言われたことは上手に「使う」

ここのブログを読んでくださっている方のなかには

苦しみを抱えておられる方も、いらっしゃることと思います。

そういう方は誰かから、あるいは私のこのブログでも、

「イヤなことを言われた」と感じたときに、

心の弱い部分に刺さって深く傷ついたりされることも

きっと、あるでしょう。

そしてたまたま、私が拝読している、

心についてのヒントをいつもくださるブロガーさんが、

一昨日と昨日、3人も連続で(!)

「そう受け止めているのは自分」ということについて

見解をいろいろ述べておられ、

そうだよなあ、それをどう「使うか」だよなあ、と改めて思えました。

で、そういう方向で話を書いてみます。

他者の何かの言動で「傷ついた」と受け止めた場合。

誰かに直接言われたにせよ、記事などを読んだにせよ、

その受け止め方をする際には、心の内側で実は

「自分を守りたい」という気持ちが、必ず働いています。

そしてそれは決して、悪いことではないと思えます。

「自分が大事」であることは、とても大切な感情、心だからです。

が、しかし。

ここでやっかいなのは「そのあと、それに対する解釈を

どうつなげるか」の部分。マズイ例をいくつか挙げてみましょう。

パターンA:「やっぱり私がダメなんだわ」

→言ってきた相手にとって「たまたま今回そうだった」ことが、

なぜかいきなり「世界中の人から指摘されたかのごとき

絶対真理」に、勝手に変換される。

この場合は「今回、この相手に、たまたまそう解釈された」

という「事実」を、自分がまず客観的に把握しようよ、という話。

そして「過去の記憶」も同様に客観的に見て、

それでもなお思い当たる節があって、自分で「ダメ」に思えるなら、

他者にそう思わせる「クセ」をあなたが持っている傾向にあるのかもしれない。

ならば、そこに気をつければいいんじゃない? という「サイン」であって

「あなたが絶対的ダメ人間である証拠」ではないということです。

パターンB:「そういうあなただって、いつも!」「それはあなたのせいで!」

→はい、これは「卵が先か、鶏が先か」……ですね。

口に出すかどうかは「別」として(←ここ、すごく重要!)

今まで、あるいはいつも他者を非難・批判してきたのは、

果たして「どちら」でしょう?

あなた自身がこれまで、

心の中で「他者(その相手のみならず)を、勝手に論評・批判・判断」ばかり

実は「し続けていた」ことを、今回、相手が鏡のように、あなたに示して

くれたってことはありませんか?

