自分からの加害による「被害者」

今日は「他者が、世間が、社会が悪いのに!」と

『他者責め』だけに集中する方には、全く向いていない記事を書きます。

その真逆、何かあるごとに、自分を責める人に対する話しかけです。

 

新型鬱の方でなく、従来型の鬱の方に向けた話、とも言えますね。

新型鬱の方は、読んでも当たり前過ぎて、

私がこれをわざわざ説明する意図、きっとおわかりにならないことでしょう。

その点は、おゆるしください。

 

さて、自分を嫌って、しかも

良い悪いで自分を裁き続けていく限り、

あなたは『被害者』の気持ちから抜け出ません。

そして同時に『加害者』でもあり続けることになります。

 

それは、自己完結型のループです。

自分に加害する

→そのことによって自分を被害者にする

→被害者になってしまった自分を責めることで、また自分へ加害する

→自分を被害者にする……

このループに、延々ハマるのです。

 

ここに他者の存在が加わると、

もっとややこしいことになりえます。

 

たとえば、嫌われたくないあまりに、

私さえガマンすれば丸く収まる、などと

自分を別の形でも、いろいろ加害し始めるから。

 

今、あなたが自分のことをキライだと思っているのは、

その嫌な部分を無くしていきたい、

自分を良くしていきたい、と思っているからですよね。

嫌な部分を無くせないから、消せないからキライ。

 

では、質問しますよ。

良くなっていきたい、と思うのは、なぜでしょう?

見栄でしょうか? 誰かに認められたいからでしょうか?

 

では、誰かに認められたら、そのときどう感じるでしょう?

 

こうやって掘り下げていくと、気づけるはずですよ、

それをやろうとしている奥のほうに、ある気持ち。

 

きっと、薄々、気づいている方はたくさんいるでしょう。

本当は自分のこと、認めてあげたいから、

自分のことを、本当は好きになりたいから、ですよね?

 

好きになりたいのに、ならせてくれない。

 

私が、私からの加害によって、

私を「深くは好きにならせてもらえない」……のです。

 

さあこれ、どこかで思い浮かべたことがあるような

フレーズではないですか?

 

心底、好きになりたいのに、ならせてくれない、信じさせてくれない。

私に、ひどいことをするのはなぜ?

 

……どこかで、この気持ち、

思ったこと、ありませんか? 他者に対して。

パートナーに対して。親に対して。

彼氏、彼女に対して、等々。

 

そう、あなたが、自分にひどいことをし続けるから、

「結果的に」他者からも、同じことをされる「ように受け止める」のですよ。

実際、ひどいことをされたりもするでしょうしね。

 

あなたの『自分に対する扱い方』を見て、

他者も『あなたという人間の扱い方』をそこから学ぶ。

あなたが、見本を見せ続けているのです、わざわざ自分から。

 

しかも自分のことを、ひどい扱い方しておきながら、

他者が同様のことをした途端、はい、さらに「被害者」気分、にハマります。

 

責めているわけではないのです。

それ、つまりは、自分で自分をわざと、余計に苦しめているよね、

だからこそ、より苦しいし、被害者気分「だけ」にも陥ることがあるんだよ、

ってことに、気づいてほしいのです。

 

じゃあ、そのループから抜け出すためには。

あなた本人が、

よいか悪いか、

正しいか間違っているか、

という判断基準でなくて、

たとえ悪かろうが間違っていようが、

自分にとって苦しくないほうを選ぶ。

それが本当は大切なことなのだろうと、私には思えます。

 

自分が『より苦しむ』ようなことは単純に、

一切、やめていく。

その意志を持つ、ってことです、勇気を持って。

 

こんな自分にそんな親切、してあげたくないかもしれません。

だからあえて「勇気」という言葉を使います。

 

心屋さんはさらにそこで、

それでいいのだと開き直れ、

とおっしゃっていますが、

いきなり、そうはできない人もいるでしょう。

 

とくに幼少の頃から、

自分を責めることで場を丸く収めてきたタイプの人にとっては、

自分の判断基準をそんなふうに変えることは、

イコール、他者から責められること、

その恐怖心に、回路が繋がっているかと思います。

 

そんな『他人から認めてもらえなくなりそうなやり方』なんて、

怖くてできない、と。

 

でも、苦しいくせにそうでない振りをする、

ウソのあなたを認めてもらっても、自分で本当には、喜べないのです。

ウソをついている自分は、本当のあなた自身の『実力で』

認めてもらっているわけではない。

何より、他者に「ウソをつき続ける」という、

ひどいことを、してしまっています。

 

そして他者もまた、それがウソであることは、薄々、どうしても感じてしまう。

どうしても、うっすら「あれ? なんでそんな無理をするの?」という

不可解さを、あなたに対して感じるのです。

 

つまりその『ウソをついて無理する』というネコの皮、はがれています。

ところどころ、必ず、何かの拍子に、はがれます。

うれしくならないほうを、あなたが選択するからね。

 

だからこそ、人間関係がややこしくなりがちなのだと、思えますよ。

 

もう一度、言います。

自分にとって、より、苦しくないほうを、選ぶ。

ガマン耐性が高い人ほど、

あっちもこっちも苦しい、という状況に陥りがちですので、

最初は「苦しみが少ないほう」を、選んでください。

それがたとえ常識外れに思えても、です。

 

そうすることで初めて、あなたは『自分が今まで捉えていた常識』、

その枠の狭さに、気づけるようになります。

 

あなたの『良い』『正しい』の判断基準の枠は、

無理を続けてきた結果、すごく狭く、小さくなっています。

 

どんどん、恐怖心を大きくして、どんどん、可能枠を狭める。

針の穴くらいしか「許可」が出せない状態です。

そして枠の外側は全部、

他者か自分を責める材料に変えてきましたから、

その枠は本当に、狭くて小っちゃく小っちゃくなってしまっているはず。

 

だからこそ、良い、正しい以外のものを、練習してみるしかないのかも、と、

私には思えるのです。勇気を出して、ね。

 

練習ですから、最初は、行きつ戻りつ、するでしょう。

相手がいれば、その人に上手く伝わらないことも、起こりうるでしょう。

 

でも必ず、確実に、自分の器は大きくできます。

不必要な枠を外してみることになるので、

そりゃね、器は、大きくなりますよ、勝手に。

 

そして「より苦しくないほう」を、見つけられるようになったら、

今度はさらに「自分が心地よく感じるほう」を

選択基準に加えてください。

これを加えることで、意図しない「他者への加害」も、

ネコの皮の厚さ、枚数も、ぐんと減ります。

それが減れば、また、自分への加害も、減らせるでしょう。

 

良い、悪いではない、判断基準。

自分の気持ちの奥を探るのが、苦しくてまだまだ難しい人は、

それこそ「より、自分にとって苦しくないほう」を、選んでみてください。

 

そうやってあなたに、少しずつでも新たな気づきが、

どうか生まれていきますように。

 

2015_07_10

Photo by netzanette
ID:201303191600
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