監視をやめて、観察を

自分のこと、いつも「見ている」つもりで、

実はいつも、見張って、罵倒してるよね。

 

これまでに出会った、目上や同い年の人たちと同じように。

お父さん、お母さん、お姉さん、お兄さん、

学校や会社の人、道行く人からでさえ、だったかもしれない。

 

あなたの何らかの部分について、ちゃんとできているかどうか、

「監視」してくる相手。

監視されているかのように、『あなたが』感じる相手。

 

自分は、見られ、見張られている。

それがもはや当たり前の感覚となっているあなたは、

その監視者が実際には横にいないときでも、

みずから、その人の代わりになって、

自分をずっと見張ってきたよね。

 

失敗しているダメなヤツだと思われていないか、恥ずかしくないか、

ちゃんとしていると思われているか、

相手に「良く」思ってもらうこと、を、自分の当たり前にしてきた。

 

その結果。

真剣に見てごらんよ、イメージの中の、今の自分を。

その人の前では、いつもおびえて、正座して反省しているか、

その監視者のほうを向くことさえ、できなくなっていて、

ただ、牢獄にいる人のように体育座りして、

顔を膝に埋めていたりするはずだから。

 

あなたは、自分の目の前に監視者がいないときでも、

常に監視者の視点と一体化して、

ずっと、自分を冷たい目で見下げてきたんだ。

そしてバカにしたり、批判したり、点数を付けたりしている。

いつも、そうやって、自分を見てきたの。

 

ねえ、それ、観察じゃないよ。

ただの「牢獄の見張り番」の視点だよ。

他人の価値観に基づいた、他者の目からの、自分見張り。

 

観察って、非難することでも採点することでもないよ。

ただ、見るんだよ。

 

なんなら、もう1つ、今のあなたの状態、尋ねてみようか。

今、あなたは、鏡を見たくないはず、じゃない?

そこに映るのは、単なる自分。

なのにそれを、正視はしたくないはずだ。

 

「今の自分」を、まともに見つめてしまうような気がして、イヤだから。

 

あなたは今、自分に対して、自分の「視覚」さえも使わない。

それくらい自分のこと、ちゃんと見てないんだよ。

 

鏡の中の自分にも、いろいろな非難を、

監視者の立場から浴びせちゃうもんね。

それがもう、当たり前のやり方になってるからこそ。

 

だから昨日の記事でね、

私は『出会う』『見つける』って言葉で、表現したんだよ。

あなたは、自分の内側から、自分を、

自分の目、自分自身の心の目では、見てこなかったのだから。

 

今までは、自分の監視者で、つらかったね。

さあ、そろそろ勇気を出して、

監視者の目を外した自分で、自分に会いに行こうよ。

あなたはもう、自分の監視者じゃなくていいんだ。

それどころか、自分の友達、心許せる仲間に、なっていいのだから。

最初は「そっと遠くから」のつもりで、自分を観察、してみよう。

 

そこから、世界が変わっていくよ。

文字通り、あなたの「見る世界」が、

本当に変わり始めるから、ね。

 

2016_04_04

Photo by Oldiefan
Pixabay

 

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