ここはかなり、ぶっちゃけて厳しい表現で伝えてみます。

仕事・プライベートに関わらず、もし何か・誰かを批判するなら、

あなた自身がその際に、すでに代替案を持っているべきです。

しかも「自分にとってのみ」「相手にとってのみ」

都合のいい代替案、ではなく、

「双方にとって都合のいい」ものを。

出来上がってきたこと・もの、あるいは起こった「事象」に

文句をつけるだけなら、子どもにだってできるのです。

たとえ相手が「先に」ひどくて、その反論的な批判であったとしても。

あなたが常に代替案を探そうとする(自分だけの決めつけ・確信でなく、

お互いで一緒に探して確認し合おうとする)、そういう姿勢でいて、

いつでもそうありたいと思っているのなら、反射的にせよ、

「あなただっていつも!」という気分にはなりにくいはず。

そしてさらに、もし「ひどい言葉」を投げつけられたにせよ、

それは相手の側も、自分自身に問題を抱えているせいであって、

その人からの八つ当たりの面も結構あることは、想像できうるはず。

そうしたらもう「傷つく」必要も、そこで消えるのです。

パターンC:「どうしてそんなひどいことを言うの?」

→これは「冷静さ」を相手に伝えるためなら、意味アリの解釈です。

あくまで落ち着いて、相手に「なぜ」を問うのであれば。

が、しかし。「哀れを誘う」ための使い方もありますね。

その使い方、つまり「私がかわいそう」につながると、危険です。

「だって私はこうなんだから、○○『してくれたって』いいじゃない!」

はい、まんま「かわいそうごっこ」です。

自分の不幸を相手に見せて「だから特別扱いしてね」って押しつける。

これ、何か問題が起こると、自分への言い訳にも使ってしまいます。

だって私は「こんな状態なんだから」、

ちょっとくらい、いいじゃない。

ちょっとくらい。それはイコール、

「よくないこと」だと心の奥では、自分も知っている。

こうなるともう「ゆるし」ではなく、

甘え、依存、ひどい場合は単なる自分勝手、ですね。

自分でも本当は「ゆるし」てないわけです、現状を。

「たまたまうっかり」ならまだともかく、

それを意図的に続けると、やがて他者は、

はあ、そうですか。じゃあもうあなたを特別扱いするの、

かなり疲れたので、私は離れます。

で、関係がおしまいになります。

この亜流として、先日書いたような「こんなにがんばってるのに!」も

たぶん、含まれることでしょう。

以上、今、私が思いつく、大きな「勘違い・誤解の解釈」3つほど。

ほかにももっとあるかもしれませんが、いずれにせよ

「自分を守りたい」が、変な方向へ走っていってしまうように、

私には思えます。

傷ついたときに

「傷ついた」「傷ついた」「傷ついた」

「ひどい、傷つけられた」「私が、傷つけられた」

「私が」「私が」「悲しい」「傷ついた」

の部分で立ち止まってしまうと。

あなたは自分の「心」の回りに、その言葉と思いの数だけ、

自分を守る、囲うための「立派な柱」を立てていきます。

そうして傷つくたびに、先に書いたような悲しい解釈をつなげ、

つまり、自分が「傷ついた」という思いからは離れず、

その本数だけ、柱を立て続けていったら?

やがて、あなた自身からも、あなたの心は見えなくなります。

「傷ついた私の、傷ついたと思った分」だけの柱が

乱立して、あなたの心を囲ってしまって。

「他者から傷つけられ(続けてき)た、ゆえに

不幸を背負った、あるいはこんなにがんばってるのに報われない、

またはダメな、またはかわいそうな、つまり、どうしようもない自分」

が、はい、大量の柱囲いによって立派に完成、です。

それは自分を守ってくれますが、

逆に言えば、自分「だけしか」守りません。

他者の思いや都合、折り合い、は、そこから消えていく一方です。

そして実は、自分を守っているようでいて、そこから

抜け出せない牢獄みたいなものになってしまいます。

なんせ自分でも「自分の本心」を見えなくしてしまいますから。

そして他者には、そこからあなたを「救い出す」こともかないません。

だってあなたは自分の「解釈」(つまり自分の選択)で、

その柱囲いを立て続けてきたのだから。

柱囲いのなかで「いつか王子様が」

「物語に出てくるような優しいお母さんのような人が」

って、待っていたって、直接的には誰一人、

手が「届かない」のです。たくさんの柱の向こうですからね。

だからその柱、まず自分で、壊していってください。

自分で解釈を変えて、見つめて直してください。

少なくとも途中までは、自力、なのです。

壊し始めてから、つまり実際に意識を変え始めると、

もしかしてその後、助けの手も現れるかもしれません。

でも最初のうちは、自分が「破壊を決意する」しかないのです。

そしてあなたにも必ず、その力はあります。

あるからこそ、そこまでたくさん、柱が立てられたのです。

本当に、ちょっと違う角度に、その力を使ってみるだけでいい。

「何を意味しているのか」「なぜ自分はそう感じるか」を

見つめ直すほうへ、そのチャンスとして、出来事を使うわけです。

そこで立ち止まるのではなく。本当に、チャンスですから。

そのためのヒントを述べてくださっている3人の方を、

勝手ながら今回、ご紹介しておきます。別にイヤミではないですが

今日、こんな指摘について書いた私にこれ以上言われると、

それこそ「傷つく」でしょうから(^o^;)

◎心屋仁之助センセ

■ジャッジする、ということ。

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11833428839.html

◎スピリチュアルティーチャー癒羽(ゆう)さん

プラスに働く気づき
(コメント欄で私が質問し、さらに追加のヒントもくださっています)

http://ameblo.jp/healingspaceyou/entry-11846611890.html

◎ワタナベ薫 さん
(「心&身体の美人」に関するカリスマブロガーさん。
プロのコーチングカウンセラー&実業家でもあられるようです)

傷つかない心の作り方

http://ameblo.jp/wjproducts1/entry-11847820426.html

勝手に引用リンクを張らせていただきましたこと、

心からお詫び申し上げるとともに、

気づきを与えてくださったことに感謝いたします。

 

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