視点を変えるためのサポート。

それは書籍や、カウンセリングや、同情ではない共感を持ってくれる相手などの

ところで「意識さえすれば」受け取ることができます。

そして「今は受け取って」、あとで、また別の他者に恩返しすればいいのです。

いろいろと、厳しいことをはっきり書いて、ごめんなさい。

でもどうか、気づいてください。

「自分を見下げる」ことをやめられるのは、あなた自身、だけなのです。

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