えーと……軽~く自戒も込めての……指摘(と今日は言い切ってみる)。
ものごとを、行うにあたって。
人と、つきあうにあたって。
「できたか できなかったか」しか、
「うまくいったか いかなかったか」しか、見ない人がいる。
どんなに「過程が大事だよ」と言っても、
相手の反応(あるいは成果)だけで、
自分をも、判断してしまう。
ねえ、その前に。
それをするとき(一緒に過ごすとき)、ワクワクしましたか?
ドキドキして、ウキウキできる部分、探しましたか?
それを目指してやってみて、
やってる最中に「ふふふ」「えへへ」って、
自然に笑みが、勝手にこぼれてくるところ、
あるいはそういうやりとり、
きちんとありましたか?
実際、そういう自分が、そのときにいましたか?
途中のところどころで、見つけられましたか?
結果の前に、「過程」を存分に味わっている
自分がそこに、いましたか?
もし、そうでないのなら。
「~であるべき」「~でなければいけないのに」
「~にならないと、ダメなのに」
そういう理由「だけ」で自分に強制、していなかったでしょうか?
仕事でさえ、「~であるべき」だけでやってたら、壊れます、いつか。
無理です。だって、自分が味わえてないもの。
たとえ味わえていたって、やりすぎたら壊れるのに、
味わえなければ、そもそも、無理です。
まずは、探してみてください、「過程」のなかで。
結果は、一切、と言えるくらい見ないで、過程を見てください。
過程が楽しくなければ、結果がよくても、次につながりません。
過程で「自分に無理をさせる」「自分に嘘をつく」
「相手の条件だけ鵜呑みにして、自分がどう感じるかは『封印』する」
そんなことやってたら、絶対、うまくいかなくなります。
結果も、だんだん、悪くなる一方です。
最初はごまかせても、続きません。
だって、自分を無視してるから、それ。
自分を大切に扱ってないから。
自分が何を「味わっている」のか、わかってないから。
結果だけを見る、ということはつまりそこで、
人目だけを気にする
評価だけを気にする
ほめてほしい
認めてほしい
わかってもらいたい
って感じで、ほぼ、他者の目線が絡んできます。
一人で黙々と何か作品を作るとか、
そういう芸術的なことでもやってない限り、
何かを行った結果には、たいていは他者が絡むので、
そこしか見ないってことは
「他者の意見を気にしまくる」部分のみで
生きている自分がいる、ってことです。
相手が子どもであれ、大人であれ、その人から
自分を「よいほうに見てほしい」わけです。
で、相手は自分の思い通りには動きません。
当たり前です。
なのに「できなかった!」って、
相手を責めたりする。
自分を責めたりする。
ねえ、それ、意味不明だよ。
相手に、自分が望んだとおりの結果(ふるまいや評価)だけを
出してもらうには、どうすればいいか、ってことのみ、考えてる。
相手を、そんなにも、操りたいの? あるいは、
そんなにも「よい子」として、頭をナデナデしてほしいとか?
(あ、もちろんこれは比喩ですよ)
できたかできないかだけで、
相手の反応だけで、
人生を生きてたら、そりゃ、疲れるさ。
私がやっても、壊れるわ、それ。無理。
いい加減、自分を大切にしたら?
いい加減、自分で「自分が楽しめる過程」を、見つけたら?
見つけられない相手と付き合うの、やめたら?
自分に嘘ついて、あるいは相手のご機嫌取りして、
なんとか「結果だけ」出し続ければ
その先で「きっと幸せがつかめる」って、思ってるの?
自分の思いを無視する人に待ってるのは
自分の「過程」を見ず、自分が感じることを大切にせず、
過程はどうだっていいって、無視する人に待ってるのは
そうやって自分に嘘をつく人がつかめるのは
いつもね、
孤独と不幸せ、だよ、ごめんね、残念ながら。
だってあなた、根本的な「ウソツキ」だもの。
自分で自分に嘘をついて、それで幸せには、なれません。
でも、どうしても「認めてほしい」だけを目標にするなら
幸せのほうは、あきらめたほうがいいですよ。
ずっと、ずっと、ずっと、苦しいままでも
なんかいつも必ず、うまくいかなくても、
「結果だけ」求めていくほうが、いいんだものね。
まあね、まだ、動けるだけマシ、って話にもなるけど。
普通は結果(の評価)だけ見てたら、
そのうち、怖くなって動けなくもなるよね。
それでも「結果」だけで生きていきたいなら
別に無理矢理には、止めませんけどね……。
その選択は確かに、あなた次第、ですから。
でもなんで、あなたは、そっちを選ぶんだろうね。
一生、苦しくて、一生、自分を嫌ったままに、なるかもしれないのに。
なぜ、そっちのほうが、いいのだろう……。