昨日の、続きのような話。
「人というのは本当は、わかりやすく満面の笑みが現れるような幸せを
続けていける状態にしなければ、
人生がうまくいっている、とは言えないのよ!」
と、信じきっているかのような人へ。
突然だけれど、今日はマンガの話を例にさせてね。
知る人ぞ知る『ガラスの仮面』。
たぶん、コミック版の1巻か2巻(笑)の時代、
主人公の北島マヤは、あるきっかけから、
生涯のライバルとなるあゆみさんが通う演劇学校へ体験入学する。
その日の授業はパントマイム。
先生が「はい、笑って!」と課題を出すと、
他の生徒はゲラゲラとお腹を抱えて笑うしぐさをするけれど、
マヤは単純に、口元に微笑みを浮かべた。
次に先生が「はい、クギを踏んだ!」と言うと、
他の生徒は足を抱えてイタタタ(>_< )という動作をするけれど、
マヤは足の甲を少し傾け、足元を見るしぐさをするだけ。
先生がマヤに「君は何をやってるんだ!」と指摘すると、
マヤはとまどいながら
「え、はい、あの、クギを踏んだなと思って」
つまり自分の足元を見てみた、と答えるのだ。
そして先生から、それはよい演技ではない、と、叱られる。
その授業が終わったあと。
マヤのいない更衣室で他の生徒たちが、マヤの演技の話をして
笑いものにしているところへ、あゆみさんが口を出す。
彼女いわく、「口の端を上げる」のも、笑いのひとつ。
お腹を抱えて笑い転げる、大げさな演技だけが正解ではない。
また、先生はクギを踏んだ、と言っただけで、
クギが足に刺さったとは言っていない。
マヤは最低限の動きでしかも反射的に、要求に応えたのだと。
口の端を少し上げるだけで、
足の甲を傾けその下を見てみるだけで。
どうかな。
思い込みって、こんなふうに、自分の中で自然に決めてないかな。
こういうときはそんなふうにするもの、と、とくに何も感じずに
信じていないかな。
大きく笑わなくちゃいけないのも、
イタタタってやるのも、
「他者にわかりやすく」伝えるためだよね。
……自分の幸せな状態も、また、他者に対して、周囲に対して、
わかりやすく伝わる(見える、示せる)形でないと、
いけないとは思っていないかな?
そうやって周囲に認めてもらえるものでなければ、
うまくいったとは言えないんだと、どこかで、信じていないかな?
そこのところが、実は、あなたの苦しみを産んでいないかな?
あなたが幸せかどうかは、他者が判定するもの?
あなた自身の充足は、他者にも示せる形でないとダメかな?
心の中の、静かに落ち着いて、満ち足りたような感覚は、
他者へ『示せるくらいわかりやすいもの』でしか、得られない?
それをどうしても周囲に示したいとしても、心の中の充足は、
自然に自分の口角が上がっている状態になることや、
目の輝きからも、勝手に、表現させられるよね?
顔を上げ気味にして、口角も少し上げて歩いているだけで、
少なくとも、下を向いてムッとして歩いている人や、
ブツブツ言いながら眉間にシワを寄せている人、
ふんぞり返ってアゴを突き出している人よりは、
落ち着いていて充足感があるように、
もし見る側だったら思えない?
別に意識して示さなくても、
しぐさや表情にだってにじみ出るのだから、
いちいち見せびらかすところまでは、意識しなくてもよくない?
人生を幸せに過ごすため、楽しむためには、
いつも笑い転げていなくちゃいけないかな。
いつも、ウッキウキでワックワク、
跳ねるようにステップ踏んで歩かなくちゃいけないかな。
ニヤニヤ笑いがとまらないようなものじゃなきゃいけないかな。
周囲にそういった感じのものを、
わざわざ見せびらかさなければいけない種類の幸せって?
自分が「憧れているもの」程度なら、まだいいけれど。
誰かにわかりやすく示せる形のものを『持たなくちゃ、得なくちゃ』
という視点しか、持てないようであるのなら、
それって結構、偏りがあると、私には思える。
なぜそんなこと、示さなくちゃいけないのだろうね。
それ、下手すればマジで『演じるしかなくなる』ような事態に、
陥る可能性もある気がするのだけれど。
そうした『自分が望んでいるものって何なのだろう』ということにも、
あなたが今、苦しいのであればなおさら、
どうか、いつか、気づいてほしいな、と。
今の私はそう祈っていて、ゆえにこんな勝手な語りかけを、
今日もしているのです。
あなたが本当に『得てみたら、よかった』と思えるものを、
いつか見つけられますように。
できれぱそれが、外側だけの何かでなく、
自分の内側からも、自然に生まれる何かで、ありますように。
そういうものにも、気づけますように。
Photo by jenn_jenn
ID: 200807152100
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