誰かに対し、何かをした結果。
それが
負け
望みの形では受け止めてはもらえない
相手がスルーしてしまった
であったとしても。
やった『自分』が
うれしかった
楽しかった
スッキリした
軽くなった
のであれば、それで、何も問題はない。
それもまた、とてもステキなやり方のひとつ。
自分が心地よく感じるかどうかは、
常識だの
『~ねばならない』だのとは
一切、関係ないところの視点だから。
逆に、自分にそういう感覚がないのに
何かをしてあげたいのであれば、
人の為 = 偽
になってないか、自分で感じてみて。
それはときに、相手から、あるいは周囲から、
代わりに自分が何かを受け取りたいがための、
計算された演技かもしれないから。
演技されて、本人がホントにはそう思ってないことを
さもその通りであるかのようにされたら、
あなたはそれ、本気でうれしい?
ウソをつかれる、騙されるような感じ、は、
まったく、全然しない?
自分にウソをつくことは、
結局、他人にもウソの自分を示すこと。
そして他人にウソを示しても、
そのウソを完璧に示し続けない限りは、
望むもの、受け取れないと思えるよ。
ウソをついて得る温かさや信頼は
ウソとばれた瞬間、相手にショックを与えてしまう。
ひどい場合はたとえば『私のせいであなたが
そんなことをしなくちゃいけなくなったのか』
というふうに、衝撃を与えて、
相手のほうが何かを崩壊させてしまうよ。
だからそんな演技、しないほうが
結局は、相手のためにも自分のためにもなるんじゃない?
誤解が、起きないもの、お互いに。
自分にウソをついておきながら
なぜあなたは、私が自分にウソをついてまでやってあげたのに、
そのウソをついた努力を認めてウソをついた通りに受け止めてくれないの? って
求めるのは、やめよう。
そんなことするくらいなら、自分が
すがすがしく、軽くなれるほう、選ぼう。
そういう練習をすれば、自分がやったことも
後悔しないようになっていけて、
やったことのそれぞれが『結果に関わらず』
学びのための宝物になる、
得られるものがあると、私には思えるよ。
やってあげる、ではなく、自分がやりたいからやる、結果がどうであれ。
結果を望んで、やりたくないことをやると、
親切を押しつけることにもなりかねない。
もしあなたが今、そういうふうに苦しいのなら、
相手に恩をかぶせないでも済むように、
自分に気持ちのいい選択、していこう。
Photo by theodore moniodis
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